episode.04「変わらない友達と、忘れない景色」
「おかーさーん。私のジャージどこ?」
「まだあんなボロボロのあんなの着るの? いい加減に新しいのにしなさいよ」
実家に帰省するたび、母は決まって呆れたような、呆れ半分・諦め半分といった顔をする。けれど、中学や高校時代の指定ジャージというのは、どうしてあんなにも着心地が良いのだろう。無駄に厚手で、くたくたに柔らかくなった布地に身を包むと、一人暮らしの緊張感がすっと溶けていくのがわかる。自宅特有の気兼ねなさと相まって、これほどリラックスできる部屋着は世の中にほかにない。私はジャージのポケットに両手を突っ込みながら、実家のリビングのソファにこれでもかというほど深く体を沈めた。
「お昼食べるでしょ? 昨日の電話で言ってたカレー、たっぷり作ってあるからすぐ用意できるわよ」
「夏野菜の?」
「そうよ。あんた好きでしょ? 一日おいて旨味がしっかり馴染んだカレー」
「やったー! 大盛りでお願い!」
母が手際よく温めてくれた夏野菜のカレーは、私の人生における大好物の一つだ。素揚げされて甘さを増したかぼちゃや、甘酸っぱさが絶妙なフレッシュトマト、そしてスパイシーなルーの中でゴロゴロと確かな存在感を残すズッキーニが、口の中で最高のハーモニーを奏でる。一日寝かせたことでスパイスの角がすっかり取れ、コクが何倍にも増しているその味に、私は大満足だった。お腹がペコペコだったこともあり、スプーンを休める暇もなくあっという間に2杯もかるく平らげてしまう。
満腹の余韻にぼんやりと浸りながら、エアコンの効いた部屋の中で首を左右に小気味よく振る扇風機へと真正面から顔を向けた。吹き抜ける涼風を全身で浴びながら、デザートに買っておいた別腹のアイスクリームをスプーンで大きくすくって口へ運ぶ。あぁ、これぞ実家の極楽だ。『エアコン』でキンキンに冷えた部屋食べる『アイス』と『扇風機』、この三種の神器は夏の私にとって昔から絶対に欠かせない生きるエネルギーだった。
最高に贅沢な時間を存分に満喫した私は、キッチンに向けて元気に声を飛ばした。
「明日の夕方、ゆうちゃんと会う約束してるから、お昼過ぎから家にいないかもー!」
「はいはい、勝手にしなさい。夜遅くなりすぎるんじゃないよ」
母の小言を適当に聞き流しながら迎えた、翌日の午後。
私は、学生時代からずっと使い慣れている地元の路面電車に揺られていた。ガタンゴトン、とどこか懐かしい単調なリズムを全身で感じながら、電車はゆっくりと駅前へと近づいていく。
電停を降りて、日差しの中を少しだけ歩く。そこには、昔ののどかな面影を色濃く残しつつも、近年の老朽化に伴ってすっきりと綺麗に建て直された新しい美術館の姿があった。ガラス張りのモダンで洗練された外観の目の前には、穏やかな水をたたえる運河と、緑豊かな広大な公園が広がっている。今ではすっかり、地元の人々や家族連れの新しい憩いの場としてすっかり定着しているようだった。
今日、ゆうちゃんと待ち合わせたのは、その美術館の4階にある、見晴らしのいいおしゃれなレストランだ。
冷房の効いたガラス扉を押し開けて中に入ると、奥の明るいテーブル席に、見覚えのある懐かしい顔がちょこんと座っていた。
「ゆうちゃん、まったー?」
同じ高校、そして同じ大学を卒業した後、それぞれの道を歩みながらも、人生の節目節目で青春時代の記憶をこうして共有してきた、私にとってかけがえのない大切な友人だ。
「ううん、私も今来たところだよ。どうぞ、こっち座って」
向かいの席に腰を下ろし、私はホッと息をつきながらメニューを開いた。
「すみませーん、私にもアイスコーヒーひとつお願いします」
注文を済ませて一息つくと、ゆうちゃんは細いストローでグラスの氷をくるくるとかおり、くすっと楽しそうに笑った。
「しっかし、あんたが歴史民族博物館の学芸員になるなんてねー。学生の頃は全然そんなお堅いキャラじゃなかったのに、人生ってどう転ぶかわからないもんだね」
「たまたま、募集してたとこがあったからさ。受けてみたら偶然……って言っても、こぢんまりとした田舎の民芸館みたいなとこだし。そう言うあんたこそ、そっちはどうなのよ?」
地元のデザイン会社に就職し、慌ただしい社会人生活の荒波にもまれているゆうちゃんは、少しだけ大人びた顔つきになって苦笑いした。
「まぁ、毎日バタバタしてて目が回るほど忙しいよ。新人のうちは先輩の指示通り動くので精一杯だし、覚えることも山ほどあって、社会人って大変だなーって痛感してる毎日だよ」
そうこうしているうちに注文したアイスコーヒーが届き、私たちは冷たいグラスを手のひらで包み込みながら、懐かしい建物の話題へと自然にシフトしていった。
「私たちがあの大学の学芸員の研修で使わせてもらったこの美術館も、すっかり今風に綺麗に建て直しちゃったもんね」
「そうそう! 本当よね! 屋上になんか謎のおしゃれな遊具とかアート作品みたいなのもあるし」
「昔のちょっとレトロで、どこかひっそりとしていて薄暗かった独特の雰囲気も、それはそれで味があって好きだったけどなぁ。思い出の場所がどんどん新しい姿に変わっちゃうのは、なんだかちょっとだけ寂しい気もするね」
「でも、すぐ横の博物館とか、昔ながらの建物はそのまま残ってるんでしょ?」
「じゃあ、このコーヒーを飲み干したら、ちょっとそっちのほうにも行ってみる?」
「いいね、行こ行こ!」
レストランを後にした私たちは、夏の夕暮れ時の少しだけ涼しくなってきた風を心地よく感じながら、すっかり様変わりした美術館の周りをゆっくりと散策した。見慣れたはずの街並みの中に真新しい建造物が混ざる独特の景色を眺めながら、私たちは他愛のない近況報告を途切れさせることなく、楽しげに交わし合う。
「……そういえばさ、かえで」
ゆうちゃんがふと足を緩め、昔からそこにある、色褪せた看板の喫茶店の前でぴたっと立ち止まった。そして、何やら意味ありげな鋭い視線を私に向ける。
「この場所、覚えてる?」
「……ん? なんかあったっけ、ここ?」
私は内心の激しい動揺を懸命に隠しながら、あえて何も覚えていないような、どこかすっとぼけた顔をわざと作ってみせた。
「ほら、忘れたふりしてもダメだよ。大学三回生のときだよ、あの、一週間みっちりあった、忘れられない学芸員研修の……」
「あー、そんなこともあったっけねえ」
知っている。
忘れるわけがない。
忘れたくても、これからの人生で絶対に忘れられるはずがない。
あれは、恋だとか愛だとか、そんなハッキリとした名前で呼ぶにはあまりにも淡く、それでいて胸の奥がキュッと締め付けられるほど切なかった――私の人生で一番短く、そして一番鮮烈だった、ほろ苦いあの夏の話。
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