第9話


 鍵の紛失騒動が起きてから十日余りが過ぎた。新しい運用は定着したとはまだ言えないが、今のところ問題は起きていない。それで十分だった。


「奥様、リンデンフェルス伯爵家からの返書が届いております」


 イングリッドはマリーが持ってきた封書を開く。こちらからの挨拶への返礼と品物について、また直接の交流を願う文章が並んでいる。

 リンデンフェルス家はアイゼンヘルト領に隣接する領地を持つ伯爵家で、旧来より厚い親交がある家だと聞いている。


「ありがとう。フレデリカを呼んでちょうだい」




 今日もフレデリカは地味だが機能的な黒いワンピースで感じの良い微笑を浮かべて現れた。


「挨拶の返事が一通り返ってきたの。これからお世話になる方々を一度お招きしたいの。今まではどうしていて?」


「閣下が就任して以降は、大掛かりな宴は行ってはおりません。賓客をお招きした際に、奥方様をお連れになることはありましたが」


「では、客人をお招きするのがそれほど久方ぶりというわけではないのね。日数はかかりそうだけど」


 イングリッドはゆったりと言う。


「おっしゃる通りです。お客様をお通しすること自体は日常的にございました」


 フレデリカは少しだけ眉を下げたが、唇は美しい弧を描いたまま続けた。


「ですが、複数の賓客の対応にはみな慣れていませんし、大掛かりな会合を行っていた頃とは予算も桁が違います。もう少し城内が落ち着いてからでも遅くはないかと」


「なるほどね」


 フレデリカの言うことはもっともだった。複数の賓客の対応は難易度が格段に跳ね上がる。ディートリヒが当主に就任してから10年近く、行っていなかったのなら段階が必要なのは当然だった。




 共同寝室にディートリヒが入ってくる。ここで見るディートリヒはいつも少しだけ幼く見える。

 イングリッドはディートリヒが椅子に座るのを確認してすぐに口を開いた。


「閣下、近隣の主だった方々をお招きして、晩餐会を開きたいと存じます」 


 ディートリヒは一拍置いてから答えた。


「君が必要だと思うのなら開くといい。だが、婚姻後に手紙を送ったのなら、それで足りるのではないか」


「必要な理由は三つございます。一つ目は公的な場で夫婦で並んで賓客を出迎えることで、ローゼンハイム家の者が正式にアイゼンヘルト家の女主人となったことを示せます」


「なるほど」


「二つ目は、今後領内や近隣との折衝でお付き合いしていく方々です。早いうちにお顔や人となりを知り、私のことも知っていただく必要がございます」


 イングリッドはそのまま続ける。


「最後ですが、今後は少しずつ以前のような正式な会合や宴を再開していくようになると思います。いきなり戻すことはできませんから、小さな晩餐会から始め、こちらも少しずつ慣れていくべきかと存じます」


「分かった。俺は何をすればいい」


 ディートリヒは大きな手を机の上で組んだ。


「まずはお招きする方々について、ご意見を伺いたく存じます。ご関係に注意することがございましたら併せて知りとうございます」


「ああ、わかった」


「当日は、私と一緒にお迎えいただき、ご挨拶や乾杯のお言葉をいただきます。晩餐の席では、いつも通り領地や交易のお話をお願いします。その他は私が引き受けます」


 ディートリヒは瞬いた。


「俺はそれだけでいいのか」


「はい。後は、お迎えとお見送りの際には私をエスコートしていただきます」


 エスコートという単語が出た瞬間、ディートリヒの顔が目に見えて曇った。


「すまないが、自信がない」


「大丈夫です。難しいものではありませんから、私に合わせていただければ問題ございません」


 ディートリヒは先々代の当主の弟筋の分家の出身だ。

 貴族としての教育は受けていても、実務としてはそれほど経験がないのかもしれない、とイングリッドは思った。

 黙り込むディートリヒを見ながら、イングリッドは席を立った。


「よろしければ閣下、ここで練習いたしましょう」


 ディートリヒは音を立てて椅子を引いた。


「今からか」


「はい。正装ではありませんが、型だけであれば充分確認できます」


 イングリッドは空いている方に進み、ディートリヒに手を差し出す。


「さあ閣下、こちらへ」


 ディートリヒはぎこちなく立ち上がる。


「もう少し、こちらへ近づいてください」


 ディートリヒがイングリッドの側に並ぶ。普段意識することは少ないが、こうして並べば見上げるほどに大きい。


「腕をお貸しください。肘を少し曲げて、体から浮かせてください」


 ディートリヒは言う通りに腕を動かす。イングリッドが思ったよりもずっと整った仕草だった。


「そのままで」


 イングリッドは差し出された腕に手を添える。近づくと石鹸と洗い立ての衣類の清潔な匂いがする。薄い衣越しに意外なほど暖かい体温が伝わった。

 ディートリヒの腕がわずかに震えた。

 よほど苦手なのだとイングリッドは思った。


「このまま歩いてみてください」


 ディートリヒはゆっくりと歩を進める。


「もう少し早くても構いません。私が合わせますので。歩幅だけ小さくしていただければ」


 二人は並んで歩いた。一、二度折り返せば、自然と歩幅は合ってくる。ディートリヒがゆっくりと歩みを止めた。

 月明かりに落ちたディートリヒの大きな影が揺れた。


「……不得手ですまない。」


 ディートリヒは絞り出すように息を吐いた。

 表情は逆光で見えないが、大きな男が恥じ入るように俯く様は妙に可愛く見えた。


「気になさる必要はございません。今ので十分でございます」


 実際イングリッドが見る限り、それほど問題があるようには思えなかった。よほど苦手意識があるのだろう。

 イングリッドが手を離すと、ディートリヒは小さく息を吐いた。


「助かる」


 大したことではない。そう思ったはずなのに、ディートリヒの言葉はしばらくイングリッドの耳に残った。



 晩餐会までは慌しい日々だった。

 長く使われていなかった銀食器を磨き、客室には一つずつ灯りが灯され、仕舞われていた応接間の飾りを出す。

 古い使用人たちは、若い使用人たちにも手順をよく教えていた。

 フレデリカは過去の記録から、客人ごとに客間の仕様や食事の内容を変え、イングリッドが全体の手順と席次を決めた。



「準備はよろしいですか」


 差し出された腕に手を添え、イングリッドはディートリヒを見上げた。

 練習した通りの型通りの作法だった。だが、こめかみに汗が光っているのが見えた。


「私がおります。お任せください」


 イングリッドは前を見据えたまま、静かに言う。


「……ああ」


 ディートリヒが肩の力を抜いたのが分かった。

 イングリッドは背筋を伸ばした。


「参りましょう、閣下」


 

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