第28話 仮借

 山裾の宿を出たのは、まだ夜のうちだった。

 楊文(ヤン・ウェン)の持つ灯が枝の下へ入ると、道はその明かりの先で途切れる。沈曉(シェン・シャオ)は足元に浮かぶ岩の出っ張りを見て、次に曲がるところを告げた。木の根を避け、肩へ掛かる枝を払う。そのたびに、手の届く場所から昔の道が戻ってきた。

 下草は深かった。

 湿った葉が脛(すね)を擦り、踏み分けられた細い筋の両側へ倒れている。道端には、かつて弟子たちに摘ませた薬草が群れていた。灯に透ける葉の大きさへ目を留めたが、手は伸ばさずに通り過ぎた。

 木立の奥では秋の虫が鳴いていた。楊文はときおり後ろを見て、明かりを足元へ向け直す。沈曉が次の曲がりを告げるまで、先へ進むのを待つようになっていた。


 石段は三百と六段ある。上へ行くほど低く刻まれているのは、脚の草臥(くたび)れるぶんを少しでも補うためだと、遠い昔に教わった。誰の声だったかは思い出せない。石の方には、その心遣いがまだ残っている。

 沈曉は最初の段へ足を置き、胸の内で数え始めた。

 三十を過ぎると息が上がり、五十の頃には、足を持ち上げるたび腿に重みが溜まった。百を数えたところで、立ち止まった。

 灯の縁に、自分の足が見える。

 この段で歩みを止めたことは、幾度もあった。人を待ち、薬草を拾い、空模様を見た。いまは次の一段へ上げるために、脚を休ませている。

 楊文が振り返り、灯を持つ手を下げた。先を急かす言葉はなく、沈曉が顔を上げると、同じように足を上げた。

 百五十の辺りで、岩の窪みが明かりに浮いた。

 雨の日に弟子たちが頭を入れたところで、何人も並ぶには浅かった。誰かが入れば、あとから来た者は肩だけ濡らして立つ。沈曉も、その端に立ったことがある。

 灯が先へ動くと、岩は夜に戻った。

 二百を過ぎ、汗がこめかみから落ちた。

 袖で拭い、数を継ぐ。三百に届く頃には脚の付け根が鈍く痛み、足を置いた段の縁を、しばらく見ていなければ次へ移れなかった。

 三百と六段目に、足が届いた。

 膝が小さく震えていた。


 七つの子と、この段を数えた朝があった。

 数え直しに三度付き合い、上へ行くほど小さくなる声の傍らで、子供の一歩が済むのを待った。あの朝に合わせていた小さな足と、いま止まっている自分の足が、同じ石の上で重なった。

 沈曉は顔を上げた。

 楊文が灯を掲げ、山門の下を照らしている。


 扁額(へんがく)は、なかった。

 太い門柱は焼け焦げたまま立ち、額を吊っていた金具が、上の方で僅かに光った。幡(はた)を掛けた日、見上げたところにあるのは、いまは梁と夜の空だけだった。

 風が軒を通った。

 沈曉は東の二番目の吊り金具を見た。濁った音の鐸があったところに、何も下がっていない。耳に馴染んだ一音を待つ間に、風は門を抜けていった。


 柱へ触れると、指の腹に黒い粉がついた。

 塗り直した朱の艶も、掌へ伝わった木の丸みも、ここには残っていなかった。割れ目に沿って指を下ろし、沈曉は手を離した。


 門をくぐると、石畳の目地から草が伸びていた。

 楊文が灯を少し高く持つ。左手に大きな土台があり、その奥にも、低い輪郭が重なっている。山門から扉を開け放てば、朱の柱の間を、奥の庭まで見通せた。灯に届くいまの庭は、どこで一つが終わり、次が始まるのかも、草の中に埋もれていた。


 大殿の跡には、瓦の破片と錆びた釘が残っていた。

 神像のあった奥へ目を向けた。朝日が金の衣を照らす位置には草が生え、そこの闇も、ほかの闇と同じ深さだった。

 脚の裏に同じ印のある祭器が、十九あった。二代前の祭酒(さいしゅ)が誂(あつら)え、沈曉が二十年、年に一度ずつ並べたものだった。溶けたのか、拾われたのか、明かりを向けた土台の上には、一つも見当たらなかった。


 弟子たちの住房は、大殿の奥に並んでいた。

 入門の順に延びたいちばん端に、十四の子がいた。沈曉はその土台へ近づき、灯を寄せてもらった。

 そこだけ草が短い。

 敷居のあった段差を越え、房の内側へ続いている。何度も同じところを踏んだ足跡を、沈曉は目で辿った。

 その足で歩く者が、いま、この山にいる。


 境内の奥に、灯が見えた。

 暗いところへ目が慣れても、窓の形はすぐには分からない。草を分けて近づくと、屋根があり、壁があり、丹房のあったところに、丹房に似たものが建っていた。


 元の半分ほどの広さだった。

 窓は覚えている側に開き、戸口も同じ方へ向いている。それなのに柱の間隔が違い、屋根の左右が揃わず、継ぎ目に小さな材が幾つも噛ませてあった。遠くから見れば覚えのある姿が、近づくほど、僅かずつずれてゆく。

 一本の梁の端に、新しい削り跡が見えた。

 材木が上がっていくのを見た者がいると、裴松(ペイ・ソン)は言った。沈曉はその断面から、隣の黒ずんだ材へ目を移した。古いものを残し、その足りぬところへ新しいものを足して、倒れるたびに支え直すような継ぎ方だった。


 風が入ると、建物が鳴った。

 低い軋みのあと、別の柱が少し高く応じる。一度に息を吐けないものが、部屋のあちこちで、遅れて息を継ぐような音だった。

 沈曉が足を止めると、楊文は灯を草のない石へ置き、剣の柄へ手を掛けた。

「ここが、丹房か」

「……あった場所です」

「建て直したんだな」

「はい。窓も、戸口も、同じ方にあります」


 楊文は屋根を見上げ、それから沈曉へ目を戻した。


「あんたが見りゃ、分かるようにか」

 沈曉は、戸口から目を離さなかった。


 戸口が開いた。

 灰色の衣を着た男が、内側の灯を背に立った。背はそれほど高くなく、腰に剣を提げ、戸へ添えた手をゆっくり下ろす。

 顔を見ても、十四の子供はすぐには見つからなかった。

 沈曉はその目に行き当たって、息を止めた。戸の隙間から、印を組む手を見ていた、あの目である。

 李慕言(リー・ムーイェン)だった。


「お帰りなさい」


 低い声が、戸口を出てきた。

 沈曉は口を開けず、背後の庭へ目を向けた。草に覆われた大殿も、風鐸(ふうたく)のない軒も、この声の帰れと言う場所に含まれている。

 もう一度男を見ると、衣の肘に、擦れて薄くなったところがあった。腰の位置も、肩の幅も、子供の頃と違う。変わった身体の中で、こちらの言葉を待つ目だけが動かない。

「……よく、ここまで」


 声が途切れた。

 生きて、とは言えなかった。ここまで生きた身体へ、自分は剣を通した。建てたものを見れば、それを確かめる指の傷まで目に入る。

 李慕言は急かさなかった。

 薬房の戸の陰から見ていた、あの視線の待ち方と同じだった。沈曉はその目へ向き直り、十年、呼ばずにいた号を口にした。

「知還(ジーホァン)」


 十四だった年、古い詩から二字を取って、書き付けを一枚置いた。還るを知るという二字を、何に還ってほしいのかまで、言葉にして渡すことはなかった。

 李慕言の目が、僅かに動いた。

「その名は」

 声は低いままだった。

「捨てました」


 軒が鳴った。

 沈曉は、口にした名の行き場を失ったまま、灰色の衣を見ていた。自分の捨てた望曉(ワンシャオ)を、この男は名乗っている。代わりに、かつて与えた二字が、いま二人の間へ返された。

 どちらも、自分が選んだ字だった。


 半歩後ろで、楊文の衣が動いた。

 柄に掛けた手はそのままで、李慕言へ顔を向けている。李慕言の目もそこへ移り、沈曉を見ていたときより、わずかに細くなった。

 二十五歳の男が、二十五歳の男を見ている。

 楊文の指の節が白くなる。その手へ李慕言の視線が下り、また顔へ戻るまで、どちらも口を開かなかった。

 谷で、八体の式が楊文へ向かった。沈曉は二人の間にある距離を見て、足を少しずらした。李慕言の目が、その動きを追った。


 風が止むと、軋みも止まった。

 李慕言は戸口の内側へ手を向けた。

「中で、お話ししましょう」


 沈曉は、すぐには動かなかった。

 戸の上に渡した材が、細い木片で支えられている。組み合わせる理屈には覚えがあった。教えた理屈で、教えていないものが、組み上がっている。

 李慕言が身体を引き、通れる幅を空けた。

 沈曉は草から足を上げ、敷居を越えた。


 中へ入ると、床が隅へ沈んでいた。

 足裏に置いた重みが横へ流れ、壁に手をつきかける。沈曉はその手を戻し、卓の手前で立ち止まった。窓の傍らに灯が一つあり、傾いた柱の影が、床の傾きとは逆の方へ伸びていた。

 椅子は二つだった。

「お座りください」

 李慕言が片方を示した。

 沈曉は荷を足元へ下ろし、立ったまま卓の向こうを見た。楊文は外の灯を消してから戸口へ入り、戸の脇に荷を置いた。手はすぐに柄へ戻る。

 李慕言の目がそこへ向いた。

「お連れの方は、外でお待ちいただいても」

「いいえ」

 沈曉は答えた。

「彼も、聞きます」


 李慕言は卓の向こうへ回り、椅子を鳴らさず腰を下ろした。座り終えるまで、指が椅子の縁に添えられていた。

 その手が卓へ移ってからも、彼の目は沈曉の顔に留まっている。

「……失礼」

「まじまじと見てしまいました。……お変わりに、なられたので」


 沈曉は卓の木目へ目を落とした。

「こめかみの、白いもの。歩き方も、以前とは違います。石段を、あんなふうに息を切らして上る方では、なかったはずです」

 白いもの、と言うときだけ、声が少し高くなった。

 沈曉は髪へ手を上げなかった。昔、この子は墨色に隠す前の髪を見ている。その色が戻っていることと、戻すつもりで戻したのでないことを、同じ目で見ていた。

「何があったのかは、伺いません。伺いたいのは、そこではないので」


 李慕言は卓の一点へ視線を移した。

「私は、あなたのようになりたいと思っていました」

 沈曉は顔を上げた。

「歳を取らず、傷も負わず、何を前にしても表情の変わらない方でした。誰かを羨むことも、何かを欲しがることもない。……そういう方だと、私は思っていました。だから、なりたいと思いました」

 指先が、木目の深いところへ入った。

「今、目の前におられるのは、力を失い、疲れて、階を上るのに難儀する方です。私が長く思い描いてきた形とは、違います」


 沈曉は息を継いだ。まだ上りの疲れが胸に残り、静かに吸ったつもりの息が、二人の間で聞こえた。

「……惜しい、と思うのです」

 李慕言はその音を聞くように、顔を上げた。

「なぜ、こうなられたのかは分かりません。分かりませんが、私が十年、目指してきた形が、今、ここにない。追いついた時には、もう、そこにいないものを追いかけていたことになります」


 沈曉は卓の縁へ指を置いた。

 熱い粥を口へ運び、翌朝にも食べたいと思った。額に置かれた手が離れかけ、もう少しと言った。そのときにも、この山では、変わらぬものを待って火が点いていた。

 指についた門柱の黒い粉が、木目に残った。

 拭おうとして、手を止めた。


「十年」

 李慕言が言った。

「長い、とは思いません。短い、とも」

「あなたが去られてから、私は裴松様の屋敷で育ちました。飯を頂き、字を習い、剣を振りました」

 卓の上へ、両手が揃えられた。

「恨み言から、始めるべきなのでしょう。皆、そうします」

「裴松様は、幾度も、恨んでよいのだぞ、と言われました。門派を、家族を、体を奪われたのだから、恨んでよいと。恨んでよい、と言われるたびに、私は考えました。何を恨めばいいのかを」


 窓の隙間から風が入り、灯の先が低くなった。李慕言の片頬を、柱の影が通り過ぎる。

「裴松様の屋敷に出入りする若い武人は、私に、あの人を殺してやろうかと言ってくれたことがあります。憎いだろう、憎んでいいのだと。私は、その申し出に、うまく礼を言えませんでした。憎いのかどうかが、自分でも分からなかったからです」

 揃えていた指を一度組み替えた。

「裴松様の娘御は、私に優しくしてくれました。姉のように慕ってくれと言われて、そうしようとしました。……できませんでした。慕うということが、どういう手続きなのか、私には分からなかったからです。皆、当たり前のようにそれをします。私だけが、手順を知りませんでした」


 沈曉の顔へ、目が戻った。

「あなたは、私を殺そうとしました」

「急所を、外しました。……外れたことを、恨めばいいのでしょうか。外さなかった方が、よかったのでしょうか。それとも、殺そうとしたこと自体を、恨めばいいのでしょうか」


 沈曉は、答えなかった。

 李慕言の胸を、灰色の衣が覆っている。息を吸うたび、そこが僅かに上がる。剣の通った跡は見えなかった。

「答えは、出ませんでした。十年、出ませんでした」

 卓の木目へ指が動いた。

「恨むという行いには、形が要ります。誰を、何のために、どれほど。……私には、その形が組めませんでした。あなたが何のために私を殺そうとしたのかを、知らなかったからです」

「――」

「知らないものを、恨むことはできません。知らないものは、ただ、分からないだけです」


 指が木目の途中で止まった。

 沈曉はその先を見ていた。長く黙っていれば、いつかこの子の中から自分の声も消えると思ったことがあっただろうか。十年を越えて届いた言葉は、まだ、あの夜の手前にあった。


 柱が低く鳴った。

 李慕言は顔を向けずに続けた。

「私の術は、全部、借り物です」

「霊根は砕かれました。符に力を通すことも、印で術を結ぶことも、私にはできません。この十年、私が使ってきたものは、すべて、他から借りたものです」

 片手が、腰の剣へ添えられた。

「実験の記録が、宮中に残っていました。焼かれなかった分だけ。私は、それを読みました。読んで、真似ました」

「式を組む法も、藁人形を動かす法も、私が考えたものは一つもありません。あなたが焼いたはずの知識の、燃え残りです。……七枚の符に、七通りの借り方があります。何を、どこから、どれだけ借りるか。あなたなら、一目で見抜かれたでしょう」


 沈曉は卓を挟んだその手を見た。

 指の置き方には覚えがある。けれど、その指へ通うはずのものを、この身体から断ったのは自分だった。

「――拾った号も、育てられた家も」

 李慕言の口の端が僅かに動いた。上がりきる前に止まり、元へ戻った。

「望曉という号も、裴松様の家も、私の食べた飯も、着た着物も。数えれば、私のものは、この身一つ以外、何もありません」

「剣だけです」


 鞘口から刃が現れた。

 楊文の指が柄を締めたが、李慕言は刃先をこちらへ向けず、灯へ傾けた。研ぎ直した跡が幾重にも重なり、擦り切れた柄の布は、握るところだけ色が抜けていた。

「これだけが、自前です。裏庭で、十年、独りで振りました。誰にも習わずに」

「筋は、悪いままです。裴松様の目にも、そう映っていたはずです。習えば、上達したでしょう。それでも、習いませんでした」

「なぜだ」


 李慕言が顔を上げた。

 目が一度大きくなり、沈曉の口元に留まった。

「教われば、教えた人の形になります。私は、誰の形にもなりたくありませんでした」

 膝の上へ、刃の光が下がる。

「なりたい形が、一つだけあったからです」

「借りたものだけで、ここまで来ました。……借りたもので、十年かけて、あなたを見つけました」


 李慕言は剣を鞘(さや)へ戻した。刃が隠れ、鍔(つば)が鞘口へ触れる寸前に、指でその重みを受け止めた。

 沈曉は、ようやく口を開いた。

「あなたを、殺そうとは思っていません」

「知っています」

「今日、あなたが術で私を襲うつもりなら、もっと早く仕掛けているはずです。三百六段を、あなたは息を切らして上ってこられた。……その体で、私を殺せるとは思えません」


 石段で止まったとき、灯の外は暗かった。

 その闇のどこかから、この目が見ていた。沈曉は戸口へ目をやり、まだこちらを向いている楊文から、卓へ視線を戻した。

「私が知りたいのは、一つだけです」


 李慕言の手が剣を離れ、卓へ戻った。

「乱の夜のことは、幾度も思い出そうとしました。何が、あの晩を招いたのか。前触れが、あったはずなのです。私が見落としたものが、何かあったはずなのです」

 一度目を閉じ、開いた。

「乱の四日前の晩、あなたは丹房で、声を荒らげられました」


 沈曉の指が動いた。

 卓へついた黒い粉を、指先が引き延ばした。

「私は、廊下でその声を聞きました。何を言っておられたのかは、聞き取れませんでした。……あの晩から十年、私はそれだけを、知りたいと思ってきました」

 李慕言は座ったまま、沈曉を見上げた。

「最後の言葉ではありません。最初の言葉です」


 梁の継ぎ目が鳴った。

「あの晩、あなたが言ったことを、聞かせて頂きたい」


 沈曉は息を吸った。

 言葉は覚えている。その前に何を聞き、誰の方へ向いたかも。自分の声が丹房に響いたとき、戸の外まで届いているとは思わなかった。

 同じ向きに開いた戸が、いまも背後にある。

 喉まで上がった言葉に息を添えようとして、口が動かなくなった。李慕言は目を逸らさずに待っている。沈曉は一度、空の息を吐いた。

「――まだ」

 声が掠れた。

「まだ、言えません」


 李慕言は、その答えを見ていた。

 頷くこともなく、卓へ置いた指だけが、少しずつ曲がってゆく。

「そうですか」

「十年、待ちました。今日、また待てと言われるなら、待ちます。……ただ、待つ間、あなたがまた力を失っていくのだとしたら」

 最後のところで、声が僅かに揺れた。

「私が待っている形は、いつまで、そこにあるのでしょう」


 沈曉は何も返せなかった。

 李慕言の視線が、一度だけ戸口へ流れた。楊文はそこに立っている。

「では、聞かせて頂けるまで、私はここにいます。……あなたが、言えるようになるまで」

 言いながら、手が卓を離れ、腰の剣の柄へ下りた。


 椅子が、初めて音を立てた。

 立ち上がった李慕言の足が、床の沈む方へ動く。傾きを踏み越す膝には迷いがなく、腰から離れた鞘を片手で支えながら、刃を引き抜いた。

 沈曉も柄に手を掛けた。

 自分へ向いていない切っ先を見て、一歩、二人の間へ入る。沈む床に重みを持っていかれる前に足を据え、剣を抜いた。


 その刃を見て、李慕言が止まった。

「その剣を、覚えています」

「柄を布で巻いた、飾りのない剣です。あなたは、いつも、それを腰に佩いておられました」


 沈曉は答えず、剣を構えた。

 戸口で楊文が鞘を引いた。買ったばかりのなまくらに、窓辺の灯が細く走る。李慕言の目が、その光へ移った。

「あなたが」

「そうだ」

 楊文は敷居から足を進めた。

「白澗観(はくかんかん)の生き残り、楊文だ」

「存じています」

 李慕言は構えを直した。

「……同じ歳だと聞いています」

「知ったこっちゃねえ」


 李慕言は、答えなかった。

 剣先だけが僅かに下がり、沈曉の刃の向こう、楊文の身体へ向きを定める。

 風が止んだ。

 軋みの絶えた丹房で、灯の先だけが細く動いていた。


 李慕言が踏み込んだ。

 傾きに沿って身体が滑り、沈曉の剣の脇を抜けた刃が、楊文へ届く。その軌道へ、なまくらが入った。

 鉄が鳴った。

 音は歪んだ柱の間を走り、まだ鳴っているうちに、二人の足が次の位置へ移った。

 二十五歳の剣と、二十五歳の剣が、噛み合っていた。

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