第7話


 今日もディートリヒは夕食に来る予定ではあった。だが今日も時間になってもやって来なかった。


 今夜は伝えるべきことがある。


 今朝フレデリカに、自分に関わる部屋や棚の鍵の一覧を見せて欲しい、できれば予備の鍵も欲しいと言って、断られていた。

 鍵に関しては安全管理上、あらゆることにディートリヒの許可が必要ということだった。


 イングリッドは薄い酒を口に含みながら、言うべき内容を整理していた。


「すまない、遅れた」


 ディートリヒの低いがよく通る声が部屋に響く。


「今食べ始めるところでした」


 イングリッドが言い終わらないうちに、扉の外から声がした。


「閣下、お食事中失礼致します」


「入れ」


 入ってきたのは濃い灰色の警備隊服を着た男だった。


「失礼します」


 男はイングリッドに正確に礼を取り、ディートリヒに向き直る。


「南門の件で、新しい報告がございます」


 聞いた瞬間、ディートリヒの表情が鋭く張り詰めたものに変わった。


「分かった。すぐ行く」


 ディートリヒは脱ぎかけた外套をそのまま羽織り直す。


「すまない、イングリッド。急用ができた」


 立ち去りかけて、気づいたように一度振り返った。


「ハルトマンだ。城の警備隊長を任せている」


「警備隊長を務めております、ゲルト・ハルトマンです。奥様へのご挨拶が遅れまして申し訳ございません」


 ハルトマンは一歩下がって頭を下げた。無駄のない動きだった。


「イングリッドです。こちらこそ、今後ともお世話になります」


 イングリッドも礼を返してから、ディートリヒの背中に声をかける。


「閣下、今夜共同寝室でお待ちしております」


 ディートリヒの肩が少しだけ震えた。


「……分かった」


 心配するようなことはないと言いたかったが、使用人の手前、言うことは叶わなかった。




 早まったかもしれない。

 イングリッドは共同寝室の中央で、小卓の脇の椅子に座りながら考えていた。

 化粧を落とした顔も、風呂上がりの洗い髪も、寝巻きの上からガウンを羽織っただけの姿も、初夜の時よりはずいぶんましだと思ったのだが、実際この状態でディートリヒを迎えるのかと思うと、ひどく心許ない気持ちになった。

 改めて見やると、この部屋に大きな家具は大きなサイズの寝台だけ、あとは小卓と椅子が二脚、申し訳程度に置いてあるばかりだ。

 そういう部屋の中だから当たり前だが、話し合いに向いているとは言い難い。

 本棚の一つでも持ち込めないか、あとでディートリヒに聞いてみよう、そんな風に思案していると、扉が鳴った。


「どうぞ、お入りください」


 風呂から出てすぐに来たのだろう。いつも後ろに撫で付けている髪が下ろされていて、少し幼く見える。首の詰まった藍色の部屋着は、寝衣というには整えられて見える。

 入室はしたものの、部屋の片隅で所在なげに視線を彷徨わせている。


「閣下、ご心配には及びません。閣下のお心を軽視して、何かを無理強いすることはけしていたしません」


 イングリッドはつとめて落ち着いた声を出す。


「まずはこちらにおかけください」


 小卓の椅子を指すと、ディートリヒはおとなしく座った。


「本日の議題は、三つございます」


 ディートリヒは一拍置いてから言った。


「三つ」


「はい。まず一つ目は、私の関わる範囲の鍵が、現在誰が持ち、どう管理されているのかを確認したく存じます」


 鍵、という単語にディートリヒの目つきが鋭くなった。


「関わる範囲とは」


「私の寝室と私室、衣装や持参品、奥方周りの仕事の備品に関わる部分です」


 ディートリヒの表情を観察しながらイングリッドは言葉を繋いだ。


「分かった。確認というのは運用を知りたいということか」


「はい」


「寝室に関しては鍵は一つ。君の持っているものだけだ。居室に関してはーー」


 イングリッドはペンを差し出す。


「閣下、こちらに。口頭では行き違いの原因になり得ます」


 ディートリヒがわずかに目を眇めたのをイングリッドは見逃さなかった。


「もちろん保管は鍵の付いた箱に入れ、厳重にいたします。自室の外へは持ち出しません」


「……了解した」


 ディートリヒは素直にペンを取った。


「確認だけでいいのか」


「確認した上で、私が持つもの、預けるもの、運用の仕方も改めて決めたいと考えております」


「鍵の移管の話になるな」


「はい。必要があれば」


「必要かどうかだけでは決められん」


「承知しております。閣下の判断には従います」


「……時間が欲しい。フレデリカの台帳を見ないと正確にはわからん。ハルトマンとも確認したい」


「かしこまりました」


 ディートリヒはペンにインクを含ませながらため息をつく。


「今日は分かるところだけ書く。残りの二つはなんだ」


「二つ目は夕食のことです。閣下はご多忙ですので、毎晩決まった時間に決まった時間を費やすのは負担が大きいかと思われます」


「……だが、やめれば君が軽んじられる可能性がある」


「閣下のご配慮はありがたいです。なので三つ目です。その代わりに毎晩私はここでお待ちしています」


 ディートリヒは顔を上げる。言葉は出ない。


「どのみち寝る前に書き物、読み物をしますから、場所を替えるだけなら負担ではありません。寝る時間に閣下がいらっしゃらなければそのまま寝室に戻るだけです」


「君はそれでいいのか」


「むしろ都合が良いです。共同寝室を使用する以上、私たちの間に何もないことを誰も証明できません。夕食を共にするよりも効果的です」


 ディートリヒの返事はない。

 一瞬言い過ぎたかと思ったが、ディートリヒは息を吸った。


「了解した」


「ありがとうございます」


 ディートリヒは鍵の運用について書きながら、顔を上げずに言った。


「ローゼンハイムの侍女はそろそろ帰るのか」


「はい。引き継ぎも順調ですし、予定通りに帰任させるつもりです」


「少し、残ってもらうことはできないのか」


「できるかもしれませんが、理由がありません」


「だが……君も心細いのではないか」


 イングリッドは思わずディートリヒの指先を見つめた。力強い筆記だ。


「お心遣いはありがたく思います。ですが侍女にも予定があるでしょうし」


「本人に延長が可能か確認すればいい」


「閣下、主人から打診があれば、よほどのことがなければ侍女は断りにくいものです。それに、特段の理由なく約束を違えれば信頼を失います。信頼を積み上げている最中の違反は致命的です」


 さすがに言いすぎたとイングリッドは思った。

 計算が出過ぎた。人との信頼関係まで利害で計ると思われただろうか。

 ディートリヒは一度だけイングリッドを見て、先ほどと変わらない声で言った。


「そうだな。君が正しい」


 ペンが紙を掻く音が響く。

 なぜか、この男の前では言う必要のないことまで言い過ぎてしまう。

 なぜかはわからない。だが、不快ではないと思っている自分にイングリッドは気づいていた。

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