第12話 私の居場所は、ここにあるから

 ここはレオンハルトの城の一室。磨き上げられた黒檀のテーブルの上では、淹れたての紅茶から細い湯気が立ち上っていた。

 セシリアはカップに手を伸ばしかけたところで、その動きをぴたりと止める。

「セシリア様、お気を確かに。王都からの使者が、まもなくここまで到着いたします」

 心配そうに眉をひそめるのは、城の執事を務める老齢の側近だった。彼の忠告に、セシリアは静かに首を横に振る。

「大丈夫よ、ありがとう。私は落ち着いているわ」

 その声音に揺るぎがないのを確認して、執事はほっと息をついた。

 あれから――レオンハルトの呪いを解き、彼に連れられてこの北方の城にやってきてから、どれだけの月日が流れただろうか。

 かつて王都で過ごした日々のほうが、今では遠い夢のようだった。地味だと蔑まれ、王太子エドワードの傍らに立つ資格はないと冷たく言い放たれた夜。あの舞踏会の絶望が嘘のように、今のセシリアの心は満たされている。

 ここは決して温かな南方の土地ではない。窓の外には広大な雪原が広がり、冷たい風が城壁を叩いている。けれど、レオンハルトの紡ぐ言葉と、その大きな温もりに包まれるたび、セシリアの胸のうちは春の陽だまりのようにポカポカと温かかった。

 ――ガァン!

 突如として、頑丈な大扉が荒々しく押し開けられた。

 突然の訪問者に、室内の空気がピリと緊張する。やってきたのは、王都の紋章が刺繍された真新しいマントを翻す、一人の騎士だった。エドワードの側近である彼は、息を切らしながらも、その傲慢な目をギラつかせてセシリアを見据える。

「……見つけたぞ、セシリア・オルデ林。王太子殿下の名代として、貴女を連れ戻しにきた」

 使者の男の言葉には、微塵の敬意も含まれていない。まるで逃げ出したペットを連れ帰るかのような、命令口調だった。

 セシリアは慌てず騒がず、ゆっくりとカップをソーサーに戻す。カチャリと鳴る上品な音が、静かな部屋に響いた。

「連れ戻す、ですか。私は誰かに連れ去られたわけではありません。自分の意思でここに来たのです。ですから、その言葉はそっくりそのままお返しします」

「ふざけるな!」

 使者は一歩、踏み込む。その背後には武装した兵士たちの姿もちらついていた。

「貴女は王太子の婚約者であった身! このような忌まわしい竜王の巣窟に居座るなど、国の恥辱だ。それに、あの化け物は王国を脅かす脅威……! すぐに殿下の元へ戻り、お前がかけたという奇怪な呪いの術について詳細に説明せよ。殿下と王家にお詫びをすれば、過去の不始末も不問に処してやるとおっしゃっている」

 相変わらずだった。エドワードも、その周囲の人間も。

 他人の痛みなど微塵も理解せず、自分たちの都合の良いように世界が回っていると信じて疑わない。かつてのセシリアであれば、この有無を言わせぬ圧力に怯え、俯くだけだっただろう。

 しかし、今の彼女の瞳には、一切の迷いも恐れもなかった。

「不始末、ですか」

 セシリアはすっと立ち上がり、使者の男を真っ直ぐに見据えた。小柄な彼女の纏う雰囲気が、わずかにピリッとした緊張感を帯びる。

「私が王太子殿下から何を言われたか、貴方はご存知なくてそのセリフを口にしているのですね。私には価値がないと、地味で役に立たないからいらないと――そう言って、あの場所から私を追い出したのは、他でもない殿下ご本人ではありませんか」

「それは……殿下にもお考えがあっての――」

「言い訳はいりません」

 冷徹ですらある少女の声に、使者は言葉を詰まらせた。

「用済みになったから捨てた相手を、今になって都合よく連れ戻そうなどと、虫が良すぎます。私はもう、あの息の詰まる王宮に戻るつもりはありません。私の居場所は、ここにあるのですから」

「なっ……! 正気か! 相手は人間すら食らうと言われる竜王だぞ! そんな化け物のどこに魅入られたというのだ!」

 使者の声が怒気を含んで跳ね上がる。その言葉に、セシリアの胸の奥で、静かな怒りと、それ以上に大きな愛おしさが波打った。

「化け物などではありません」

 はっきりと、澄んだ声で否定する。

「レオンハルト様は、誰よりも優しく、不器用で、温かい方です。貴方たちが恐れる彼は、かつて孤独の中で誰にも救われず、それでもたった一人で耐え続けていた……。私は、そんな彼の強さと優しさに触れたのです」

 あの日のことを思い出す。

 傷つき、心を閉ざしていた巨大な竜の瞳。その冷たい鱗の奥にあった、凍てつくような孤独。

 セシリアが何気なく触れ、あふれ出た癒やしの魔力は、彼の呪いだけでなく、その孤独をも溶かしたのだ。レオンハルトは元通りの絶世の美男子に戻った今でも、少し不器用に、けれど全身全霊でセシリアを大切にしてくれる。

 冷たい風が吹き荒ぶこの城は、セシリアにとって世界で一番あたたかな場所だった。

「だから、私は帰りません。ここでレオンハルト様と共に生きると、自分の意思で決めたのです」

「……貴女、頭がおかしくなったのだな。国を裏切る気か!」

 使者が業を煮やし、強硬手段に出ようと手を伸ばしたその時だった。

「――誰の許可を得て、我が城で大声をあげている」

 低く、地を這うような、圧倒的な威圧感を伴った声が部屋の空気を凍らせた。

「レオンハルト様……」

 ふわりと、心地よい微風とともに、セシリアの肩に大きな温もりが重なる。振り返ると、そこには漆黒の髪を揺らし、息をのむほど美しい顔立ちをしたレオンハルトが立っていた。

 アメジスト色の瞳には、冷ややかな怒りの色が浮かんでいるが、セシリアに向けられた視線は雪解け水のようにどこまでも優しい。彼は自然な仕草でセシリアの細い肩を引き寄せ、自分の背中へと庇うように隠した。

「り、竜王……っ!」

 使者たちは目の前に現れた圧倒的な美貌と、それから放たれるただならぬプレッシャーに気圧され、一歩、また一歩と後ずさる。人間の姿であっても、彼がこの国の頂点に君臨する竜王である事実は微塵も揺るがない。

「我が愛しい妻に、何の用だ」

 レオンハルトのその一言に、使者だけでなく、部屋にいた全員が息を呑んだ。

 妻、という言葉に、セシリアの頬がカッと熱を帯びる。まだ正式に婚姻の儀を済ませたわけではないのに、レオンハルトは平然とそう言い切るのだ。恥ずかしさに身悶えそうになりながらも、セシリアは彼の袖をそっと掴んだ。

「レオンハルト様、私、自分の言葉できっぱりとお断りしました」

「あぁ、聞いていた。よく言ったな、セシリア」

 レオンハルトは柔らかく微笑むと、セシリアの頭にそっと手を置き、愛おしそうに撫でた。その溺愛を隠そうともしない態度に、使者はもはや反論する気力すらないようだった。

「……この件は、王都へ持ち帰らせてもらう!」

 使者は恐怖に耐えかねたようにそう叫ぶと、部下たちを引き連れ、蜘蛛の子を散らすように逃げ出していった。バタンと乱暴に閉ざされた扉の音が、遠くで虚しく響く。

 嵐が去ったあとのような静けさの中、セシリアはふっと息を吐き出した。

「行ってしまいましたね」

「あんな雑魚どもに構う必要はない」

 レオンハルトは冷淡に言い捨てるが、その手はしっかりとセシリアの手を包み込んで離さない。ひんやりとした外気とは対照的な、彼の大きな手のひらの温もりが心地よかった。

「セシリア。怖かったか?」

「ううん、全然。怖くなんかなかったわ。だって……レオンハルト様が来てくださるって、信じていましたから」

 素直な気持ちを告げると、レオンハルトの端正な顔がわずかに赤らんだ。彼は気まずそうに視線を逸らし、ぶっきらぼうにつぶやく。

「……油断ならない女だ。お前はいつも、こうして俺の心をかき乱す」

「ふふっ、本当にそうかしら?」

 意地悪く微笑んで見せると、レオンハルトは観念したように深く溜息をつき、セシリアをしっかりと抱き寄せた。

 彼の胸に顔をうずめると、心地よい香りと共に、心臓の鼓動が伝わってくる。

「王都に戻る気などない、か」

「ええ、絶対に。私の居場所は、ずっと貴方のそばにありますから」

 レオンハルトの腕が、少しだけ力を強めた。言葉はなくとも、その温もりから彼の溢れんばかりの愛情が伝わってくる。

 二度とあの冷たい場所に帰る必要はない。セシリアは目を閉じ、愛する人の胸の中で、穏やかな幸福を噛み締めた。

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