第11話
アイゼンヘルト城の北側、歩いて15分ほどのところにある小高い丘に、一族の墓が集まっている。
ディートリヒはそのうちの一つ、他の墓よりも少しだけ離れた位置にある小さな墓に詣でていた。墓には称号や美辞はほとんど刻まれておらず、簡素なものだ。
マルガレーテ・アイゼンヘルト
エミール・アイゼンヘルトの母
ディートリヒは墓石の前に立ち、頭を垂れた。
命日より一月ほど早い。
だが彼女を慕う者たちが、彼が詣でるのを見れば不快になることを知っていた。
「やはりここにいたか」
ディートリヒは振り向いた。よく見知った顔があった。
「早いな」
「そう迷惑そうな顔をするな」
ディートリヒの従兄弟、フェリクス・ファルケンラートが墓石に視線を移す。
「叔母上が亡くなってからもう10年か」
「そうだな。俺が処刑したからな」
ディートリヒは人ごとのように言う。
フェリクスは顔を曇らせた。
「もう寄せ。自分を許せとは言わない。だが罰し続けるのは辞めろ」
「そうだな」
フェリクスは白い花を一輪、墓石に備えた。
「思い出すな。俺とお前が喧嘩すると、いつも叔母上はお前を庇って俺を怒った」
ディートリヒが黙っていると、フェリクスは続けた。
「お前ばかりが可愛がられているようで悔しかったが、今考えると、お前の母親役をやろうとしていたんだろうな」
懐かしそうにフェリクスが目を細める。
「そうか」
ディートリヒは呟いた。
彼が思い出せる叔母は、息子の遺体に縋りつき、ごめんなさいと狂ったように泣く、老婆のような横顔だけだった。
二人は北の小門を抜けて、城に戻った。執事に帽子を預け靴の泥を払っていると、聞き覚えのある足音が近づいてきた。
「おかえりなさいませ。無事にお会いできたようで、安心いたしました」
にこやかに笑みを浮かべ、イングリッドが姿を見せた。
ディートリヒがフェリクスを見ると、笑って首を振った。
「先ほどお会いして驚いたよ。これほど聡明で魅力的な夫人を妻にできた、世界一幸せな男は誰かと思ったらお前だったとは」
「相変わらずよく口が回るな」
「お前の代わりに回しているんだ」
「負担をかけて悪いな」
「どういたしまして」
「減らしても構わんぞ」
ディートリヒはいつもと変わらなかったが、イングリッドは一度だけ目を瞬かせた。
「勿体無いお言葉で恐縮でございます。北の道は暑うございましたでしょう。冷たいものを用意してございますので小客間でお寛ぎください」
にこやかに微笑み、イングリッドは二人を案内する。姿勢の良い歩き方も、フェリクスの調子の良い言葉を受け流す横顔も、ディートリヒの目には真実堂々として落ち着いているように見えた。
「辺境伯夫人。突然の訪にも関わらず、このように迎えていただきありがとうございます」
フェリクスは冷たい果実水を飲み干してから言った。
「こちらこそ。閣下の親しい方をお招きできて嬉しく思っております」
そう気を使う必要もない男だというのに、イングリッドは相変わらず笑顔を絶やさない。
「アイゼンヘルトの新しい奥方は美しいと評判でしたが、噂は当てになりませんね。実物の美しさの半分も伝えていない」
「まあ」
「フェリクス」
ディートリヒの声が尖る。
「褒めているだけだ」
「やめろ」
フェリクスは肩をすくめた。
「過分なお言葉です、ファルケンラート卿。少しでも旅の疲れが和らいだなら幸いです」
あくまで穏やかにイングリッドが言う。
「ええ。おかげさまで疲れはすっかり取れました。もっともこの暑い中、坂道を登らせてくれた御当主には文句の一つも言いたいところですが」
「お前が勝手についきてきたんだろう」
「墓地に従兄弟を一人で置いておけるほど薄情ではないんでね」
ディートリヒは一瞬言葉に詰まった。
「お茶のほかに、冷やした麦酒もご用意できます」
イングリッドが笑みを浮かべながら言う。
「ありがたいね。お願いしよう」
「では、手配してまいりますので、ごゆっくりお寛ぎください」
イングリッドが退出した扉をしばらく見てから、ディートリヒはため息をついた。
「妻に無礼なことを言うな」
「ただの慰労だ」
「容姿を品評することのどこが慰労だ」
フェリクスは眉を顰める。
「何をそんなに怒っているんだ。褒めただけだ」
「容姿のような自分ではどうにもできないものを評価するのはやめろ」
ソファに身を預け、フェリクスは呆れたように肩をすくめた。
「バカ言え。貴族女性の容姿が努力の成果じゃないことがあるか」
ディートリヒは不意を突かれて黙った。
「姿勢も所作も、髪や肌の手入れも、何年も積み重ねてのものだ。ましてや奥方はあの美しさだ。当然だろう」
「そうなのか」
女性の身支度について、今までディートリヒは考えたこともなかった。
だがフェリクスの言うことは筋が通っているとも思った。
「むしろ、縁のない土地に嫁いで、懸命に女主人をやっている若い奥方に、そんな事すら言わないのかお前は」
「……イングリッドは、よくやってくれている」
「ちゃんとそう言っているか」
「助かった、と」
フェリクスは腕を組む。
「まあかろうじて及第点だな」
「誰が採点を頼んだ」
「心配してるんだ、ディート。俺はお前がお前なりに奥方を尊重してるのは分かる。だが奥方にとってはお前はただの無口で顔の怖い大男だ」
「そうだな」
「甘い言葉で口説けと言ってるわけじゃない。夫として言うべき言葉は惜しむな」
氷の入ったグラスを置いて、ディートリヒはフェリクスの真向かいに座った。
「まだ、俺たちは夫婦ではない。子を持つことについて、決めきれていない。彼女も、俺も」
フェリクスは一拍置いてから言った。
「叔母上の話をしたのか」
「そこまではしてない」
「奥方はなんて」
「背信行為だと」
「だろうな」
ソファに深く座り直し、フェリクスは頭の後ろで両手を組んだ。
「だが奥方にも迷いがあると」
「妹が泣いて嫌がるような、血塗れ辺境伯に体を預けるのは嫌に決まっているからな」
「彼女がそう言ったのか」
「言うわけがない」
想定よりも語気が強くなった。
夏用の薄いカーテンが風でわずかにそよぎ、柔らかな日だまりが揺れる。
「とにかく、俺が言いたいのは、奥方にとってこの城で頼れるのはお前だけだということだ。ちゃんと自分は味方だと示してやってやれ」
「分かっている」
フェリクスは一つ息を吐いた。
「でないと俺が代わりに言うことになる」
「言わんでいい」
「だからお前は朴念仁と言われるんだ」
「誰が言うんだ」
「俺」
「帰れ」
「今来たところだぞ」
扉を叩く音が鳴る。
従僕が汗をかいた瓶に入った麦酒と、グラスを二つ持って入ってきた。
ディートリヒはフェリクスと杯を交わし、麦酒に口をつけた。
「今日は俺の従兄弟がすまなかった。疲れただろう」
いつもの共同寝室で、ディートリヒはイングリッドに声をかけた。
「滅相もございません。それと、ファルケンラート卿は普段お使いの客間は蒸して暑いようでしたので、ハルトマンと相談して東の客間に変更いたしましたが、問題はございませんか」
「ああ構わん。あいつは雨風が凌げればどこでもいい奴だ」
イングリッドがディートリヒの顔に、一拍視線を留めた。
「閣下が、冗談を仰るのを初めて拝聴いたしました」
「そうだったか」
「はい」
フェリクスの言うとおりだ、と唐突に思う。イングリッドの甘い香りはおそらく髪や肌に使う香油なのだろう。
「子供時代はほとんど一緒に育ったからな。弟のようなものだ」
「楽しそうでいらっしゃいましたね」
イングリッドはいつもディートリヒの目を見て話す。不快ではないのに落ち着かない気分になる。
「あいつは多弁だからな。答えるだけでこっちの口数が増える」
「左様でございますか」
イングリッドが口元に手を当てた。笑っているように見えた。
伏せた睫毛が頬に淡い影を落とす。ほどけた髪が肩の丸みに沿って流れていた。
甘い香りが、わずかに近くなる。
「閣下?」
イングリッドが顔を上げた。
そこで初めて、自分が長く彼女を見続けていたことに気づいた。
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