第6話 天空を駆ける、二人きりの夜間飛行

耳元で轟くのは、地を揺るがすような巨大な羽音。そして、肌を刺すような高空の気圧を遮るように、目の前の男性はしっかりとセシリアをその腕の中に抱え込んでいた。

舞踏会の喧騒も、王太子エドワードの冷酷な声も、今や遠い世界の出来事のようだ。信じられないことに、セシリアは今、漆黒の巨大な竜の背中に乗せられている。いや、正確には、その竜から人間の姿へと戻ったばかりの、息をのむほど美しい竜王レオンハルトの腕の中にいるのだ。

「……あの、レオンハルト様」

恐る恐る声をかけると、レオンハルトはかすかに身じろぎをして、夜空の星を映したような深い琥珀色の瞳を彼女に向けた。

「怖いか? すまない、風が強いな。もう少し、近くに寄っていなさい」

低く響く、ビロードを思わせる艶やかな声。

先ほどまで、おぞましい鱗と歪んだ角を持つ異形の怪物だったとは思えない。整った眉目、月の光を浴びて銀色に輝く髪、そして夜の闇すら魅了しそうな端正な顔立ち。彼の胸元にしがみついているだけで、言い知れぬ圧倒的な美しさに気圧されそうになる。

けれど、その声も腕の温もりも、驚くほど優しい。

セシリアはこくりと頷き、彼のカシミヤのコートの胸元にそっと顔を埋めた。香るのは、夜風と、どこか懐かしい森のハーブのような清々しい香り。あんなにも冷え切っていた心が、彼の体温によって少しずつ解きほぐされていくのを感じる。

「怖くは……ありません。ただ、あまりにも現実離れしていて……夢を見ているみたいで」

「夢ではないさ。お前が俺を呪いから解放したその瞬間から、これはまぎれもない現実だ」

レオンハルトは片手で優しくセシリアの背中を包み込み、もう片方の手で夜空を切り開くように大きな翼を羽ばたかせた。

視線を下に向ければ、眼下に広がるのは宝石を散りばめたような王都の夜景、そしてそれをも飲み込むような深く果てしない闇の森。ふわりと体が浮遊するような感覚に襲われるたび、レオンハルトの腕に力がこもり、決して落とさないという強い意志が伝わってくる。

「私を……どこへ連れていくつもりなのですか?」

「俺の城だ。人間界の者たちは『竜のねぐら』などと恐れ、近寄ろうともしないがな」

レオンハルトはふっと柔らかく微笑んだ。その表情のあまりの美しさに、セシリアは思わず息を呑む。

「竜王の城……。私、あんな盛大な場所から飛び出してきてしまいました。王太子殿下との婚約は破棄され、お父様も、きっと私を……」

そこまで口にして、セシリアの胸に再び小さなどす黒い痛みがよぎった。

実の父親からも「無能な厄介払いだ」と冷遇され、信じていたはずの婚約者には目の前で他の女を選ばれ、社交界の笑い者として追い出された。どこにも居場所などない。自分という人間は、最初から誰からも必要とされていなかったのだと。

暗い感情が波のように押し寄せ、セシリアの体が小さく震えた。

その微細な変化を、レオンハルトは見逃さなかった。

「セシリア」

呼びかけられ、顔を上げると、レオンハルトは真っ直ぐに彼女を見つめていた。その瞳には、憐れみではなく、深く温かな光が宿っている。

「お前は、自分の力を過小評価しすぎだ。……いや、周囲の人間が、お前の価値に気づく目がなさすぎたと言うべきか」

「私の……価値?」

「ああ。長年、俺を苦しめてきた強大な呪いを、お前はただ触れただけで浄化してみせた。あれほどの癒やしの魔力を持つ者など、この大陸の歴史を探してもどこにもいない。お前は無力などではない。奇跡の力を持った、気高い女性だ」

胸の奥が、熱くじわりと疼いた。

今まで誰からも「地味」「役立たず」「お荷物」と言われ続けてきた。癒やしの魔法の適性が低いと諦め、お飾りとしての役割すら果たせない自分を恥じて生きてきた。

それなのに、この国で最も恐れられている最強の竜王が、自分を真っ直ぐに肯定してくれている。

「私……そんなに、すごい力なんて持っていません。ただ、苦しそうだったあなたに、触れたくて……どうにかしてあげたくて、夢中で魔力を流しただけで……」

「それがいいのだ」

レオンハルトは愛おしそうに、セシリアの頬にそっと指先を触れた。その指先が少し冷たくて、けれどすぐに体温が移り合って心地いい。

「計算や打算ではなく、純粋な慈愛の心で、お前は俺を救ってくれた。その優しさこそが、何よりも尊い力だ。……なぁ、セシリア。我が領地へ来い。そこでは、誰もお前を傷つけはしない。お前が望むなら、何でも与えよう」

「でも、私は……あなたの負担になりませんか? 突然、見ず知らずの人間を連れて帰られても……」

「負担なものか」

レオンハルトは低く笑い、さらに腕に力を込めた。

「むしろ、お前をあの場に置いておくことなど考えられなかった。あの愚かな王太子とやらは、自ら最大の宝を手放したことに、いつか血を流して後悔するだろう。だが、もう遅い。お前は俺がもらった」

「レオンハルト様……」

その言葉の甘さに、セシリアの頬がカッと熱を帯びるのがわかった。暗い夜空の上だからこそ、赤くなった顔を彼に見られずにすむことが救いだった。

風の音が、心地よい子守歌のように聞こえてくる。

あんなにも絶望に満ちていた一日の終わりに、こんなにもあたたかな腕の中にいるなんて、誰が想像できたろう。

「少し、眠るといい。城までにはまだ少し距離がある。風は俺が完全に遮ってやるから、安心して身を任せなさい」

優しく囁かれ、セシリアはこくりと頷いた。

緊張の糸がプツリと切れたように、急激な眠気が襲ってくる。心細さはもうどこにもなかった。あるのは、この強くて優しい竜王に包まれているという、絶対的な安心感だけだ。

セシリアは彼の温もりに身を預け、そっと瞼を閉じた。

遠くで夜風が歌うように吹き抜けていく。

王国を追放された夜、少女は新しい世界へと羽ばたく空の上で、人生で初めての穏やかな眠りについた。

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