第3話 山門

 出立の朝は、よく晴れた。

 夜明け前の水汲みも、竈の火も、いつも通りである。ただ、薬研だけは挽かなかった。挽けば村が起き、見送りが出る。見送られるほどの旅ではない、というのが本人の言い分だが、荷は薬箱ごと背にあった。

 沈曉は前の日のうちに、通いの客の薬を先へ先へと包んでおいた。咳の爺さまには十日分、婆の湿布は多めに。それだけ済ませて、戸に留守を報せる紙を貼る。

 部屋の隅の葛籠は、蓋が開いていた。

 空になった中に、朝の光が差している。入っていたものは、いま沈曉の腰にある。柄を布で巻いた、飾りのない剣である。

「あんた、剣も使うのか」

「道中は物騒ですから」

 楊文はそれ以上聞かなかった。江湖では、聞かないのが礼である。

 明け方の靄が畑に残るうちに、二人は街道を北へ発った。

 朝のうちは、沈曉の見知った道である。届け物に通う隣村を過ぎ、その次の村の外れで、街道と別れた。分かれ道には苔の乗った古い道標が立ち、彫りの薄れた字が、白澗山、と読める。長く風雨に晒された字は、彫った者の手の癖まで丸くなって、ただの窪みに近い。それでも、読める。字は、書かれた時より長く生きるものである。

 ここから先は、楊文の道だった。

「月に二度は、この道を麓まで使いに下りる。目をつぶっても歩けるぞ」

「目は、開けておいてください」

「……ものの喩えだ」


 歩き出してしまえば、楊文はよく喋る男だった。

 傷を負った身でまず荷を持ちたがり、断られると、今度は口が働き出す。道は畑を離れて杣道そまみちに変わり、竹林を一つ抜けた。風が通るたび、頭上で竹の鳴る音が、遠い雨のように渡っていく。炭焼きの小屋を二つ過ぎても、楊文の講釈は途切れない。曰く、白澗の水で淹れた茶は麓の茶より三割うまい。曰く、二番手の兄弟子は口うるさいが、罰で書かされる写経の紙が実は上物で、皆それを狙ってわざと叱られる。曰く、師匠の鼾は雷より正確に六つ刻みで、あれで夜の刻限が分かる。曰く、山門の扁額は師匠の手だが、字は正直なところ下手で、皆そう言うのに、誰も書き替えろとは言わない。

「なんでだと思う」

「……さあ」

「あれで、帰ってきた気になるからだ」

 言った本人が、少し笑った。笑って、次の講釈へ移った。

「……という話を、あんたは笑わないんだな」

「面白いと思っています」

「顔に出せよ」

 沈曉は生真面目に頷いた。相槌は、ええ、と、ほう、の二種類きりで、しばらくすると楊文も、それで足りるようになった。頷きだけが返ってくるのが、途中からは面白くなってきたらしい。

 喋り続けるのは、黙ればそこに何が満ちるかを、知っているからだろう。

 沈曉は止めなかった。塞いである栓を抜く理由が、どこにもない。

 時折、話の切れ目に、山の気配だけが二人の間に降りた。若葉より早い山桜が、崖の中腹に一本だけ白い。楊文はそれを指して、また次の講釈を始めた。

 半刻ごとに、沈曉は足を止めた。

「少し、休みます」

 息は、乱れていない。額に汗もない。休みたいのが誰の脚なのか、楊文は指摘しない。代わりに、次からは自分が先に、腹が減った、と言うようになった。譲り合いの形をした、意地の張り合いである。木陰で水を回し、餅を分け、また歩く。楊文の歩みは傷のわりに確かで、そのことを本人がいちいち証明したがった。

「見ろ、この通りだ。あんたの縫い目がいいんだろうな」

「跳ねれば解けます」

「……はい」

 日が高くなる頃、道は谷川に出た。

 白澗の名の通り、水は岩の上で白く砕けて、音が絶えない。砕けた水は淵で碧に静まり、その面に、芽吹き前の梢が細かく映っていた。水音は絶えないのに、谷はどこか静かである。

 道は流れに沿って上がり、飛び石で二度、川を渡った。二度とも楊文が先に渡って手を差し出し、二度とも沈曉は目礼だけして自分で渡った。

 渡ってからは、登りが本式になった。

 道端に、標石が現れる。山門まで三十六。代々の弟子が一つずつ担ぎ上げた石なのだと、楊文は言った。あと三十、あと二十五――初めのうちは声に出して数え、残りの数で昼餉の場所やら足の速さやらを講釈していたのが、いつからか、数えなくなった。

 沈曉も、数えていたわけではない。ただ、水音が谷の下に遠ざかるにつれ、楊文の言葉の合間が長くなった。


 中腹の曲がり角で、楊文の足が止まった。

 崖側が開けて、山の上の方が見通せる場所である。谷を渡ってきた風が、二人の袖を同じ向きに揺らした。

「ここから、屋根が見えるんだ。飯時なら、煙も」

 言いながら指した先を、楊文自身が見上げている。屋根は見えた。瓦が日を返して、遠目には何も変わらない。変わらないことを、指した指が確かめていた。

「……煙が、ない」

 昼餉の刻限だった。

 山の飯は刻限に正確である。竈の当番は日替わりで、遅れれば師匠より兄弟子がうるさい――昨日までの講釈の中身が、そのまま、上がらない煙の意味になった。

 楊文はそれきり、その話をしなかった。歩き出した背中は変わらず真っ直ぐで、ただ、指す指と講釈だけが減っていく。あれは何の木だ、と沈曉が水を向けると、椎だ、と一言で返ってくる。三十数える間、それきりになる。

 道は折り返しを重ね、日の入らない曲がりには、朝の霜が昼を越えて残っていた。踏むと、薄氷の割れるのに似た音が足元で鳴る。その微かな音さえ、この静けさの中では大きかった。芽吹きはまだ堅く、梢は素通しで、空ばかりが近い。残り十の標石を、二人とも黙って過ぎた。

 標石の頭は、どれも丸く磨り減っている。

 登り下りのたび、誰かが手を置いていくからだと、楊文がいつかの講釈で言っていた。その丸い頭に、今日は霜だけが乗っていた。

 やがて、鳥の声が消えた。

 いつからかは分からない。気づいた時にはもう、囀りも羽音もなく、梢を渡る風の音だけが残っている。楊文は前を向いたまま歩き、その手が時折、剣の柄の位置を確かめる。本人は気づいていない仕草である。

 風に、匂いがなかった。

 人の住む山の匂い――炊煙、厩、干した菜、線香。十幾人が暮らす山なら乗っているはずのものが、ひとつも乗っていない。土と松脂の匂いだけが、妙に濃い。

 沈曉は歩幅を変えずに、それを数えていた。

 数えながら、頭の隅で別のものも数えている。鳥が消えてから、幾つ曲がったか。匂いが絶えてから、標石を幾つ過ぎたか。生きものが場所を空ける時、空け方には順がある。その順を、彼は知っている。理由ごと、歩幅の中へ畳んで歩いた。

 最後の石段の下で、楊文が一度だけ振り返った。何か言おうとして、言葉にせず、前に向き直る。麓からここまで喋り通した男の声が、初めて出てこなかった。

 山門が見えた。

 開いている。

 扉は両方とも内へ倒れるように開いたままで、誰も閉めに来た様子がない。門前の石畳に、落ち葉が掃かれずに散っていた。楊文の言った通りなら、ここの落ち葉は朝夕二度、最も若い弟子が掃く決まりである。

 掃かれない落ち葉の上に、日が斜めに射している。

 昼を過ぎた光は、もう傾き始めの色をしていた。門の内の暗がりと、門前の明るさの境が、敷居の上で一本の線を引いている。

 二人は門前で足を止めた。

 楊文の手が、剣の柄の上で静かになった。確かめる動きが、止まっている。

 止めたのではない。それより先へ、手の行き場がなくなった。

 風だけが、門をくぐって出入りしている。

 その風の、合間に。

 門の内から、衣擦れに似た音がした。


 その音は、止まなかった。

 一定の調子で、近づきも遠ざかりもしない。人が歩けば、足音が立つはずである。これは、足を上げない歩き方の音だった。

 布が石を擦る、乾いた音。それが、幾重にも重なっている。そこに、生きた者の気配の乱れがなかった。息を合わせているのではない。合わせるべき息が、そもそもないのである。

 楊文が、門をくぐった。止める間はなかった。沈曉は半歩遅れて、その背に続く。

 境内は、日の中にあった。

 白い石畳、掃かれない落ち葉、開け放たれたままの堂。井戸端の竿には洗濯物が干されたままで、幾日分の風に晒されて、袖の形が固まっている。門を入ってすぐの敷石に、竹箒が一本、倒れていた。

 立てかけられたのでも、使い終えて仕舞われたのでもない。掃いている途中の手から、落ちた形だった。

 その先に、人がいた。

 一人ではない。前庭に三人、井戸端に二人、堂の陰を出たり入ったりするものが、幾つか。皆、ゆっくりと歩いている。どこへ行くのでもない歩き方で、思い思いの向きに、境内の中だけを。

 昨日までの暮らしのままの姿である。稽古着の者、仕事の途中らしい前掛けの者。遠目には、何も起きていない山の昼に見えた。

 近づくほどに、違うものが数えられた。

 誰の口からも、息の音がしない。誰も、瞬きをしない。歩幅が揃わない――右と左とで、別の人間の脚のように。日は高く、影だけは石畳に正しく落ちている。影が正しいことが、この庭ではいちばん正しくなかった。

 井戸端の一人が、足を止めた。

 こちらを、向く。

 中年の男である。稽古着の襟は几帳面に合わされたままで、その指先だけが、墨で黒く染みていた。

 隣で、楊文の手が柄にかかった。

 そのまま、動かない。

「……し」

 名なのか、別の呼びかけなのか、それきり声にならなかった。

 男だったものの口が、開いた。

 応えるように、開いた。出てきたのは声ではなく、乾いた空気の掠れだけである。呼びかけに体のどこかが応えようとして、そのためのものが、もう残っていない。

 刃は一寸も鞘を出ない。男だったものは首を傾け、傾けたまま歩き出す。楊文の足が、後ろへ半歩を踏んだ。

 乾いた音が、石畳で鳴った。

 落ち葉である。

 境内じゅうの首が、一斉にこちらを向いた。

 首だけが、向いた。歩みののろさからは考えられない速さで、そこだけが別の生きもののように。

 衣擦れが、増えた。

 前から、井戸端から、堂の陰から。目で数えていたよりも多くの音が境内の奥から湧いて、重なっていく。振り返ると、山門の内側にも二つ、いつの間にか立っていた。

 来た道は、もうなかった。


 沈曉は、前に出た。

 懐から出した安神符あんじんふは、白い符紙に朱の一筆である。振りかぶりも、唱えもしない。歩み寄ってきた最初の一体の胸へ、掌ごと押し当てた。布越しに返る温もりは、日向の石のそれだった。

 掌の下で、何かが解けた。

 張り詰めていた弦を、指で押さえて鳴りやませるのに似ている。音はない。ただ、掌を通して、強張っていたものが緩んでいくのが分かる。

 糸が、切れた。

 そうとしか言いようのない倒れ方だった。操られていたものが、操るものを失って、膝から順に石畳へ崩れていく。あとに残ったのは、化け物ではない。昨日死んだ、ただの人である。沈曉は、その顔を見なかった。


 彼らは、走らない。

 走らないまま、間合いだけが縮む。踏み込む気配がないから、近さに気づいた時には、もう腕の内である。伸びてくる手には、稽古の型の名残があった。剣を持たない手が、剣の型で入ってくる。受ける楊文の顔が一合ごとに強張っていくのは、重さのせいばかりではないだろう。見知った流儀で、見知った顔が、打ちかかってくるのである。

 沈曉は一度、袖を取られた。生きた人間の握りではなかった。骨ごと締める力で、爪が布を通る。符を首筋へ当てるまでの短い間に、袖は肩口まで裂けていた。

 痛みは、彼らを止めない。峰で打たれても、崩れた形のまま這って詰めてくる。先に還った同門の上を、誰も見ずに踏み越えてくる。

 二体目からは、剣も使った。斬らない。伸びてきた腕を峰で流し、泳いだ胴へ符を貼る。三体目、四体目。手順は同じで、狂いがない。薬研を挽く時と同じ速さの、同じ呼吸だった。

 楊文はそれを見て、自分にできることを見つけた。沈曉の背へ回り込もうとするものを、鞘ごとの剣で薙ぎ、突き放す。刃は最後まで抜かれなかった。倒しても、倒れたものへ切っ先は向けない。向けられない代わりに、沈曉の背中へは、指の一本も届かせなかった。

「前は」

「任せた」

 言葉は、その二つで足りた。

 墨染みの指の一体は、打ち合いの間にも、片手が時折、襟元へ上がった。合わせる仕草だけが、生きていた頃のまま残っている。楊文はその手を、最後まで打てなかった。その一体だけは、沈曉が引き受けた。

 数は多く、仕事は長かった。堂の裏から、斎堂から、鐘楼の陰から、衣擦れは尽きずに湧いた。喊声も、悲鳴もない。攻めてくる側が誰一人声を持たない戦いは、静かで、静かなことがいちばん堪えた。

 剣戟の音すら、まばらである。

 響くのは、布の擦れる音と、峰が骨に当たる鈍い音と、二人の足音と息だけだった。境内の日は明るく、空は青く、遠くの谷では水が白く砕けている。その明るさの中で行われていることの名を、どちらも口にしなかった。

 符が尽きかけると、沈曉はその場に膝をついて書いた。筆を下ろす前に一度だけ歯を鳴らし、書いた端から貼る。幾枚目かで紙の縁が指の腹を裂き、朱に別の赤が混ざったが、筆致は変わらない。

 日は西へ傾き、境内の影が伸びた。骸の影も、まだ立って歩くものの影も、夕日の中では等しく長い。

 やがて、動くものがいなくなった。


 静けさが、戻った。

 鳥はまだ鳴かない。風だけが、来た時と同じように門を出入りしている。石畳のあちこちに、人が横たわっていた。もう徘徊も、衣擦れもしない。ただの骸である。斬られた者は、一人もいなかった。

 楊文は、膝をついていた。

 鞘ごとの剣を杖にして、頭を垂れて、動かない。肩だけが大きく上下している。立とうとして、立てない膝だった。沈曉は声をかけなかった。

 沈曉は境内を、ゆっくりと歩いた。

 倒れた者を一人ずつ検め、乱れた襟を合わせ、開いたままの目を指で閉じていく。井戸端から前庭へ、前庭から堂の前へ。手を合わせはしない。

 閉じさせる目は、どれも乾いていた。

 生きた目より軽く閉じ、その軽さが指先に残る。残ったものを、彼はどこへも置かずに、次の骸へ運んだ。

 その足が、山門の近くで止まった。

 竹箒の傍に、小さな骸がある。

 まだ、大人になりきらない顔だった。

 箒の柄は、細い手に握り込まれて、そこだけ黒ずんでいる。朝と夕、毎日二度、この門前を掃いてきた手の跡である。骸の指は、もう何も握っていない。その形だけが、緩く残っていた。

 沈曉はその傍らに膝を折り、屈み込んだ。

 顔を、長く見ている。

 西日が石畳を這い、二人ぶんの影を長く重ねた。楊文が立てるようになるまで、その姿勢は変わらなかった。


 その顔は、眠っているようには見えなかった。

 死に顔が眠りに喩えられるのは、死んだばかりの間のことである。頸に脈はなく、体は芯まで冷えている。冷え方からすれば、死んで一日や二日ではない。それなのに、強張りがない。半日で来て、二日もすれば解けるものだが、解けた後に来るはずのものが、何ひとつ来ていなかった。匂いすら、ない。

 死が、途中で堰き止められている。

 背後で、砂利を踏む音がした。楊文がようやく立ち上がり、覚束ない足で歩み寄ってくる。竹箒の傍の骸を見下ろして、黙っていた。

「……いちばん新しい弟子だ。去年の秋に上がってきた。箒の使い方を教えたのは、俺だ」

 声は平らで、平らに保つことに、残った力の全部が使われていた。

 沈曉は、開いたままの小さな目を、指で閉じた。

「なあ、これは何なんだ。病か」

「病では、ありません」

「……祟りか」

「人の手が、入っています」

 楊文が息を呑むのが、隣で分かった。人の手。その二文字が呑み込まれて、腹の底へ落ちていくまでの間、沈曉は骸から目を上げなかった。

 嘘は、ひとつも言っていない。

 言っていないことだけが、静かに増えていく。


 日のあるうちに、骸を堂へ運んだ。

 十幾人ぶんである。沈曉が戸板を使うことを口にすると、楊文は首を振った。

「背負っていく。全員、俺の兄弟子と弟弟子だ」

 傷に障る、という言葉を、沈曉は使わなかった。代わりに自分も一人ずつ背負い、堂の板間へ並べた。前庭から、井戸端から、鐘楼の陰から。往復のたびに西日は低くなり、二人の影が石畳の上で伸びては戻った。

 背負った骸は、生きた人より重い。

 重さの理由を、沈曉は知っている。担ぐ側に合わせて力を抜く、その僅かな協力が、死んだ体にはない。全部の目方が、そのまま肩へ来る。それを、彼は数えずに運んだ。

 楊文は背負い上げる時、必ず一声かける。行くぞ、とか、失礼、とか。返事のない相手に、この男は毎回、同じ調子で声をかけた。


 夜具を取りに、寮へも入った。

 小さな部屋が、廊下の両側に並んでいる。どの部屋も、暮らしの途中で止まっていた。読みかけの書が伏せてあり、繕いかけの衣に針が刺さったまま、誰かの碁盤は打ちかけの局面を残している。ある部屋の文机には、写経の手本が束になって積まれていた。

 楊文は敷居ごとに足を止め、止めた数だけ、抱える夜具を増やした。

 言葉は、ほとんど出なかった。そっちを持て、とか、灯りを、とか、要るものだけが行き来した。

 骸の枕元に堂の香炉を下ろし、線香を立てた。立てる前に、唇だけが動いた。声にはならない。昨日、この山のどこにもなかった匂いが、堂の内にだけ戻ってくる。

 夕餉と呼べるほどのものは、どちらの喉も通らなかった。白湯だけ回して、楊文は壁際に座ったまま、落ちるように眠った。眠りに落ちる寸前まで、堂の並びを見ていた目である。


 夜、沈曉は灯りを一つだけ提げて、骸の間を歩いた。

 検めるほどに、揃っていく。

 どの体にも、命を奪ったはずの傷がない。毒の徴もない。ただ、鳩尾のあたりの皮膚の下に、薄い痣が透けている。文字とも紋様ともつかない形で、どの骸にも同じ場所に、同じ向きで。

 沈曉は、その形を指でなぞりかけて、やめた。

 なぞらなくても、描ける。

 目を閉じていても、描ける。

 灯りの油が、静かに減っていく。堂の外で夜風が渡り、軒がひとつ鳴った。十いくつの寝顔のない眠りの間で、起きているのは彼ひとりである。それが、この夜ばかりは救いだった。いま自分がどんな顔をしているのか、確かめる者がいない。

 この術を、彼は知っている。

 殺しながら、生かしておく術である。命を奪い、器から抜けようとするものを楔で打ち留めて、繋いだまま歩かせる。知っている者は、世にもういないはずだった。記した紙は、一枚残らず焼かれた。焼いたことを、焼いた者が覚えている。

 あの朝、碗の上で止まった手の理由が、いま灯りの下に並んでいる。

 沈曉は、いちばん近い骸の前に膝を折った。襟元を開き、痣の形を灯りに透かして、長く見る。それから隣へ移り、同じことをした。一体ずつ、堂の端まで。確かめるまでもないものを、確かめる手順だけが、彼を朝まで立たせておく杭だった。

 端まで行って、止まった。

 十五体。

 完全では、なかった。

 楔の打ち方が浅い。手順がひとつ、抜けている。それでも形になっているのは、書物で学んだ者の抜け方ではない。正しく教われば、こうは打たない。教わらずに、ここまで来ている。

 浅い楔は、いつか緩む。緩んだ時にこの術がどうなるかを、沈曉は考え、それをまた、誰にも言えない側へ積んだ。


 夜半、堂の空気が変わった。

 並べた骸に、死が追いついてきたのである。堰き止められていた日数が、解けた楔の跡から流れ込み、顔の色を端から順に変えていく。

 沈曉は堂の戸を細く開けて夜気を入れ、それから、変わり始めた骸から順に、布と晒しで顔を覆っていった。楊文が明日目にするものを、ひとつでも昨日の顔のままにしておくための、間に合わせの仕事である。晒しは途中で尽きた。自分の替えの衣を裂いて、足した。

 壁際の寝息は、深いままだった。起こさないように布を裂くのは、存外に難しい。

 覆い終える頃、灯りの油が二度目に尽きた。

 埋葬は、急がねばならなかった。


 東が白む前に、沈曉は堂を出た。

 霜が降りていた。息が白く、石畳が足の裏から冷えを伝えてくる。提灯の要らなくなるまでの、灰色の刻限である。山の稜線と空との境が、墨を薄めるように緩み始めていた。昨日の乱戦の間から、頭の隅に引っかかっていたものがあった。境内の裏手、斎堂の並びから離れて、小屋がひとつ焼け落ちている。乱戦のさなかは、目の端で数えるだけで通り過ぎた場所である。

 近づくと、匂いが変わった。火の匂いではもうない。冷えて夜気を吸った、古い灰の匂いである。

 焼け跡には、割れた坩堝るつぼと薬壺が転がっていた。丸薬か傷薬を作る、丹房だったのだろう。火を使う小屋を離して建てるのは、どこの山も同じである。だが、割れた坩堝の内側には、薬を練った滓とは違うものが、黒く焼き付いていた。

 焼け方も、新しい。

 周りの木々には、何も燃え移っていない。この小屋ひとつだけが、内側から、丁寧に焼かれている。沈曉は灰を踏んで、中へ入った。焦げた梁を跨いだ足元で、灰の下の土が、妙に乱れている。

 膝を折り、灰を手で払った。

 何かを地面に描いて、掌で掻き消した跡だった。円の弧、交わる線――ほとんどは消えている。払うほどに、跡は重なって出てきた。描いては消し、描いては消した層が、幾重にもある。一度きりの仕事ではない。この小屋で、幾晩も繰り返している。

 急いたのか、驕ったのか、最後の消し方だけが粗かった。

 弧の端に、一画が残っている。

 筆で書けば、入りに癖の出る一画である。

 沈曉は、灰の上のその一画を、長く見ていた。

 夜が明けていく。灰色だった焼け跡に、物の輪郭が戻り、遠くで最初の鳥が鳴いた。この山で、昨日から初めて聞く鳥の声である。世の朝は、何も知らずに戻ってくる。

 その筆順を、沈曉は知っていた。

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