第29話 決着

 鉄の響きが柱の間を抜けぬうちに、李慕言(リー・ムーイェン)の剣が返った。

 受けた楊文(ヤン・ウェン)の腕が下がり、腰が僅かに引ける。腹を庇ったところへ二の太刀が来て、刃を斜めに当てたまま、楊文は床を蹴った。

 退いた足が、沈んだ板へ落ちた。

 肩が傾く。その遅れへ三の太刀が入り、身を捩(ねじ)った楊文の衣が、肩口で裂けた。布の下から血が細く滲む間に、二人の刃はもう離れている。


 沈曉(シェン・シャオ)は剣を鞘(さや)へ戻し、卓の脇へ下ろした荷から油紙の包みを抜いた。

 符を束ごと懐へ入れ、一枚を右手に取る。楊文が剣を受け流す音を聞きながら、左手で印を結んだ。

 紙は、まだ白かった。

 指から通したものが届くまで、李慕言の足は一歩進んだ。沈曉はその先へ目を移し、符の端に光が差すと同時に放った。


 床すれすれを飛んだ紙が、李慕言の足元へ貼りついた。

 踏み込む足が僅かに遅れ、腰だけが先へ出る。その傾きを楊文が追い、剣を返して、峰を胴へ打ち込んだ。

 李慕言が後ろへよろけた。

 縛るはずの足は、もう動いていた。床に残った符の明かりが、彼の踵(かかと)の下で消えた。


「――衰えましたね」

 李慕言は足を据え直し、沈曉を見た。

「あなたの符が、こんなに遅いとは」


 沈曉は次の一枚へ指を掛けた。

 あと二十九枚ある。紙の数は指先に分かるが、そこへ送り込む気は細い。百年を炉へ焼べる前には、大河のように満ちていたものが、今は石の間を通る沢ほどの幅で身体を巡っている。

 冷えた指を一つずつ曲げ、紙の端を押さえた。腰には剣の重みがあった。抜いて前へ出れば、その間、楊文の見えぬ方へ手が届かなくなる。

 沈曉は、二人の刃の外へ一歩寄った。


 李慕言はまた、楊文へ向かった。

 踏み込む寸前に腰が沈む。楊文は刃を受ける位置を少し下げ、ぶつかった剣を押し返さず、身を開きながら脇へ流した。鍛冶屋は、押すな、引いて斬れと言っていた。

 なまくらの刃が離れるところへ、沈曉は符を打った。

 李慕言の袖が一度引かれ、突き出す腕が僅かに逸れる。紙はそこで力を失い、裾の辺りを滑って床へ落ちた。

「浅い」

 声を置いたまま、李慕言の剣は次の位置へ戻った。


 丹房が震えた。

 窓の灯はまっすぐ立っている。その下で柱が内側へ傾き、持ち上がった床板の隙間から、白い紙の重なりが覗いた。

 材の継ぎ目に、符が挟んである。

 沈曉は頭上を見た。天井板の端が外れかけている。後ろへ跳ぶと、さっきまで肩のあったところへ板と土が落ち、卓の片側を押し潰した。

 立ち上る埃の向こうから声がした。

「――丹房ごとです」

「この建物そのものが、私の式です。仕掛けは、幾つも埋めてあります」


 今度は楊文の足元が持ち上がった。

 剣を受けたまま身体が流れ、その背へ回り込むように、李慕言の刃が伸びる。沈曉は符を構えるより先に踏み込み、楊文の襟を掴んだ。

 引いた肩の脇を切っ先が通った。

 勢いを受け止めた沈曉の背が壁へ当たり、剥がれた木片が肩を擦る。楊文の足が床を捉えると、沈曉は襟を離し、二人の間から身を引いた。


 戸も窓も、覚えていた場所にある。

 その間を繋ぐ床だけが持ち上がり、下がり、踏めるところを変えてゆく。李慕言は柱の鳴る前から足を移し、板が沈む頃には、その縁へ体重を置いていた。

 沈曉は紙を持つ指と左手を合わせ、印を組み替えた。

 一本ずつの柱を追うのでなく、骨組みへまとめて封を掛ける。親指の置き場を変え、次の指を収めようとしたところへ、刃が来た。


 腕を狙っていた。

 印を保ったまま身を捻ると、左の二の腕が熱くなった。袖が裂け、血が肘へ下りてゆく。その感触の中で最後の指を収め、沈曉は床へ符を送った。

 柱の動きが鈍った。

 軋みは消えず、止まりかけた材が、まだ細く震えている。けれど楊文の足が、ようやく同じ板の上へ二度置かれた。


「――あんたは」

 楊文が構えを戻しながら言った。

「なんで、俺を狙う」


 李慕言は答えなかった。

「あんたの用は、あの人とだろうが。俺には、関係ねえはずだ」

 切っ先が止まり、僅かに角度を変えた。

「関係が、ないと思いますか」

 楊文の返事を待たず、李慕言は足を進めた。

「あなたは、隣にいる」


 剣が打ち合った。

 楊文の肘が腹へ近づき、半歩退く。その脇へ沈曉の符が届き、追う刃の向きをずらす。楊文は空いた方へ踏み替え、次の剣を峰で受けた。

 紙が一枚、床へ落ちる。

 沈曉が次を取る間、楊文は足を止めずに回った。刃を引いて相手の剣を連れ、沈曉の立つ側へ、その袖を向ける。

 符が袖を打った。

 肩が僅かに遅れたところへ、なまくらが入る。浅く受けられても、楊文は押し合わず、次の符が通る幅を空けて身を引いた。


 李慕言の吐く息が、初めて長くなった。

 沈曉は紙を抜きながら、その足元を見ていた。傾く側には腰を落とさず、浮く板へは早く乗る。建てて、直して、またこの中を歩いた数年が、足の置き場に残っている。

 柱の軋みが、頭上へ移った。


 梁の端に紙が一枚あった。

 木の割れ目に沿って貼られ、引かれるように端が持ち上がる。沈曉が目を上げるより早く、李慕言は剣を引き、奥の壁際へ退いていた。

 その足が、途中の一枚だけを踏まずに越えた。

 沈曉は楊文の腕を掴み、同じ方へ引いた。二人の足が板を離れると、梁が落ちた。


 床が跳ね、椅子が横倒しになった。

 灯が一度大きく傾き、粉塵の中へ赤い舌を伸ばす。沈曉は楊文の腕を離せぬまま、折れた板へ膝をついた。梁の端は、さっきまで二人が立っていたところに食い込んでいる。

 李慕言が避けた場所だけ、床が残っていた。


 木の粉が、灯に照らされて降ってくる。

 崩れた屋根の下で、そこだけ細かな雪が降るようだった。李慕言は壁際で息を整え、剣を構え直している。灰色の衣に埃が白く積もり、肩を動かすと薄く舞った。

 沈曉は立とうとした。

 足へ力を移すと膝が抜け、もう一度床へ手をつく。血の伝った袖が、湿った音を立てた。

 楊文がその隣へ立った。


 李慕言の目が、二人を捉えた。

 剣先が上がり、楊文の喉の高さで止まる。

 沈曉は袖を膝に挟んで片手を空け、符を抜いた。


 突きが来た。

 喉へ入る刃を楊文が払い、返す剣が肩へ向かう。そこを受けると、今度は脇腹へ低く伸びる。切っ先は大きく振られず、灯の中を短い光となって往き来した。

 楊文は峰と鍔(つば)を使い、身体をその半歩外へ置いた。

 刃には、もう細かな欠けが並んでいる。受ける場所を変えるたび、鈍い響きが近くなったり遠くなったりした。腹のところで衣が強く張り、楊文は一度歯を食いしばったが、そのまま刃を脇へ流した。


 李慕言の剣は、乱れなかった。

 受けられれば次の空きを探し、肩の下、脇腹、喉へと移る。沈曉の符を袖で振り落としたときにも、目は楊文の顔から動かなかった。

 沈曉は傍らの柱へ背を寄せ、少しずつ腰を上げた。膝が伸びきる前に、右手の紙へ印を結ぶ。

 懐の束は、二十枚を切っていた。


 放った紙が腕へ触れると、李慕言の刃は僅かに流れた。

 楊文はその外へ身を捩った。肩の裂け目から血がにじみ、腕に沿って下りる。沈曉はその赤を追う目を戻し、次の紙を取った。

 一枚で止められる時間は、剣を受け直すほどしかない。

 その間に楊文が足を替える。足が決まるところへ次の刃が来て、沈曉はまた、その向きをずらす。二人の間へ紙が落ち、踏まれ、木の粉に紛れていった。


「なぜだ」

 楊文が剣を合わせたまま、息の間に言った。

「なんで、俺ばっかり狙う。あんたの相手は、あの人だろうが」


 李慕言は答えなかった。

 刃先を下げ、楊文の膝へ向けた。

 沈曉は符を放った。低く伸びた剣が僅かに浮き、楊文の膝がその下から退く。床を削った切っ先を、李慕言はすぐに引き戻した。


 なぜお前が、その人の隣にいる。

 先ほどの声が、沈曉の耳の内で、その形になった。

 山を失い、傷を負い、そのあとにどこへ身を置いたか。ひとりは自分の隣で傷の手当てを受け、火を囲んだ。もうひとりは、自分の剣の通った身体を、知らぬ家の寝床に横たえていた。

 膝を狙った刃が、今度は腹へ向かう。

 沈曉はその間へ手を伸ばした。術が届くまでの短い遅れに、楊文が腰を引いた。彼が戻れるだけの場所を、沈曉は後ろへ空けた。


 屋根の裂け目の向こうで、闇が藍を帯び始めていた。

 灯の映らぬところにも柱の輪郭が浮き、折れた梁が床へ斜めに掛かっている。足を通せる幅は狭くなり、李慕言も、そこを避けるために剣を引くようになった。

 吐く息が、刃の返る速さに追いつかなくなっていた。


 それでも、踏み込みは深くなった。

 楊文が受ける構えを取ると、李慕言はさらに腕を伸ばした。伸びた肘の外へ、なまくらが滑り込む。二の腕の布が切れ、赤い筋が生まれた。

 李慕言は腕を引かず、剣を返した。

 楊文の肩へ落ちる、その内側へ符が入った。刃が指一本ぶん外へ流れ、衣だけを裂いて下がる。


「――今のは」

 李慕言が顔を上げた。

「あなたの符が、届いた」


 沈曉は答えられなかった。

 腕が重く、額の汗が目に入る。瞬きをしながら次の紙を抜くと、楊文が剣を低く構え直した。

 李慕言が応じて刃を下げたところへ、符を送る。

 払う腕の戻り際を楊文が打ち、受けた剣が上がる。その下へ次の符が届いた。沈曉が送り出せる速さを、楊文の足が待つようになっていた。


 今度は李慕言が退いた。

 剣を返しながら後ろの板へ乗り、床の沈みに膝を取られる。馴染んだ傾きへ足を置いたつもりが、落ちた梁の重みで、板はさらに下がっていた。

 腰を戻すために剣が浅くなる。

 楊文の峰がそこを叩き、李慕言はもう一度、踏み替えた。


 顔だけが、変わらなかった。

 胸は大きく上下し、腕の血が袖口へ下り、足元では板が鳴っている。その上にある顔は、戸口で、お帰りなさいと言ったときのままだった。


 李慕言が、深く踏み込んだ。

 楊文は半歩外へ身を置き、身体の脇を突きが通るのを待った。流れた腕へ沈曉の符が触れる。握る指が僅かに開き、その間へ、なまくらが下から入った。

 剣が浮いた。

 李慕言の手が柄を追った。指が触れるより早く、楊文が刃を返し、峰を肩口へ打ち下ろした。

 骨が鳴った。


 李慕言が膝をついた。

 沈んだ床へ剣が落ち、柄を巻いた布が、灯の下で一度転がった。擦り切れたところへ木の粉がつき、そのまま止まる。

 楊文の切っ先が、李慕言の前に残った。


 ひと息で届く距離だった。

 楊文の肩が上下する。李慕言は打たれた肩を押さえ、剣を拾う方へも、退く方へも動かなかった。

 沈曉は印を結んだまま、その刃を見ていた。

 切っ先が、下がった。

 楊文は自分の剣へ一度目を落とし、半歩退いた。息を吐く唇から、言葉は出なかった。


 沈曉は指をほどいた。

 手を離れかけていた符が力を失い、二人の間へ落ちる。紙の隅が床の裂け目に引っ掛かり、静かに伏せた。

 膝をついた男の影が、足元へ伸びていた。


 十年前、山門の外でも、この目を見下ろした。

 剣を持たぬ子供が草へ倒れ、自分は刃を提げたまま立っていた。背後の観が燃え、伏せた顔にも、動かなくなった指にも、火の色が届いていた。

 その顔へ、何も言わなかった。

 立った高さのまま背を向けた。


 今は窓辺の灯が、李慕言の頬を照らしている。

 沈曉は一歩近づいた。床の沈みに足を置き、身体の重みをゆっくり下ろした。


 膝を折った。

 崩れた李慕言の高さに、自分の高さを合わせた。

 背を向けなかった。


 李慕言が顔を上げた。

 肩を押さえる指には血がつき、息をするたび、そこに力が入った。沈曉はその手から目へ視線を戻し、目が合ってからも、そこを離れなかった。

 屋根の隙間に、白いものが滲み始めていた。

 稜線(りょうせん)の際から夜が薄れ、柱の影の向こうに、床へ散った紙が一枚ずつ見えてくる。灯はまだ点っている。風は止み、材の軋む音も収まっていた。


 焼け跡の中央で、二人の男が、同じ高さで向かい合っている。

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