第23話 それぞれのバレンタイン【蘭編】

放課後の校舎は、朝からの浮ついた空気をまだ少しだけ引きずっていた。廊下ですれ違う生徒たちの手には、リボンのかかった小さな紙袋がいくつも見え隠れしている。


今日という日が、この学院にとってどれほど特別な意味を持つのか、私はもう十分に思い知らされていた。


生徒会室での作業を早めに切り上げた私は、預かった資料を届けるため、講堂裏手の古い離れへと足を向けていた。演劇部の稽古場は、普段の校舎とは違う、木の匂いの染みついた静かな一角にある。壁一面に貼られた歴代公演のポスターが、夕方の薄明かりの中で色褪せながらも誇らしげに並んでいた。


引き戸に手をかけようとした、その時だった。


中から、聞き覚えのある声が漏れてきた。


「──紫苑様。日頃の温かいご指導、心より感謝申し上げます。つきましては、こちら、ほんの気持ちばかりではございますが」


芝居がかった、どこか一生懸命な声。私は戸の隙間から中を覗き込んだ。


稽古場の中央、誰もいない空間に向かって、蘭ちゃんが深々とお辞儀をしていた。手にはリボンのかかった小箱。片手には、小さなカードが握られている。


(練習、してるんだ)


微笑ましさに口元が緩みそうになったその瞬間、私の気配に気づいたのか蘭ちゃんの視線がこちらへ向いた。


「──っ、だ、誰ですの!?」


「あ、ごめんなさい!資料を届けに来ただけで……」


慌てて戸を開けて姿を見せると、蘭ちゃんの顔がみるみる赤く染まっていく。手にしていたカードを咄嗟に背中へ隠したものの、床に落ちていた台本らしき紙束までは隠しきれなかった。


「う、梅沢杏奈!?み、見ました……!?」


「ちょっとだけ。ごめんね、覗くつもりはなかったんだけど」


「あ、あああああの光景は……!違いますわ!これは、その」


蘭ちゃんは背中にカードを隠したまま、視線を右へ左へと泳がせる。普段、演劇部副部長として堂々とした発声練習をしている彼女とは思えないほど、動揺が全身から溢れ出していた。


「無理に隠さなくても平気だよ。もしかして、紫苑先輩に渡すの?」


図星を突かれたのか、蘭ちゃんは肩をびくりと震わせた。しばらく黙り込んだ後、観念したように大きく息を吐く。


「ええ、そうですわ。紫苑様にお渡しするつもりですの」


うつむいていた顔を、蘭ちゃんはゆっくりと上げた。その瞳には、いつもの気の強い光とは違う、真剣な色が宿っている。


「わたくし、演劇部に入ってからずっと、紫苑様の背中を追いかけてきました。舞台に立つ姿も、部員への気配りも、何もかもが憧れで。ですから今日は、感謝の気持ちをきちんと言葉にして、お渡ししたかったんです」


「素敵だと思うよ、その気持ち」


素直にそう伝えると、蘭ちゃんは少しだけ照れくさそうに視線を逸らした。


「ただ……」


「ただ?」


「意識すると言葉が飛んでしまいますの。稽古場での発声は得意なのに、いざご本人を前にすると、頭が真っ白になってしまって」


肩を落とす蘭ちゃんの姿は、いつもの自信に満ちた振る舞いとはずいぶん違って見えた。


「だから、こうして一人で練習を」


「なるほど、それでさっきの」


「誰もいないと思っていたのに、まさか見られてしまうなんて……穴があったら入りたい気分ですわ」


顔を両手で覆う蘭ちゃんを見て、私はふと思いついたことを口にした。


「ねえ、蘭ちゃん。もしよかったら、私を紫苑先輩だと思って、もう一回練習してみない?」


「え?」


「一人でやるより、誰かに聞いてもらった方が、感覚掴めるかもしれないし」


蘭ちゃんは目を丸くして私を見つめた後、少し考えるように顎に手を当てた。私は、そのまま続けた。


「大丈夫、大丈夫!練習台なんだから、気楽に使って!」


そう背中を押すと、蘭ちゃんはしばらく逡巡していたが、やがて意を決したように頷いた。


「では……お言葉に甘えさせていただきますわ。梅沢杏奈、そこの椅子にお座りになって。紫苑様は、あの窓際でいつも台本を読んでいらっしゃいますの。少しだけ、そういう雰囲気で」


言われるままに椅子へ腰を下ろすと、蘭ちゃんは咳払いを一つして、台本らしき紙を握り直した。深呼吸を三回。背筋を伸ばし、私の前に立つ。


「──紫苑様」


先ほどよりも、幾分か落ち着いた声だった。


「日頃の温かいご指導に、心より感謝申し上げます。つきましては……」


そこまでは、順調だった。


紙に書かれた続きの台詞に目を落とした瞬間、蘭ちゃんの手がぴたりと止まった。


「え、えっと……」


「蘭ちゃん?」


「わ、忘れましたわ!次の台詞、何でしたっけ!」


私が蘭ちゃんの不器用な可愛らしさに対してつい笑いを堪えていると、蘭ちゃんはますます焦った様子で、握っていた小箱まで危うく落としそうになった。


「もう、練習のはずなのに、なんでこんなに緊張してますの、わたくし!」


「それだけ真剣なんだよ」


「当たり前ですわ!これは、わたくしにとって特別な……」


言いかけて、蘭ちゃんははっと口を噤んだ。それから、ゆっくりと視線を私へ戻す。台本を握る指先から、少しずつ力が抜けていくのが分かった。


「……梅沢杏奈」


「うん?」


「わたくし、思うのですけれど」


蘭ちゃんは、それまでの芝居がかった口調とは違う、飾らない声でぽつりと呟いた。


「こうして誰かに見てもらいながら想いを言葉にするのは、案外、悪くないものですわね」


その言葉には、練習相手への遠慮ではない、静かな実感が滲んでいた。


「本当は、わたくし、紫苑様だけでなく、梅沢杏奈にも、少しは?感謝しておりましたの」


「私に?」


「あなたは、勝負の時も、それに今も。いつも真っ直ぐに、わたくしを見てくださいますでしょう?」


蘭ちゃんは、小箱を両手で包み込むように持ち直した。


「実はもう一つ、用意しておいた分がございますの。これは、その、練習の御礼と言いますか」


蘭ちゃんは語尾を濁し、頬をほんのり染めた。


差し出されたのは、先ほどとは違う、もう一回り小さな包み。淡いピンク色のリボンが結ばれている。


「え、いいの?」


「本当は紫苑様のもの一つだけのつもりでしたのに、なんだか勢いで。べ、別に……!最初からあなたに渡すために用意していたわけではありませんのよ。練習に付き合っていただいたお礼ですわ!か、勘違いなさらないでくださいまし!」


早口でそう付け加える蘭ちゃんの頬は、耳の先まで赤く染まっていた。


「ありがとう、蘭ちゃん!大切にいただくね」


小箱を受け取ると、蘭ちゃんはどこかほっとしたように、それでいて気恥ずかしそうに頬を緩めた。


「本番の方は、うまくいきそう?」


私が尋ねると、蘭ちゃんは急に真剣な表情を取り戻し、台本をぎゅっと握りしめる。


「正直、まだ自信はございませんわ。ですが──」


顔を上げた瞳には、負けん気の強い光が戻っていた。


「何としてでも、紫苑様にお渡ししてみせますわ!」


「その意気だよ、蘭ちゃん!」


拳を握って応援すると、蘭ちゃんは満足そうに頷き、少しだけ得意げに胸を張った。


「見ていなさい、梅沢杏奈。わたくしは、この学院で一番の女優になりますの。いつか、この一幕も、誰かに語られるような伝説の場面にしてご覧に入れますわ!」


大げさな宣言に、私は笑ってしまったけれど、その言葉の奥に覚悟が滲んでいることを知っていた。


窓の外はすでに橙色に染まり始めていた。手の中の小箱を見つめ、私はもらったばかりの温もりを少しだけ大切に抱きしめた。


(蘭ちゃん、うまくいくといいな)


私は、蘭ちゃんの成功を密かに願うのだった。

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どれだけ無敵(ハイスペック)で傲慢(プライド高い)な女(ひと)に迫られたって、私は絶対に翻弄されたりなんてしない! 夢見弖のねむ @yumemite_nnm

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