第11話 王都からの不穏な使者
かつては荒涼としていた城の中庭は、セシリアが宿す癒やしの魔力によってすっかり生まれ変わり、今では色とりどりの花々が咲き誇る美しい楽園となっていた。青空の下で風に揺れる花びらを眺めているだけで、胸の奥がじんわりと温かいもので満たされていく。
王都の夜会でエドワードから理不尽な婚約破棄を告げられ、絶望のどん底に突き落とされていたのが嘘のようだ。あのとき、すべてを失ったと思った彼女を拾ってくれたのは、ほかならぬレオンハルトだった。
呪いによって異形の竜の姿に変えられていた彼は、セシリアの無意識の癒やしによって瞬く間に元の絶世の美男子へと戻り、それ以来、彼女を誰よりも大切に扱ってくれている。
無愛想で不器用つけれど、ふとした瞬間に向けられる琥珀色の瞳はどこまでも優しく、包み込むような温もりがあった。この城で過ごす日々に、セシリアの心はすっかり穏やかな安らぎを見出していた。
「セシリア」
低く響く、心地よい声に呼ばれて振り返ると、回廊の影からレオンハルトの姿が現れた。風に揺れる銀の髪と、深い夜空のような群青色の瞳。いつ見惚れてしまうほど端正な顔立ちの彼が、わずかに眉を寄せながら歩み寄ってくる。
手には、一通の羊皮紙が握られていた。
「どうしたのですか、レオンハルト様」
「……やっかいな客人が、この城のふもとまで来ている」
客、という言葉を選んではいるものの、レオンハルトの声音には明確な敵意と冷徹な警戒の色が滲んでいた。セシリアはふわりとスカートの裾を持ち上げ、彼のそばへと歩み寄る。
「客人が、ですか?」
「あぁ。王都からの使者だ。俺たちがこの城にいることを突き止め、わざわざご丁寧に挨拶にやってきたらしい」
レオンハルトは忌々しげに息をつくと、手元の羊皮紙をちらりと視線で示した。
王都からの使者。その言葉を聞いた瞬間、セシリアの胸の内で、すっかり薄れていたはずの過去の記憶が小さく波立った。
エドワード。かつて婚約者だった王太子。彼が自分のしたことの意味に気づき、慌ててセシリアを取り戻そうとしているのか。あるいは、竜王の力を恐れつつも、政略的な利用価値を見出して接触を図ってきたのか。どちらにせよ、穏やかに暮らしているこの城に王都の影が伸びてくることなど、セシリアにとってはただの迷惑でしかなかった。
「私を……探しに来たのでしょうか」
「おそらくはな。お前を連れ去った『暴虐の竜王』から、無力な伯爵令嬢を救い出すという大義名分でも掲げているのだろう。ちゃんちゃんちゃん腹立たしい」
レオンハルトはそう吐き捨てるように言うと、セシリアの肩をそっと引き寄せ、自分の背に隠すように庇った。その独占欲を隠さない仕草に、セシリアは思わず小さく微笑んでしまう。
「私はどこへも行きません。レオンハルト様のそばにいると、自分で決めたのですから」
「わかっている。だが、人間の欲深さというものは厄介だ。お前が俺のそばで笑っていることが、連中には面白くないらしい」
レオンハルトの指先が、セシリアの頬を優しくなぞる。その温もりに触れるだけで、王都への恐怖など綺麗に霧散して消えていく。彼がいてくれるなら、どんな障害が訪れようとも恐れるものなど何もないという確信が、セシリアの心を強く支えていた。
「使者は、もうすぐ城の門に到着する。面会するかどうかは、お前に任せる。追い返したければ、今すぐ俺が追い払ってやってもいい」
レオンハルトの瞳には、愛しいものを守るための揺るぎない決意が宿っていた。彼は自分の権力や力を使って使者を追い払うことを厭わないだろう。だが、セシリアは首を横に振った。
「いいえ、お会いします。逃げ隠れしていると思われるのは癪ですし、私の口からはっきりと、もう王都には戻らないと告げなければなりません」
セシリアの意志の強さを感じ取ったのか、レオンハルトは小さく息を呑み、それからふっと柔らかく微笑んだ。
「あぁ、そうだな。我が愛しい花よ、お前の望むようにするといい。俺がずっと、お前の後ろに控えている」
* * *
重厚な大扉が開き、応接室に通された使者は、いかにも王都の高級官僚らしい気位の高い男だった。背筋をピンと伸ばし、絹の仕立ての良い上着をまとったその男――侯爵家の紋章をつけた騎士団の副官であるオルランドは、部屋に入るなり、あからさまに眉をひそめた。
かつては荒れ果てていたこの城も、今では手入れが行き届いているとはいえ、古い石造りの厳めしさは変わらない。オルランドは、まるで汚染された場所に入ってきたかのような露骨な嫌悪感を隠そうともしなかった。
「失礼する。竜王レオンハルト殿、そして……セシリア・フォン・グランツ伯爵令嬢」
形だけの礼をとったオルランドの視線が、レオンハルトの背後に立つセシリアへと向けられる。その目は、彼女を心配しているというよりも、王家の所有物であるはずのものが勝手に持ち出されたことに対する不満の色に満ちていた。
「何の用ですか、オルランド卿。我が領地に何の断りもなく足を踏み入れるとは、それなりの覚悟があってのことでしょうね」
レオンハルトがソファに深く腰掛けたまま、低く冷たい声で問う。その圧倒的な威圧感に、オルランドはごくりと喉を鳴らしたが、すぐに取り繕うように胸を張った。
「これは失礼した。しかし、我々としても急を要する用件があったものでね。――レオンハルト殿、貴殿が王都の夜会から連れ去ったセシリア君を、速やかに王家へと返還していただきたい」
オルランドの口から発せられたその言葉に、セシリアは冷ややかに目を細めた。
『返還』。まるで彼女を一柱の美術品か、あるいは都合の良い道具のように扱うその物言いに、怒りよりもむしろ深い呆れが湧いてくる。
「返還、ですか。私は誰かに連れ去られたわけではありません。自分の意思で、この城にやってきたのです」
セシリアが一歩前に出てそう告げると、オルランドは信じられないものを見るように目を見開いた。
「なっ……何を言っているんだ、セシリア君! 殿下は君を深く案じておられるのだぞ! 竜王の脅しに屈して、そんな奇妙なことを口走っているのではないだろう? 殿下の婚約者としての誇りを取り戻しなさい。王都へ戻れば、君を迎え入れる準備は整っている」
オルランドの言葉の裏には、エドワードの焦燥が透けて見えた。
彼女を捨てたのはエドワード自身だというのに、都合が悪くなれば「婚約者としての誇り」を持ち出すなど、ちゃんちゃらおかしい。あの夜、冷たく切り捨てられた記憶が鮮やかに蘇り、セシリアの胸の内で小さく灯っていたかつての情愛の残り火は、完全に冷え切って灰になった。
「私にはもう、王都における居場所などありません。そして、エドワード殿下の婚約者だった記憶も、あの夜の舞踏会の時点でとうに捨ててきました」
「正気か!? 君は自分が何を言っているのかわかっているのかね? 王太子の婚約者を破棄し、このような呪われた地の竜王の囲い者になるなど……貴族としての名誉をすべてドブに捨てるようなものだぞ!」
オルランドの声が苛立ちに満ちて尖る。彼の背後には、王家のメンツと、エドワードからの命令を何としても果たさなければならないという焦りしかなかった。
しかし、セシリアは微動だにせず、真っ直ぐにオルランドを見据えた。
「名誉など、最初から私には与えられていませんでした。地味で無力だと言われ、必要とされなくなったときからずっと。ですが……この城で、私は初めて自分が生きている実感を得たのです」
セシリアがそっと視線を落とすと、そこにはレオンハルトの大きな手が優しく重なっていた。彼の体温が、ドレスの布地を越えて心地よく伝わってくる。
レオンハルトは何も言わず、ただ静かにセシリアを支えるように手のひらを包み込んでくれている。その無言の優しさが、彼女に計り知れない勇気を与えてくれていた。
「王都の使者殿。お前の主である王太子に伝えるといい。私は二度と王都には戻らない。私の居場所は、今この人のそばにあるのだと」
きっぱりと言い放ったセシリアの声には、かつての弱々しさは微塵もなかった。
オルランドは絶句し、目の前の令嬢がまるで別人のように強く、気高く輝いていることに気圧されたように一歩後じさった。
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