第22話 それぞれのバレンタイン【馨編】

二月の中旬、朝から立ち込めていた朝靄は昼過ぎにようやく晴れ、校舎の窓には陽射しが差し込んでいた。


鞄の中で、小さな包みがことりと音を立てる。今朝、紬葵ちゃんたちと一緒に仕上げたものとは別に、馨にだけは自分の手で最後まで作り上げたものを渡したくて、昨夜のうちに家でこっそり用意しておいた一つだった。


飾り付けの上手な紬葵ちゃんたちのものと並べたら、見劣りするのは目に見えている。何度も作り直そうか迷いはしたけれど、既製品で済ませる気にはどうしてもなれなかった。上手いか下手かよりも、私自身がどれだけ本気で向き合ったかが、馨にはきっと伝わる気がしたから。


(今日、渡せるかな)


昼休み、私は温室へと足を向けた。もうすっかり見慣れた扉を押し開ける。湿った土と青葉の匂いがふわりと鼻先をくすぐり、ガラス天井から差し込む冬の陽射しが、並んだ鉢植えを柔らかく照らしていた。作業台に寄りかかる馨の後ろ姿が、逆光の中に浮かんでいる。


「よお」


振り返った馨は、いつも通りの気だるげな笑みを浮かべている。しかし、こちらを見つめる瞳の奥には、心なしかいつもより落ち着きのない色が揺れていた。


「馨、お待たせ」


「別に、待ってねえ」


口ではそう返しながらも、馨の視線はちらちらと私の鞄へ向いている。何かを期待しているような、それでいて気づかれたくないような、器用とは言い難い態度だった。


私はその視線に気づかないふりをして、作業台の傍に置かれた木箱に腰を下ろす。湿った空気が、頬を優しく撫でていった。


「今日、バレンタインだよな」


沈黙を破ったのは、馨のほうだった。何気ない口調を装いつつも、指先が制服の袖を軽く弄んでいる。


「うん、そうだよ」


「オマエ、律儀にみんなに配ってそうだよな」


「え、まあ……」


図星を突かれ、うっかり言葉に詰まる。今日はこのあとも、数人に日頃の感謝を込めてバレンタインの贈り物を渡す約束がいくつか控えていた。


「私にも、あるんだろうな?」


馨はそう言い切ると、こちらへ手のひらを差し出してきた。


あまりに直球な催促に、私は思わず噴き出してしまう。


「な、なんで先に聞いちゃうの!」


「んだよ、遠慮すんな。寄越せよ」


そのあっけらかんとした態度に、肩の力がふっと抜けていく。渡すタイミングをどう切り出そうか、朝からずっと悩んでいたことが、なんだか馬鹿らしく思えてくるほどだった。


「もう、しょうがないな~……」


私は鞄から包みを取り出し、両手でそっと差し出す。小さなリボンをつけただけの、飾り気のないものだった。


「はい、これ。手作りだから、あんまり期待しないでね」


「手作り?」


馨は片眉を上げ、興味深そうに包みを受け取った。


「杏奈、料理苦手だって言ってなかったか」


「い、言った……けど!ちゃんと頑張ったから!」


慌てて言い返すと、馨は喉の奥を楽しげに鳴らした。


「ふーん?」


包みを矯めつ眇めつ眺め、馨はぽつりと呟く。


「杏奈が、私のために不格好なもん作ってきたっつーのは、……案外悪くねえな」


その言葉に、顔が上げられないほど恥ずかしさがこみ上げてきた。


「なっ……!褒め方が独特すぎるよ!」


「そうか?私は褒めてるつもりだけどな」


馨はその場でリボンをほどき、包みの中身を確かめる。中には不揃いな形のトリュフが、いくつか並んでいた。表面はところどころ艶が足りず、素人仕事であることは一目瞭然だった。


馨は迷う素振りも見せず、ひとつ摘まみ上げると、そのまま口へ運んだ。


「……甘い」


感想は短いものの、咀嚼する馨の頬が、いつもより緩んでいるのを私は見逃さなかった。


「美味しい?」


「まあまあ」


「まあまあって!」


口を尖らせると、馨はくつくつと肩を揺らして笑った。


「冗談だよ。悪くない、っつーか」


視線を逸らし、馨は残りのトリュフを見つめる。


「こういうの、初めてもらったから。なんつーか、調子狂うわ」


その呟きは、いつもの飄々とした調子とは違う、どこか照れくさそうな響きを持っていた。


ガラス天井の向こうを冬の澄んだ雲がゆっくりと流れていく。私たちの間に流れる沈黙は、気まずいものではなく、むしろ心地よい静けさだった。鉢植えの葉先から、小さな水滴が一つ、土へと落ちる音だけが響く。


「なあ、杏奈」


「ん?」


「いや、何でもない」


馨の指先が包み紙を握る力が、ほんの少しだけ強くなった気がした。


「馨?」


馨はわざとらしくガラス天井を見上げる。整った横顔には、いつも通りの余裕が戻っていたけれど、耳のあたりだけが、うっすらと赤く染まっていることに私は気づいてしまった。


「手作りとか、随分気合い入ってんじゃねえか」


からかうような口調だったが、その声には、隠しきれない喜びが滲んでいるように聞こえた。


「馨のは、特別に頑張ったんだよ」


私の言葉に、馨は驚いたように瞳を見開くと、これ以上ないくらい満足げに口の端を上げた。


「へえ。じゃあ、これは私だけの特典ってわけか」


「そ、そういう言い方すると恥ずかしいからやめて!」


慌てる私を見て、馨は声を上げて笑った。温室の湿った空気の中、それは不思議なほど柔らかく響いた。


「せっかくだから、大事に食う」


言葉とは裏腹に、馨は包みを丁寧に鞄へしまい込んだ。普段の彼女からは想像もつかないほど、その手つきは慎重だった。


「馨」


「ん?」


「気に入ってくれた?」


答えを探すように、馨は少しの間、視線を鉢植えの緑へ彷徨わせた。それから、ふっと表情を緩める。


「おう。……気に入った」


たった一言。それでも、馨の瞳に浮かんだ熱は、軽口を叩いていた時とは比べ物にならないほど真っ直ぐだった。


「しゃーない。お返し用意するから、期待して待ってろ」


「え、いいの?」


「当たり前だろ。もらいっぱなしなんて、性に合わねえ」


笑う馨の横顔を、私はしばらくの間見つめ続けていた。


冬の陽射しが、ガラス越しに柔らかく降り注いでいる。この何気ない時間が、いつまでも続けばいいのに。そんなことを思い、私は隣に座る馨の温もりを静かに感じ続けていた。


名残惜しさを抱えたまま、私たちはどちらからともなく、温室をあとにする準備を始めた。


(このあとも、まだたくさんの「今日」が待ってる)


この満ち足りた時間を大切に抱えながら、私たちは軽い足取りで歩き出した。

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