第30話 初言
空が白み始めていた。
裂けた屋根の下へ冷たい明かりが入り、床の木屑も、落ちた剣も、少しずつ夜の色を失ってゆく。窓辺にはまだ灯が点り、その赤い光と朝の白さが、
膝に置いた左手へ、袖の内から血が伝う。指を開くと冷えたところが引かれたが、目は下ろさず、息を吸った。
「……
声は、思ったより低く出た。
「材料は、命です」
李慕言は、動かない。
肩を押さえた指の下で衣が濡れ、肘が僅かに上下している。
「命であれば、何でもいいわけではありません。……苦しんで、引き剥がされた命であるほど、良いものが採れます。安らかな死からは、採れません」
息を継ぐ間が空いた。
李慕言の足元にある剣の柄へ、細い光が一本届いていた。
「乱の夜には、丹は、完成していました」
「作り上げてから、私は、それを帝へ報告しませんでした」
李慕言の目が動いた。
「丹は、一粒です」
「一粒で、終わるはずがありません。帝は、老います。老いる者は、次を求めます。次の丹には、次の材料が要る。……材料が何であるかは、申し上げた通りです」
「完成は、終わりではありませんでした。始まりでした。あれが完成した瞬間から、この国のどこかで、誰かが苦しんで死に続ける。……それが、丹というものの正体です」
膝の上で、指を揃えた。
「報告する前に、記録を焼きました。それから」
次の言葉を形にするまで、沈曉は李慕言を見ていた。
「――人を、殺しました」
丹房の外で、鳥が鳴いた。
短い声が草のある方から届き、また静まる。
「百三十四人」
「あなたも、その数はご存知でしょう。焼け跡から百三十三。山門の外で、もう一人」
「――」
「殺したのは、口です」
沈曉は両手へ目を落とした。左の指の間に血が溜まり、右には、門柱に触れた
「知っている者を、残せませんでした。知っていれば、いつか語ります。語らずとも、知っているという事実だけで、危うい。……そう思いました」
「全員が、全てを知っていたわけでは、ありません」
声が一段低くなった。
「工程の、途中までしか知らない者が、大半でした。……薬草の目利きしか、していない者もいました。
光の中で、木の粉がゆっくり下りていた。
「それでも、殺しました。……途中まで、で、十分だからです。欠けた一段は、時と、上からの圧があれば、誰かが必ず埋めます」
沈曉は目を閉じ、また開いた。
「無実の者を殺したことも、この口で、申し上げておきます」
傍らで刃が
「知っていた者は、まだいます」
「実験に使われた者たちです。……あの人たちのことは、百三十四に数えていません」
李慕言の肘が止まった。
「帝が、朝廷から、密かに送っていました。死罪の者たちです。……私は、それを止めませんでした」
「――」
「止めるどころか、この手で。……何人だったかは、数えていません。数える資格が、自分にあるとは思えませんでした」
指が震え、膝の布に赤い点がついた。
「最後に、その人たちを楽にしたのも、私です。苦しみの中から引き剥がすのが、私の役目でした。……役目を終えた後、その人たちをそれ以上苦しめずに済ませることも、私の役目にしました」
喉を動かしてから、李慕言へ顔を上げた。
「あなたが、聞きたいのは」
「最初の言葉、でしたね」
李慕言は僅かに頷いた。
沈曉は窓へ目をやった。
同じ側に開いた窓から、十年前にも明かりが入った。そこへ向けて置いていた卓は、いま、折れた材の下にある。
「乱の、四日前でした」
「丹房で、私は、共に研究していた者と、話をしていました。……あの人も、道士です。長く、共に働いてきました」
「私は、言いました。作ってはならない、と」
「人の命で、人の命を延ばす道は、道ではない。……そう言いました。焼こう、とも言いました」
目を戻すと、李慕言はまだこちらを見ていた。
「その人は、言いました。王命だ、と」
「……そこで、終われば」
言いかけた息が、喉で揺れた。
「終われば、良かったのです」
沈曉は唇を一度閉じた。血のついた手を膝へ押し当て、次を継いだ。
「その人は、続けて言いました」
「――」
「一粒だけ、残そう。……味を、確かめるだけでいい、と」
窓辺の火が小さく揺れた。
「言ったのは、道士です。私と同じ、何十年も欲を削ぎ落とすことに費やしてきた男でした」
「その男が、丹を前にして、手を伸ばしたのです」
李慕言が、肩を押さえていない方の手を床へついた。
「私は」
「声を、荒らげました」
「お前も、欲しいのか、と」
李慕言の指が床を押さえたまま止まった。
沈曉はその指から顔へ目を上げた。
「生涯で、一度だけ大きくした声でした」
「その一言を、あなたは聞き取れなかった。……それが、あなたの十年でした」
李慕言は、動かない。
朝の光が、伏せた手の爪を白く照らしている。
「その瞬間に」
「私は、知りました。……これは、帝一人の欲ではない、と」
「道を修めた者ですら、手を伸ばすのです。何十年、欲を削いできた者ですら。……ならば、この知識は、誰の手にも、渡してはならない」
沈曉の指が掌へ曲がった。
「渡してはならないものを、この世から消すには、記録を焼くだけでは足りません。断片を知る者が、一人でも残れば」
「断片と、欲があれば。答えは、必ず、再現されるからです」
握った手を開いた。
「それを、証明したのが」
李慕言の目を見た。
「あなたです」
吐いた息が、次の言葉を伴わずに終わった。
外から入った風が床の紙を動かし、折れた梁の手前で止める。壁の継ぎ目はもう鳴らず、油の減った灯が、窓辺で細く燃えている。
床の光は三本になっていた。
語り始めたとき、剣の柄に届いていた一本の傍らへ、別の隙間から二本が伸びてきた。埃がその中へ入ると白くなり、外れると見えなくなる。
李慕言は、動かない。
ただ、口元を保っていた力が、僅かに緩んでいた。閉じた唇の間から息が漏れ、吸い直すまで、肩も上がらなかった。
「一つ、伺っても」
声は掠れていた。
「あの号は」
沈曉は顔を上げた。
「
「私です」
その返事だけは、すぐに出た。
「――」
「あなたが十四の年の、春です。あなたの師が、まだ号を決めかねておられた。私は隣の房におりましたので、書き付けを一枚、置いておきました」
「置いた、だけですか」
「はい」
「言ってくださらなかった」
「私が付けたと知れば、あなたが困ると思いました」
李慕言は床へついた手を見た。指を一本ずつ曲げ、木目から離した。
「出どころは」
「古い詩です」
「田舎へ帰る男の詩でございます。田も畑も荒れているのに、それでも帰ろう、と書き出す。……いい詩ではありません。愚痴のような詩です」
「なぜ、それを」
「知って、還れ、と」
「知ってから、還れ、という意味に取りました。……取り違えていたかもしれません」
李慕言の口が動いた。
二文字を、声にせず言ったように見えた。沈曉は膝へ目を落とし、その形を確かめる言葉を呑んだ。
「なぜ」
小さく震える声に、顔を上げた。
「なぜ、私を、斬りきらなかったのですか」
李慕言の肩を押さえる手から、血が一筋下りていた。
沈曉はその顔を見つめたまま、息を吸った。
「言えば」
「言えば、巻き込みます。……教えれば、近づけてしまいます」
膝にある両手を見た。
「あなたが、何も知らずにいてくれることだけが、あなたを、この知識から遠ざける、唯一の方法でした。……だから、命までは取りませんでした。何も言わずに、去りました」
「――」
「黙ることしか、できませんでした」
楊文は戸の脇に立っていた。
牢の外で聞いた夜には、壁の
沈曉は李慕言へ向き直った。
李慕言は、動かない。
膝をついたまま顔を伏せ、肩を押さえている。落ちた髪の陰へ目元が隠れ、沈曉には、そこに涙があるかどうか見えなかった。
焼け跡に、長い沈黙が降りた。
崩れた丹房へ差す光が、床の上を少しずつ伸びてゆく。
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