第8話
グレーテは予定通り十日で帰った。
ディートリヒの言う通り、優秀なグレーテがいなくなるのは痛手だったし、信頼できる侍女がいなくなる心細さはある。
だが、生家の侍女を早めに手放すことで、アイゼンヘルトに溶け込もうとする姿勢は見せられるはずだった。
イングリッドが使用する部屋の鍵は、ほとんどがイングリッドが管理することになった。
リネン室など、他の用途でも使うものはフレデリカも持つが、私室や私室と繋がる日常的な衣装部屋や物置、棚に備え付けてある鍵だ。
侍女たちに鍵を使わせる時は、必ず受け渡し時に数を確認すること、使用した場合の記録をつけることを言い含めた。
事件が起きたのは数日後だった。
「奥様、リネン室の鍵が一本ありません」
来客用の応接間の点検をしている時だった。報告するエルナの顔は強張っていた。
リネン室の鍵束は六本ある。
「どの鍵?」
「リネン室の奥の物置の鍵です」
予備のリネンを置くための部屋という話だったが、今現在は空だ。
「いつから?」
「昨日の夜確認した時はありました。先ほど客間用のリネンを取ってくる際に数えたところ、数が足りませんでした」
「使用記録は?」
「リネン室のコニーとマリアの二人です」
「上役の確認が必要なはずよ。確認した上役は誰?」
「リネン室次長のカレンです」
「呼びなさい」
管理責任はイングリッドにある。任されてすぐの失態に内心で臍を噛んだ。
最初に来たのはマリアだった。フレデリカも一緒だ。フレデリカもリネン室の鍵は持っているし、元の管理責任者でもある。
「マリア。鍵がないことには気づいていたの?」
「はい。鍵を返すときに一本ありませんでした」
マリアは若い娘だった。確か城内の使用人の娘だったはずだ。
「足りない場合は報告することは知っていて?」
「知っていましたが、コニーから預かった時にはもう無かったような気もして……それに、多分カレンさんが気づくだろうし、問題があればカレンさんが報告するのかと」
マリアは体の前で組んだ手を組み替えながら目を伏せた。嘘をついているとは思わなかった。
次に入ってきたのはコニーだった。
「コニー。マリアに渡した時の本数は数えた?」
マリアとそろいの髪型をしたコニーは、眉根を寄せた。
「……数えてないです、すみません」
「数えるように指示があったはずよ」
「はい。でも六本しかないので、足りなければわかると思って」
「では受け取る時も数えてはいないのね」
「申し訳ありません」
コニーは小さく頭を下げた。
最後に呼ばれたのはカレンだった。
カレンは入ってくるなり平身低頭した。
「申し訳ありません、奥様。私の不始末でございます。罰はいかようにも……」
「その前に今の状態を把握させてちょうだい。まず私は鍵の受け渡しには本数を数えるよう命じました。確認はしましたか」
「使う子達には必ず確認するようにとしっかり言って……」
言っただけで確認しなければ、基準が緩い方に動くのが道理である。
イングリッドは自らの指示の穴を目の当たりにして、苦いものが胸に広がった。
「ここにあなたのサインがありますね」
返却する時の確認サインの名前は、カレンのものである。
「……はい」
「本数は数えましたか」
「はい。ですが、使っていない部屋ですし、もともと紐が古くて替えないといけないと思っていたんです。後で探して見つければいいと思って……」
イングリッドは黙ってカレンを見つめる。
カレンの声がどんどん小さくなっていく。
「鍵がないとわかっていながら、偽りの署名をしたのですか」
「申し訳ございません」
「指導する立場の人間が隠蔽するとは」
「隠蔽だなんて!ただ、探せばすぐに見つかるのにわざわざ報告して叱責されるほどのことでもと」
フレデリカが低い声で言った。
「失態を犯せば叱責されるのは当然です。それを免れるために城の安全を危険に晒したというのなら、なおさら看過できません」
カレンは黙ったままだった。
「奥方様、しかしカレンは五年リネン室の次長を務めておりましたが、このようなことは私の知る限り一度もございません」
「そう。この件は私の権限では処理できません。閣下をお呼びします」
フレデリカが一瞬目を見張ったように見えた。だが、次の瞬間にはいつもの冷静な表情に戻っていた。
「承知しました。私がお呼びします」
ディートリヒはすぐに来た。後ろにハルトマンを伴っている。
ディートリヒが入室した瞬間、広い応接間に緊張が走った。イングリッドを見てディートリヒは口を開いた。
「詳しく話せ」
イングリッドは順に話した。
昨夜の確認以降鍵がない事。盗難か紛失は不明。現在使われていない部屋で、現時点での被害はないこと。現在の運用と、それぞれの関係者への聞き取り結果も加えた。
「不足に気づいていながら署名したのか」
ディートリヒはカレンに体を向けた。
「は、はい、ですがーー」
「聞いた事に答えろ。気づいていたのか」
とりわけ大きな声と言うわけではない。ましてや怒鳴っているわけでもない。それでも空気が張り詰めた。
「はい。気づいていました」
カレンの声は震えていた。
「カレン、お前は降格だ。次長は解任。今後鍵の管理権限は持てん」
「はい」
カレンは平伏したまま答える。
「鍵の本数を数えなかったものは、しばらくは単独で鍵を扱わない事」
「はい」
コニーが頭を下げた。
「不足に気づいていて報告しなかったものは、なお悪い。しばらく鍵を使う仕事からは外す。」
「……はい」
マリアの声は硬かった。
「なくなった鍵は錠を変えろ。それまでは誰も立ち入らせるな。今後の鍵の運用についても考えろ」
前者二つはハルトマンとフレデリカ、後者はイングリッドに向けてディートリヒは言った。
「承知しました」
ディートリヒが踵を返した瞬間だった。
「なんでコニーより私の方が悪いのよ」
呟いた声は小さかった。だが張り詰めた静寂には波紋が広がるように響いた。
「今なんと言った」
「申し訳ございません、閣下。後でよく注意しておきます」
カレンが慌てて口を挟んだが、ディートリヒは繰り返しマリアに言う。
「もう一度言ってみろ、今なんと言った」
マリアの顔は青くなった。それでも黙らずにディートリヒを睨め付けた。
「なんで気づかないコニーは良くて、気づいた私は駄目なんですか?私も気づかないフリをしたら良かったって事ですか?」
ディートリヒは間髪入れずに答えた。
「不注意で気づかなかった者と、気づいていながら黙った者は違う。気づかなかったと偽れば、その場は逃れられるかもしれん。だが、偽りが明らかになれば、今より重く罰する。それでもよければそうしろ」
低い声だが、ゆっくりとした口調だった。
「……申し訳ありませんでした」
マリアは小さく言った。
納得したというよりも、反射に近いような返事だった。
いつものようにイングリッドが共同寝室で待っていると、ディートリヒが来た。
「本日はありがとうございました。私の不始末の後処理をさせてしまい、申し訳ございませんでした」
イングリッドは頭を下げた。
「構わん。来たばかりの奥方が裁けば、正しくても反発を招く」
共同寝室でのディートリヒは、昼間に見るときよりも息が抜けて見える。
「本数のチェックを、残せる形ではなく口頭での確認に留めた為に起こった失態です。今後は本数の確認も必ず記録する形に整えました」
「ああ。それでいい」
「鍵の管理をお任せいただいたにも関わらず、ご期待に添えず申し開きの言葉もございません。もう一度お任せいただけますように、次からはーー」
「待て。もう任せないとは言っていない」
「ですが、私にお任せくださった鍵を紛失しました」
「君が無くしたわけじゃない。それに現場の不備を早めに拾い上げることもできた」
「私の指示の不足が発端です」
「直せばいいだけだ」
ディートリヒは深く息を吐いた。
「イングリッド。俺にも覚えがある。来たばかりの者に指示されて、素直に聞く者ばかりではない」
俺も、とは言ったが分家筋から当主に上ったディートリヒの立場は、自分とは比較にならないほど厳しかっただろう。
そこからここまで来たのだ。その過酷さを思うと頭が下がる。
「閣下の時とは、比べものになりません」
「事情は違う。だが、命じた内容が遂行されない経験は同じだ」
「……そうかもしれません」
自分を励ますために、ディートリヒはわざわざ失敗した頃の話を持ち出したのだ。
他人の心情には疎い人だと思っていたが、案外、人を放っておけないところがあるようだ。
「当面、役職を解く時、俸給を減じる時は俺に上げてくれ。それ以下は君が決めていい」
「承知しました。処分についても記録を残し、同じ者が問題を起こした場合は別途ご報告いたします」
「ああ。それでいい。今日は休め」
「承知しました。閣下もどうぞおやすみください」
「ああ。おやすみ」
イングリッドは自分の寝室に戻った。
奇妙な気分だった。失態が軽くなったわけではない。それはそれとして反省も対策も必要だった。
ただ、ディートリヒは思ったよりもずっと人を見ているのだと思った。
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