episode.05「憂鬱な研修と、気だるい背中」
2年前、私たちの「義務」はひっそりと始まった。
京都の喧騒から特急に揺られること三時間。冷えた車窓の向こうで、だんだんと見知った緑が深くなっていく。
同じ美術大学で、高校時代からの友人であるゆうちゃんと二人、帰省中だ。地元へと降り立った瞬間、まとわりつくような湿気が私たちを現実へと引き戻した。
「あつーい、こっち来たら少しは涼しいかと思ったのに」
「あっちとは違うジメジメだね」
「それにしても電車混んでたねー」
「指定席取っておいて正解だったよ」
「じゃあ、また来週から研修で――」
「うん、がんばろーね。またねー」
改札前で、私たちはそれぞれの方向――いつかの日常へと続く家路へと分かれた。来週から始まる、あの憂鬱な予感をポケットに隠したまま、それぞれの実家へと向かう。
路面電車に乗り換え、最寄りの電停を降りる。緑がまぶしい田んぼ道を歩く。近所の家からだろうか、風鈴のチリンという心地よい音が聞こえ、夏の暑さの中に一筋の涼やかな風が吹いてくる。
「ただいまー」
実家に帰るや否や、私は高校時代の使い古した体操服に着替える。クーラーと扇風機、そしてアイスクリームという私にとっては必須とも言えるぐうたらな準備を済ませた。
そして迎えた、憂鬱な研修初日。
「いってきまーす」
リビングから「忘れ物ない? 気をつけていってらっしゃーい」とソファーからひらひらと振られる母の手を見送りながら、私は家を飛び出した。
「ゆうちゃん、お待たせー」
「おはよ! せっかくの楽しかった夏休みなのに、1週間ほぼ毎日授業だなんて本当、憂鬱だよねー」
路面電車に揺られながら、私たちは何度目かの大きな溜息をついた。心も体も、鉛のように重い。
やがて到着した美術館は、ひんやりと冷え切ったロビーが私たちを迎えてくれた。受付を済ませて奥の大きな部屋に通されると、そこには県内中から集まった四十人ほどの若者たちがすでにひしめき合っていた。
「わぁ、なんか高校の時のデザイン科の補習を思い出すね」
「ほんとに、でも知らない人ばかりで緊張するなぁ……」
見渡せば、受講生のほとんどが女子。男子は数えるほどしかいない。高校の空気をそのまま凝縮したような独特の空間で、私たちが居心地の悪さを感じながら時間を持て余していると、まさにギリギリのタイミングで、一人の男子がどこか気だるげに扉をくぐってきた。
――その瞬間、なぜか目が離せなかった。
身長は特別高いわけではないのに、どこかすらりとしていて、見つめる先にはいつも眠たげな、緩やかなたれ目。髪は生まれつきなのか、少しゆるやかなパーマがかかっている。彼は座席表を確認して、私たちのすぐ隣の空いていた席に、ストンと腰を下ろした。
「こんちわー」
「あっ、こんにちは……」
少しだけ頬が熱くなるのを感じながら、私は恥ずかしそうに小さな声で挨拶を返した。
すぐに担当のベテラン学芸員さんが入ってきて、「皆さんおはようございます。これから一週間と短い時間ですが、現場の空気がどんなものか、少しでも身につけて帰ってくださいね」と、これからのスケジュールや流れを淡々と説明していく。
最初は受講生の自己紹介から始まる。彼の名前は『渡辺まこと』というらしい。大阪の芸術大学に通っているそうだ。大阪なら京都のすぐ隣だし、なんだか勝手に親近感が湧くな……そんなことをぼんやりと考えていた。
この美術館の歴史や展示物の運営の流れなど、私はそもそもそこまで真剣に学芸員を目指していたわけではないし、普段の大学の授業も真剣に受けてこなかったから、初めて聞くような専門用語も多かった。
一通り説明を聞き終えたとき、ちょうど時計が正午のチャイムをのどかに告げ、待ちに待ったお昼休憩になった。
お昼時、私たちがお弁当を広げようと机を整えていると、隣の彼はすっと無言で立ち上がり、誰を誘うでもなく一人で静かに外へと消えていった。
出ていく背中を二人でなんとなく見送ったあと、ゆうちゃんがクスクスと笑いながらひそひそ声を落とす。
「ねえ! 隣の男の子、なんか結構かっこよくない? ……ていうか、絶対あんたの好きなタイプでしょ?」
私は図星を突かれた動揺を隠すように、「――えー。まあ、そうかな、どうだろ?よく見てないし」とあえてそっぽを向いた。
本当はすごく気になるのに、友達の鋭い指摘に素直に頷けないのが、私の面倒くさいところだ。
そう言われてしまうと、余計に彼のことが頭から離れなくなってしまう。
午後になり、施設内の普段は入れない裏側を見学している最中も、友達の輪に入らず一人でトボトボと歩く彼の背中を、なぜか目で追ってしまう自分がいた。
興味なさそうに一番後ろをついてきたかと思えば、ガラスケースの中に並べられた古い絵画をじっとマジマジと見つめる。ある貴重な展示の前で、彼がふと無造作にその絵画へ手を伸ばしかけたとき、学芸員の乾いた声がピシャリと響いた。
「そこ、危ないですから触らないでくださいね。ここにある作品は、何百万から最高一億円ほどの価値があるものも保管されていますから。本当に気をつけてくださいね」
館内に響き渡る声に慌てて引っ込められた彼の細い指先を見て、私は思わず「ふふっ」と小さく吹き出してしまった。
彼は、そんな私が見ていることにも気づかずに、気まずそうに辺りをキョロキョロと見回している。
そうこうしているうちに初日のカリキュラムが終わり、彼は誰よりも早々と退出していった。
私たちは軽く今日の感想を話しながら外に出る。
ふと見ると、彼はすでに駅へ向かう路面電車に乗り込んでいた。
――路面電車に乗るってことは、もしかして同じ方向の、この近くに住んでいるのかな?
そう思いはしたけれど、県内や近隣の県から広く集まっている研修だから、この辺りに実際に住んでいるのかどうかは定かではない。
二日目からは本格的な講習が始まり、私たちも連日レポートを提出しなければいけないので、必死に講師の話を聞いてメモを取っていった。
今日も彼はお昼のチャイムが鳴ると同時に部屋からスッと出ていき、どこかへ行ってしまう。
少しずつ周りの受講生たちとも打ち解け、おしゃべりするようになっていった。
県東部から来た子や西部から来た子、地元の大学に通っている他県出身の子、通っている大学も関東や名古屋、東北とそれぞれだ。男子たちも少しずつグループを作って話しているみたいだったけれど、彼は相変わらずマイペースというか、誰かと楽しそうに話している姿をほとんど見かけなかった。
ある日の午前中、講義の合間の短い休憩時間に、ゆうちゃんが耳打ちしてきた。
「ねえ、明日のお昼、この美術館の近くにめちゃくちゃ美味しい隠れ家風のランチの店があるって噂を聞いたんだけどさ、ちょっと行ってみない?」
ゆうちゃんに誘われるがまま、私たちは翌日の昼休み、近くの小さな喫茶店へと連れ立って外へ出た。
こぢんまりとした店舗だったけれど、温かい老夫婦二人で切り盛りしているとても雰囲気の良いお店だった。ランチメニューはどれも心惹かれるものばかりで、二人で「何が良いかな?」と散々悩んだ末、二種類の異なるメニューを頼んで半分こずつシェアして食べた。どちらも驚くほど美味しくて、私たちは大満足だった。
心地よい満腹感に包まれながら食事を終え、店を出たところで、ゆうちゃんが突然私の腕をきゅっと掴んで足を止めた。
「ねえ、ちょっとかえで、あそこ見て!」
ゆうちゃんが指さすその先に、相変わらずどこか気だるげに歩く彼の姿があった。
――いったい、彼はこんなお昼休みにどこへ行くのだろう。
彼はなにか目的があるわけでもなく、ただブラブラとあてもなく歩いているようにも見える。この辺りの地理にやけに詳しいのだろうか? それとも、ただ一人が好きなだけなのだろうか。
彼を見つめる私の胸の奥で、言い知れない小さな波紋が広がっていく。
そして午後の研修が始まる直前、彼は何食わぬ顔で再び研修室へと戻ってきたのだった。
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