第5話 竜王の強引な誘拐劇

視界を満たしていた禍々しい漆黒の鱗が嘘のように霧散し、あとに残されたのは、ただ圧倒的な美しさを持つ人間の姿だった。

月の光が、彼の豊かな銀髪を白銀に染め上げる。夜空の星を閉じ込めたような深い群青の瞳が、驚きにみちた私をまっすぐに見つめていた。

「……君は」

低い声だった。耳の奥をくすぐるような、心地よい響きを含んだ声音に、私は息を呑む。

先ほどまで恐ろしい竜の唸り声をあげていた怪物と、目の前にいる青年が同一人物だなんて、どうしても結びつかない。整いすぎた顔立ちは彫刻のように端正で、けれどどこか儚げな冷たさをまとっている。

「うそ、本当に……もとに、戻っちゃった……?」

私は自分の手のひらを見つめた。

地味で、何の役にも立たないと家族に疎まれ、王太子エドワードには「役立らずの癒やし手」と嘲笑われて婚約を破棄されたばかりの、私自身の小さな手だ。

私に備わっていたのは、ほんの少しの癒やしの魔力だけのはずだった。傷を塞いだり、疲労を和らげたりする以上のことはできないと、ずっと教えられていたのに。

なのに、あの恐ろしい呪いを解いてしまった。王国最強の騎士団でも歯が立たなかったという、異形の竜王の呪いを。

「信じられないな」

ふっと、青年の唇が緩んだ。その笑みがあまりにも美しくて、私は心臓が跳ねるのを覚えた。

彼はゆっくりと身体を起こす。その動作すら、まるで貴族の舞踏会のワンシーンのように洗練されていた。彼は身につけていた黒い軍服の襟を正すと、私をまっすぐに見据えた。

「長年、私を縛り続けていた呪いが、こうも呆気なく解けるとはね。しかも、私の運命の相手の手によって、だ」

「うんめい……?」

聞き返した私の声は、夜の静けさに溶けて消えそうなくらい小さかった。

「そうだ。古い言い伝えがある。我が呪いを解く者は、絶対的な癒やしの力を持ち、我が魂の半身となる者だとね」

「ちょっと待ってください。私はただ、その、放っておけなくて……」

混乱しながら後ずさろうとした私の足元が、石畳の段差にもつれる。

「きゃっ」

思わず目を閉じたけれど、地面に叩きつけられる衝撃は来なかった。代わりに、ふわりと心地よい風に包まれ、誰かの硬く引き締まった腕の中に抱きとめられていた。

目を開けると、すぐ目の前にレオンハルトの整った顔があった。

「危ない。怪我はなかったかい?」

「あ、あの、離して……みんなが見てます!」

私が慌てて周囲を振り返ると、そこには言葉を失ったまま凍りついている王太子エドワードや、ドレスを着たご令嬢たちの姿があった。彼らはまるで化け物を見るような、いや、それ以上の恐怖と畏怖の入り混じった目でこちらを見つめている。

「エドワード様……!」

助けを求めるように元婚約者の名を呼ぶ私に、エドワードは顔面を蒼白にさせたまま、一歩、また一歩と後じさっていた。私を捨てた男は、今や目の前の美青年の放つ圧倒的な威圧感に気圧され、震えているだけだった。

「無駄だ。あんな男に助けを求めても意味はない」

レオンハルトの腕に力がこもる。その声は低く、けれどどこか冷徹な響きを帯びていた。

「彼らは私を恐れ、君を侮蔑した。そんな場所維に、いつまでも君を置いておく理由などどこにもない」

「え……?」

「さあ、行こうか。私の城へ」

「待って、私、心の準備が……きゃっ!」

抗議する間も与えず、レオンハルトは軽々と私を抱き上げた。まるで重さを感じさせないかのように優しく、けれど絶対に逃がさないという強い意志を込めた抱擁だった。

次の瞬間、彼の背から再び巨大な黒い翼が広がり、夜空へと羽ばたくための風を巻き起こした。

「お、お祖父様……お父様……!」

テラスの端から、血相を変えた父と伯爵家の面々が駆け寄ってくるのが見えた。しかし、彼らの声は、すでに夜空を切り裂く風の音にかき消されていく。

ガウンの裾が夜風に激しく翻り、私たちはあっという間に王宮の灯りを眼下に小さくしながら、闇夜へと飛び立っていった。

「ひゃあ……!」

急激な浮遊感と冷たい風に思わず悲鳴をあげ、私はレオンハルトの胸元へと反射的にしがみついた。彼の衣服越しに、しっかりとした筋肉の温もりが伝わってきて、心臓が早鐘を打つ。

「怖がらなくていい。私がついている」

耳元で囁かれた声は、先ほどの冷たさが嘘のように優しかった。

そっと見上げると、レオンハルトは私をしっかりと抱きかかえたまま、夜空を滑るように進んでいる。月明かりに照らされた彼の横顔は、やはり人間離れした美しさを誇っていたが、その瞳には慈愛に満ちた光が宿っていた。

「風が強いから、もっと私に捕まっていていい」

「……っ、そんなこと言われても……」

顔が真っ赤に熱を帯びるのが自分でもわかった。

地味で、何の取り柄もないと笑われ続けた私が、今、王国を震撼させていたはずの竜王に抱きしめられて夜空を飛んでいる。これまでの人生がまるで嘘のようにめまぐるしく変わりすぎて、頭の整理が追いつかない。

けれど、不思議と恐怖はなかった。

彼の腕の中は驚くほど温かく、心臓の音すら心地よく響いてくる。

「私はレオンハルト。北方の領地を治める者だ。君の名前を教えてくれないか、私の救い主よ」

翼を風に乗せながら、彼は柔らかく微笑んで私に問いかけた。

夜風の冷たさが、なぜか今は心地よく感じられた。私は大きく息を吸い込むと、震える小さな声で答えた。

「……セシリア、です。セシリア・ローウェル」

「セシリア、か。とても可愛らしい、綺麗な名前だ」

レオンハルトは満足したように微笑むと、さらに私をしっかりと抱きしめ直した。

私を捨てた人たちの冷たい視線も、あの息苦しかった舞踏会も、もう遠い世界の出来事のようだ。私を必要としてくれる場所へ、私たちは今、夜空を駆けていく。

これから何が始まるのだろうという不安と、それ以上に胸を焦がす微かな期待を胸に抱きながら、私は彼の温もりにそっと身を委ねた。

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