第10話
「ハーゲン卿ご夫妻がお見えになりました」
執事が告げる。
緊張した面持ちの若い夫妻が応接間に入ってきた。
「ハーゲン卿、ようこそ。夫人もよくお越しくださった」
ディートリヒが硬い表情で言う。
「妻のイングリッドだ」
「初めまして。お目にかかるのを楽しみにしておりました」
イングリッドは微笑む。
「初めてお目にかかります、辺境伯夫人。お招きいただき光栄です」
「お招きありがとうございます。お会いできて光栄に存じます」
ハーゲン卿に続いて、ハーゲン夫人も深く礼を取る。
ハーゲン家はアイゼンヘルト領内の小領主で、この若い夫妻は家督を継いだばかりだ。
「ご当主となられて間もなく、何かとお忙しいことと存じます。夫人もお疲れではございませんか」
ハーゲン夫人は緊張の隠しきれない顔でイングリッドを見上げた。
「はい。まだまだ未熟で義母や周囲に教えを乞うことも多くございますが、夫を支えるべく精進しております」
強張った表情とは裏腹に、澱みのない言い回しだった。
「ご経験のある方がお側にいらっしゃるなら、さぞかし心強いでしょうね」
イングリッドはおっとりと微笑む。新しいハーゲン夫妻は若いのに見識があるという評判である。
「はい。夫ともよく相談して務めを引き継いでおります」
「ご夫婦で相談なさっているのですね」
イングリッドが視線を向けると、ハーゲン卿が上擦った声で応じた。
「妻の意見にはよく助けられております。私よりもよほど領民の暮らしに近いところまで見えていますので」
「いえ、私など義母の受け売りばかりですので」
夫人は恥じらうように目を伏せた。
「お二人で協力してお務めを担っていらっしゃるのですね」
イングリッドが感心していると、扉の外から人の気配がした。
来たのは古参の騎士家夫妻である。ディートリヒとも長い付き合いで、今も強く信頼していると聞いていた。
夫妻は落ち着いた雰囲気の老夫婦で、イングリッドともハーゲン夫妻ともすぐに打ち解けた。
夫妻と和やかな会話をしていると、今度は領内の有力な商家の夫妻がやってきた。
朗らかで話の上手い中年の夫と、明るく洗練された佇まいの妻で、夫妻が入場するなり場が途端に華やいだ。
「リンデンフェルス伯爵夫妻がお見えになりました」
最後にやってきたのは、50歳前後だろうか、小柄だが品のある夫婦だった。
「リンデンフェルス伯爵、伯爵夫人。ようこそおいでくださいました。お会いできて大変嬉しく思います」
ディートリヒが能面のような表情で、澱みなく言う。
「こちらは妻のイングリッドだ」
「お初にお目にかかります。この度はご丁寧なお返事をありがとうございました」
イングリッドは腹に力を入れて、ゆったりと言葉を紡ぐ。
「まあ、こちらこそ。素敵な奥様。お会いできて嬉しいわ。リンデンフェルス伯爵夫人のミランダよ」
「ご招待ありがとうございます。お目にかかれまして光栄です」
伯爵夫人と伯爵が揃って礼を取る。伯爵夫人はにこやかに微笑みながらも、好奇心が隠せないようでキラキラと目が輝いている。
伯爵は丁寧に礼を取りながらも、瞳の奥に警戒が隠しきれていない。
「遠路はるばるありがとうございました。道中はいかがでしたか」
「快適でしたわ。峠の新しい道のおかげね。馬車の揺れも本当に少なくて」
「雨上がりでも路面は崩れていませんでした。人も荷も随分通りやすくなったんでしょうな」
リンデンフェルス伯爵が頷くと、ディートリヒが口を開いた。
「無理を通したかいがありました。危険な場所ですから、雨季が長引けば大きく損害が出る可能性もあった」
「私たちも大変ありがたく思っています。閣下にとってはそれだけではないのでしょうが」
商人が上機嫌に言う。辺境伯領にとっては平時の生活道路というだけではなく、有事の兵や兵糧を通す軍道になる。
「あら、お久しぶりね。ウェーバー殿」
リンデンフェルス伯爵夫人が、明るく声をかけた。
「ご無沙汰しております。ご贔屓にしていただきありがとうございます」
「皆様お知り合いでしたか」
イングリッドは話の切れ目に静かに言葉を滑り込ませる。
「ええ。ウェーバー殿ご夫妻や、タールベルク卿ご夫妻とは昔からお付き合いさせていただいているわ」
「こちらのハーゲン卿ご夫妻とはお会いしたことはございますか」
リンデンフェルス伯爵夫人はハーゲン卿夫妻に視線を移す。
「まあ、ハーゲン卿。ご当主になられたと伺ったわ。おめでとうございます」
「ありがとうございます。こちらは妻でございます」
「初めてお目にかかります。伯爵夫人」
ハーゲン卿夫人が、体をこわばらせたまま礼をとる。
「あら可愛らしい奥方様。仲良くしてくださいね」
リンデンフェルス伯爵夫人が返したところで、執事が静かにイングリッドに近づいた。
「奥様、晩餐の準備が整いました」
イングリッドは会話が落ち着くのを待って声をかけた。
「皆様、お食事の準備が整いました。それでは晩餐室に参りましょう」
そう告げると、ディートリヒが練習した通りに腕を差し出した。
イングリッドが手を添えると、腕にはわずかに力が入っていた。
晩餐室には磨き上げられた銀器が並び、十人掛けのテーブルの上には、向こうの顔が見えるよう、背を低く揃えた夏の花が飾られている。
全員が席次通りに席へつき、杯に酒が注がれる。
ディートリヒが杯を手にして立ち上がる。
「本日は、遠路はるばるお越しいただき、感謝します。妻を迎えてから初めて、こうして皆を迎えることができました。今後とも変わらぬ親交をお願いします」
杯を掲げると皆が応えた。
リンデンフェルス伯爵が立ち上がった。
「では、お招きいただいた者を代表して私からも。改めまして、本日は辺境伯閣下と奥方様のご婚姻をお祝い申し上げます。アイゼンヘルト家のますますの繁栄とお二人の末永いご幸福を」
乾杯を交わし、食事が始まる。
アイゼンヘルト産のものを中心に、それぞれの好みに合わせ、食べやすいものを用意してある。
「ウェーバー殿はもう荷馬車を通していらっしゃるのですね」
「ええ。半日ほど短縮できるようになりましたから、痛みやすいものも運びやすくなりました」
「半日も」
ハーゲン卿が驚いて言う。
「あの峠には昔から苦労させられましたな。冬には荷馬車を捨てて、馬にくくりつけたこともありました」
タールベルク卿が昔を思い出すように目を細めた。
「そうねえ。冬の方が大変だったのよねえ。うちも昔は泣く泣く荷を捨てたものよ」
ウェーバー夫人が頷く。
「今年は天候が良いから、出荷する方も助かりそうね」
「そうだな。市に間に合って良かった」
「今年のハーゲン領はいかがですか」
イングリッドがハーゲン夫妻に水を向ける。
「今年は春先の霜が少なくて林檎の実のつきが良いので、例年よりも収穫量は増えそうです」
ハーゲン卿が答えると、夫人も控えめに続けた。
「倉庫に入れなくなりそうなら、林檎酒に使う分も増やそうかと考えていて」
「まあ、いいわね。こちらは何でも美味しいから、お酒が進んでしまって困るの」
伯爵夫人が杯を呷り、葡萄酒を水のように飲み干した。伯爵が夫人に何か言いかけて止める。
イングリッドは度数の低い林檎酒を注ぐように、給仕に指示した。
「この川魚の焼き物、とっても香りがいいわね。奥方様が采配してくださったのかしら」
タールベルク卿の夫人がにこやかに微笑む。
「ありがとうございます。以前の献立を調べて、料理人と相談しました」
「素晴らしいわね。私がその年頃には、晩餐の献立なんてとても決められなかったわ」
伯爵夫人の言葉に伯爵が間髪入れずに返す。
「お前は今も決められないだろう」
「何でも決めてくれる夫がいるおかげね」
夫人は言いながらまた杯を傾けた。
それからも歓談は続き、市の動き方の予測や、北方の防衛戦、冬支度の準備、近隣の縁談や王都での噂話にまで飛び火したところで、夫人が一度息を吐いた。
「ああ楽しい。こんなに楽しいのは久しぶりだわ」
言いながら夫人はまた一気に杯を飲み干した。薄い果実酒が中心とは言え、だいぶ量は過ぎている。
「ところでフレデリカは元気?今日はまだ顔を見ていないけれど。ここに来たらあの子の顔を見ないと落ち着かなくて」
話し声も食器が鳴る音も聞こえない中、夫人の声だけが響いた。
「ありがとうございます。フレデリカが聞けば喜びましょう。今は客室の手配をしておりますので、後ほどご挨拶に伺わせます」
夫人の赤らんだ顔を見ながら、イングリッドはにこやかに返す。
「あの子、ずいぶん長いこと女主人役をしていたでしょう。あまり板についていたものだから、そのうち本物になるのかと思っていたわ」
楽しそうに体をゆすって夫人は笑う。伯爵は夫人に何か言いかけたが、そのまま口を閉じた。
タールベルク夫妻は食事の手を止めたまま、動かない。ウェーバー夫妻が無言で視線を交わし合う。ハーゲン夫妻は視線を伏せたまま上げない。
「ああ。フレデリカはよく働いてくれた。イングリッドが来てだいぶ肩の荷が降りたことだろうと思う」
ディートリヒは眉一つ動かさずに答えた。
「こんなに素敵な奥方様がいらしてくださって、閣下もあの子をどうしたものかとお困りだったでしょう」
「申し訳ない。どうも家内は最近酒に弱くて、言葉がうまく回っていないようです」
伯爵が汗をかきながら言う。
「困ってはいない」
ディートリヒが低い声で続けた。
「妻が来てから家政の役割が明確になった。フレデリカも普段は減ったはずだ」
「良き奥方様をお迎えできて、本当によかったですな」
タールベルク卿が静かに言うと、伯爵夫人も表情を明るくした。
「そう。そういうことよ。私もそれが言いたかったの」
「ありがとうございます。フレデリカには今も大いに助けてもらっておりますから、私も嬉しく思います」
イングリッドがおっとりと言う。
ほっと緊張が解けたように、一同は食事を再開する。
家政について話が進んでいったが、伯爵だけは黙って汗を拭いていた。
「お疲れ様でございました」
晩餐会が終わり、客人たちを客間に案内してから、ディートリヒはソファに力を抜いて座っていた。
「……君もだ」
返す言葉にいつもの圧はない。
イングリッドは少し考えたから言った。
「先ほどのリンデンフェルス伯爵夫人のお話ですが」
「何の話だ」
「フレデリカの話です。近隣の方々は、彼女が女主人になると思っていたのでしょうか」
「まさか。フレデリカはただの家令補佐だ」
ディートリヒは全く動じることなく言った。
「夫人のお言葉はそのように受け取れました」
「考えたこともなかった」
「さようでございましたか」
あまりにもディートリヒが平然としているので、イングリッドはそれ以上は言わなかった。
ディートリヒはソファに身を預けたまましみじみと言う。
「今日は見事だった。君があまりにも頼りになるから、俺は頼りきりだった」
「閣下は充分ご立派なのですから、私のように振る舞う必要はございません」
言ってから、今のは少し卑屈な言い方だったかとイングリッドは思った。
ディートリヒは一拍置いてから言った。
「どういう意味だ」
ディートリヒは普段色々なことに気づかないようでいて、妙な事を気にする癖がある。
「閣下は実際に領地をよく治めて、信頼を得ていらっしゃいます。ことさらに自分を大きく見せる必要はございません」
「そうだとして、さっきの言い方では君は違うと言っているようだ」
何の話をしているのだろう。イングリッドも今日は随分疲れていて、頭が回っていない自覚があった。
「違うかどうかはあまり問題ではございません」
「では何が」
「私が軽んじられれば、家にも領民にも差し障りますから慎重に振る舞う必要があります」
それだけの話です、とイングリッドは付け加えた。
言う必要のないことを言ったのだ、という思いはあったが、上手く取り繕えるほどの余裕が今はなかった。
「そうか」
ディートリヒはそれだけを言った。
イングリッドはほっと息を吐いた。ディートリヒはとりあえずは納得してくれたようだった。
侍女や侍従は客人の案内で出払っている。
イングリッドはディートリヒに紅茶を勧めたが、ディートリヒに断られたので一人で飲む。
しばらくディートリヒはソファに沈んだままだったが、突然口を開いた。
「だが、今日は君のおかげで助かった」
唐突な言葉に、イングリッドはカップを持つ手が止まった。
「……恐れ入ります」
カップを置いて答える。晩餐で口にした葡萄酒の熱さが、まだ少しだけ残っているような気がした。
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