episode.03「風鈴の音と、逃げ水の向こう」
乱雑に動く人の流れを激しく掻き分け、私は駅へと急ぎ足を早める。
もう八月下旬だと言うのに、街の熱気は一向に衰える気配を見せない。アスファルトの照り返しが容赦なく足元から突き上げられ、道の先では逃げ水がゆらゆらと揺れながら、私の逃げ道をまるでからかうように先回りして走り去っていく。
肌を撫でる風さえも生温かく、汗ばむ肌に言い知れない苛立ちと疲労を覚えつつ、私は重たいキャリーケースの持ち手をしっかりと握りしめ、ごった返す雑踏を縫うように抜けて改札へと急いだ。
大量のお土産を買い終え、息を切らしながらようやくホームへ着く。電光掲示板を見上げて「よかった、まだ発車まで少し余裕がある」と思わず小さく胸をなで下ろす。
夏の熱気ですっかり乾いた喉を潤そうと、ホームの端にある自動販売機で冷たいミネラルウォーターを買い、ペットボトルの蓋を開けて急いで口へと運んだ。身体の芯まで染みわたるような清涼感が、火照った身体をすうっと心地よく鎮めてくれる。
――まもなく、列車が参ります。
女性の穏やかなアナウンスの音声と共に、陽炎がゆらめくレールの上を、銀色に輝く特急列車が滑り込むようにやってきた。
さっきまでホームのあちこちにまばらだった人の群れが、不思議と吸い寄せられるように自然な乗車列を作り出す。自分の乗車口に立った私は辺りを見まわし、「あら、意外と車内は空いていたな。これなら、わざわざ事前に指定席を取らなくても良かったかも……」と、学生時代からの慎重すぎる名残でつい指定席を確保していたことを少しだけ心の中で後悔した。
まぁ、座れないよりははるかにましだろう。乗車時間もそれなりにあるし、車窓の景色でも眺めながらゆっくり休もうと、私は車内に足を踏み入れ、指定された窓側の席に腰を下ろしてそっとまぶたを閉じた。
どれくらい時間が経っただろうか。単調なリズムを刻む心地よい電車の揺れに身を任せ、ウトウトとうたた寝をしていると、不意に車内に電子音が響き渡る。
――まもなく、終点です。お忘れ物のないようご注意ください。
車内アナウンスのどこか懐かしい響きに促されて、私ははっと目を覚ました。
窓の外に目をやると、数時間前までの都会のコンクリートジャングルと、耳障りなまでの喧騒が嘘のようにすうっと引いていき、代わりに広がっていたのは、どこか懐かしくて、時間がゆったりと流れる牧歌的な空気だった。
ポケットからスマートフォンを取り出し、「今、無事に地元の駅に着いたから、これから路面電車に乗り換えるね」と母に短いメッセージを送る。
駅のコンコースへ足を踏み入れると、高い天井から木製の美しい伝統的な枠組みが組まれており、その下には色とりどりのガラス風鈴がずらりと吊り下げられていた。大きな窓から吹き込む涼やかな風を受けるたび、チリン、チリリンと、涼しげで澄んだ音色が広い空間を優しく満たしていく。
改札を抜け、駅の外のロータリーへと出ると、どこからか優雅な胡弓の調べが心地よい風に乗ってふわりと流れてきた。どうやら、もうすぐ秋に開催される地元のお祭りの宣伝をしているらしい。
「もう何年も、あの賑わいの中には行っていないな……」と思いながら、駅前の広場に掲げられた大きなイベント看板に目をやった。そこには、色鮮やかな法被や衣装に身を包み、勇壮な男踊りや優雅な女踊りを舞う人々の姿が、生き生きと描き出されている。私は胸の奥で幼い頃からの懐かしさをかみしめながら、のんびりとしたローカルな雰囲気をまとう路面電車へと乗り込んだ。
都会の喧騒から完全に切り離され、電車は街の中心部から少しずつ海沿いの方角へ向かって、トコトコとのんびりとした速度で走り出していく。
窓の外を流れる見慣れた田園風景や、遠く水平線の向こうに見える日本海の色をぼんやりと見つめていると、職場でずっと張り詰めていた心の奥の緊張が、少しずつ、まるで氷が溶けるようにほどけていくのが分かった。
やがて、ガタンゴトンと心地よい揺れを経て、私の最寄りの電停に到着する。
電停に降り立つと、待ち合わせの約束通り、見覚えのある母の車が木陰に静かに停まっていた。
「おかえり。電車、思ったより早かったわね」
運転席から母が穏やかな笑みを浮かべて迎えてくれる。
「疲れたー! 重かった、荷物お願いね」
キャリーケースを持ち上げてトランクへ載せてもらうため母に渡すと、母は「うわ、重っ!」と声を張り上げて目を丸くした。
「一週間くらいの短い帰省で、なんでこんなにパンパンに荷物が入ってるのよ」
「お土産とか色々あるんだよ、関西で話題のやつとか色々詰め込んできたの!」
「あら、私の分そんなにあるの? それは楽しみで嬉しいわねえ」
「お母さんのだけじゃないからね、ゆうちゃんの分とか親戚の分とかも色々あるの!」
他愛のない、けれどどこか心からホッとする母娘の会話を交わしながら車に乗り込むと、車は軽やかなエンジンの音を立てて、見慣れたのどかな田舎道へと走り出した。
車の窓から流れる外の景色をぼんやり眺めながら、私はふと、ぽつりと言った。
「なんだかんだで、いつ帰ってきてもこの街は空気が変わらなくて、本当に何も変わらないねぇ」
「何言ってるのよ。気が付いてないかもしれないけど、少し前に、うちのすぐ近くに二十四時間営業の大きなディスカウントスーパーができたんだからね」
「えっ!? こんな田舎の町に、二十四時間営業のスーパーなんてできて、夜中に買い物に来る人なんて本当にいるの?」
「いるのよそれが。オープンしたときは、周辺の道路が買い物客の車ですごい大渋滞だったんだから。目の前にある昔からの小さなコンビニとか、これからどうなっちゃうのかしらって心配になっちゃうわよ」
車の窓の向こうに流れていく、どこか懐かしい実家の景色と、その一角に真新しくそびえ立つ大手チェーンの店舗看板を見つめながら、私はしみじみと思った。
こんなにものどかで、時間が止まったかのような街であっても、私たちが知らない間に、少しずつ、そして確実に時間は流れて景色も変わっていくのだ。
それはどこか少しだけ寂しいような、それでいて新しい未来への期待をくすぐるような、不思議で温かい感情だった。
車はそのまま、見慣れた実家の庭先へと静かに滑り込んでいった。
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