episode.02「一足遅い夏と、冷蔵庫の缶ビール」

街はお盆の喧騒がまるで嘘のようにすうっと引いていき、夕暮れの空気がほんの少しだけ秋の気配を含み始めた頃、私は世間の流れから少しだけ遅れて取得した、待ちに待った待望の夏休みへと突入した。


仕事が変に忙しかったというわけでは決してない。単に、世間がお盆休みというだけでどこも彼処も大混雑している真っ只中をあえて外し、少しずらして連休を取ったほうが、特急電車の指定席もスムーズに確保できるし、実家で誰の目も気にせずのんびりと羽を伸ばせるという、私の計算高いめんどくさがり気質が導き出した、極めて合理的で賢い選択だったのだ。


そもそも社会人になってからというもの、自分の自由になる時間をこうして計画的にコントロールすることこそが、大人の処世術なのだと密かに誇らしく思っていたりもする。

お盆の最中、どこへ行っても人だらけで、電車の予約も一苦労、観光地に行けば長蛇の列……そんなストレスフルな環境に自ら飛び込んでいくなんてごめんだ。みんなが帰省ラッシュのピークで疲弊している頃に、あえて数週間ずらして悠々と休みを満喫する。そのほうが旅費だって少し安くなるかもしれないし、何より精神的なゆとりが全く違う。


部屋の真ん中にポンと放り投げたままの、まだ中身が空っぽのキャリーケースの前で、私はスマートフォンをしっかりと耳に当てていた。


「――で、あんたは結局、いつこっちに帰ってくるわけ?」


受話器の向こうから、母親の少し呆れたような、けれどどこか嬉しさを隠しきれない、実家特有の朗らかな声が響いてくる。あの特有の、どこかお節介で、でも温かいトーンを聞くだけで、不思議と肩の力がふっと抜けていくのを感じる。


「明日にはちゃんと実家に帰るよ。地元の駅に着いたらまた連絡するからさ。向こうに着いたら、ゆうちゃんとも久しぶりにご飯に行く約束もしてるし」


「ゆうちゃんによろしく伝えておきなさいね。あんたたちも、なんだかんだで相変わらず仲が良いんだから、本当に微笑ましいわねぇ。そうそう、お土産はどうするの? お母さんのは、この間みたいに駅ビルで例のあれ買ってきてちょうだいね。あの名物の饅頭が一番美味しいんだから、お父さんもずっと楽しみにしてるわよ。あ、それと、お父さんにはあの地酒もお願いね。お父さん今から冷蔵庫のスペース空けて楽しみに待ってるんだからね」


「わかった、わかったって。ちゃんと忘れないように買って帰るから、そんなに心配しなくても大丈夫だってば」


私は適当に相槌を打ちながら、クローゼットの中から引っ張り出した着替え用の服を、目の前のベッドの上に次々と放り投げる。旅行のパッキングというものは、行く前の準備はなぜこうも億劫で、服を引っ張り出すだけで部屋中が散らかってしまうのだろう。あとで綺麗に畳み直さなければならないのに、ついつい後回しにしてしまう自分の悪い癖だ。


「そういえばさ、帰ってくるならあんたの大好きな夏野菜のカレーを鍋いっぱいにたっぷり作ってあげるからね。お父さんも『娘が帰ってくるなら』って、今朝から実家の畑に野菜をもぎ取りに行くってすっごく張り切って楽しみにしてるのよ」


「やったー! お母さんありがとう! ……あ、でも一皿や二皿じゃ絶対に足りないから、次の日の分も食べる前提で、めちゃくちゃ多めに作っておいてよね」


「わかってるわよ、あんたはいつもその調子でモリモリバクバク食べるんだから。どうせ『一日寝かせたカレーのほうがコクが出て美味しい』とか言って、そればかり食べるんでしょうから、今日からたっぷりと多めに仕込んでおくわよ」


「だって、一日寝かせたカレーはスパイスの角が取れてまろやかになるし、野菜の旨味がルーの隅々までしっかり溶け込んでまた一味違うんだもん。やっぱり二日目のカレーは格別でしょ?」


母は「はいはい、分かりましたよ、本当にうちは贅沢な娘だねぇ」と電話の向こうで小さく、あたたかく笑った。

その母親の朗らかな声を聞いているうちに、正直最初は「あーあ、荷造りするのも重いキャリーケース持って電車に乗るのもめんどくさいな」と少しだけ憂鬱だった帰省が、急にめちゃくちゃ楽しみになってきた。

実家の美味しい手料理、よく効いた冷房のリビングの特等席、そして誰にも邪魔されずに心ゆくまでぐうたらできる自分の部屋。現金なものだなと自分でも内心苦笑しつつ、心なしかさっきまで重かった足取りがすっと軽くなるのを感じる。


実家という場所は、大人になってもどこか特別な避難所のような、無条件で甘えられる空間だ。東京での一人暮らしは自由で楽しいけれど、ふとした瞬間に感じる孤独や、なんとなく溜まった日々の小さな疲れを、実家のあの独特の空気感がすべて包み込んで癒やしてくれる。母親の作る料理の匂い、父親の少し不器用な優しさ、そして何気ないテレビの音。そのすべてが、今の私にとっては最高の贅沢なのだ。


「じゃあ、明日無事に地元に着いたらまた連絡するね。お母さん、また明日ね」


「はいはい、道中気をつけて、寄り道しないでちゃんと帰ってくるんだよ」


通話を切り、私はベッドの上にパタリと大の字のままで盛大に倒れ込んだ。


一人暮らしの部屋の天井に広がる、心地よい静寂。

仕事の激務で疲れ果てたというわけではないけれど、なんとなく全身の緊張がほどけてふっと力が抜けていくような、ほっとする心地よい気だるさがあった。社会人になってからというもの、常に時間を気にし、タスクに追われ、周りの目を気にしてピリッとした緊張感の中で生きている。だからこそ、こうして何にも縛られない、自分だけの「何もしない時間」がたまらなく愛おしい。


私は「よいしょ」と自分に気合を入れて上半身を起こし、その足でキッチンへと向かった。

開け放した冷蔵庫の扉から、ひんやりとした冷気が火照った顔を優しく撫でる。奥から取り出したのは、今日の主役であるキンキンに冷えた缶ビールと、昨日の晩御飯の残りのナスの揚げびたしとタッパーに入れておいたお気に入りの枝豆だ。竹内のおっちゃんありがとう。


「プシュッ」と爽快な乾いた音が部屋の静けさに響き、缶のタブを開けると、冷凍庫でキンキンに冷やしたグラスに黄金色の液体を勢いよく注ぎ込む。きめ細やかな泡がシュワシュワと心地よい音を立ててグラスのふちまで盛り上がった。シュワシュワと立ち上る炭酸の泡を見つめているだけで、一日の終わりの解放感が全身に染み渡っていくようだ。


ローテーブルにそれらを綺麗に並べ、私はソファに深く腰掛ける。手元のスマートフォンを操作して、気になっていた動画の再生ボタンを押した。


画面のなかでインフルエンサーが楽しそうにどこかの街の魅力を紹介しているのを聞き流しながら、私は塩気のしっかり効いた枝豆を一つまみし、キンキンに冷えたビールを一気に喉へと流し込む。


「ぷはーっ……たまらん!」


最高だ。

誰に気兼ねすることもなく、自分の好きな時間に起きて、好きなものを食べて、好きなだけダラダラする。これが、正しい社会人一年目の夏休みの正しい過ごし方というものだろう。

明日からの帰省に向けてのワクワク感と、今この瞬間の圧倒的なリラックス感が混ざり合って、胸の奥がじんわりと満たされていく。


ビールを飲み干したグラスをテーブルに置き、私はスマホの画面をそっと暗くした。

部屋の明かりだけが、静かに夏の夜を優しく、そしてあたたかく照らし出している。

明日になれば、またあの懐かしい街の空気を吸い込み、思いがけない出会いや懐かしい顔ぶれとの再会が待っている――そんな予感を胸に抱きながら、私は静かに目を閉じ、訪れる休日の夜をゆっくりと味わい尽くした。

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