第8話 ひびの入った木剣
《愚者》の札を得た夜、コンラートは嬉しくてほとんど眠れなかった。
魔法のない世界で三十二年も生きたのだ。触れるだけで物の正体が分かるなら、領地が壊れた理由も、自分が死ぬ未来を避ける手掛かりも見つけられる。あの時は、そう信じていた。
翌朝、書庫で一番薄い記録を借りた。去年、屋敷へ入った薪の数を記した帳簿だった。誰も見ていないことを確かめ、頁の端へ手を置いて鑑定を使う。
ところが浮かんだのは、【紙】【黒インク】【全24頁】の三行だけだった。肝心の数字については何も出ない。眠れないほど期待した自分が、急に腹立たしくなった。
「数字は出ないのか」
『かいてある』
クロムの答えは正しいが、役には立たない。
「この数が正しいか知りたいんだ」
『札にきけ』
「聞いたよ。でも、紙とインクしか出ない」
もう一度触れても、表示は変わらなかった。書いた者の名も、書かれた時刻も、嘘かどうかも出ない。
今度は頁の隅にある黒い染みへ触れてみる。
【黒インク】。文字と同じだった。誰かが数字を直した跡かもしれないし、書記が筆を落としただけかもしれない。鑑定はそこを区別してくれない。
『木より、ふえた』
「紙とインクくらい、札に教えられなくても分かる」
積み木では「木」の一語だけだったのに、今回は紙とインクまで分かる。役に立たないと決めるには、まだ早そうだった。
コンラートは帳簿を棚へ戻し、屋敷の中を歩いた。
最初に触れたのは食堂の銀匙。【銀と銅の合金】。銀だけではないことは、食器を磨く使用人から聞いた覚えがある。
次は台所の塩壺で【岩塩】【乾燥】。だが蓋の裏へ水滴が付いている壺を試すと、最後の表示だけ「わずかに湿っている」に変わった。この差は使えそうだ。
棚の端にある黄色い油の小瓶にも触れる。【油】。それだけで、何の油かまでは出ない。
「何の油だ」
コンラートは料理人へ尋ねた。
「こちらは亜麻の種から搾った油でございます。食用ではなく、木の器へ塗る物です」
「食べる油と、何が違う?」
「苦みが残っておりますし、搾る道具も分けておりません。口へ入れる物には使いません」
説明を聞いてから、もう一度小瓶へ触れる。今度は【亜麻仁油】【不純物あり】【木工用】と表示が増えた。
「増えた!」
思わず声が弾み、料理人が目を丸くする。コンラートは小瓶を持ち直し、何でもない顔を作った。
「……昨日、本で読んだことを思い出しました」
ごまかしながらも、先ほどまでの落胆は消えていた。札が何でも教えてくれるわけではない。それでも、自分の知識が増えれば、同じ品から拾えるものも増える。
指を離し、同じ瓶にもう一度触れても、表示はそこで止まったままだった。鑑定が新しい知識をくれたわけではない。料理人から聞いた話を使って、目の前の油を見分けているだけらしかった。
『人にきいた方が、はやい』
「それでも、人が見落とす違いなら見つけられるかもしれない」
『かもしれない』
「何もせず笑うな」
『おれは悪魔だ』
悪魔を名乗れば働かなくてよいと思っているらしい。
◇
午後、退役騎士が稽古用の木剣を運んできた。
名をバルドという。五十を越えているが背は高く、左眉から額へ古い傷が走っている。今は屋敷の警備と、オットーが狩りへ出る時の護衛を担っていた。
「若様にはまだ重いでしょう」
差し出された木剣を、コンラートは両手で受け取った。大人用より短い。それでも片手で持つと、剣先がすぐ床へ下がる。
「持つだけですか」
「今日はな。振れば自分の膝を打ちます」
バルドは真顔のままだった。冗談を言っているようには聞こえない。実際に何人も見てきたのだろう。
コンラートは柄へ触れたまま鑑定する。【トネリコ材】【乾燥】【ひび】。積み木の時より詳しい。トネリコ材が分かったのは、昨日読んだ武具の入門書のおかげだった。
「ひびがあります」
「どこに」
問われて、コンラートは黙った。表示は「ひび」としか出ていない。剣を裏返し、明かりへ透かしてみる。表面には傷が多く、どれが危険かは分からなかった。
「分かりません」
バルドは木剣を受け取り、柄に近い部分へ親指を滑らせる。
「ここです」
爪ほどの細い線が、木目に沿って伸びていた。
「どうして分かるんですか」
「色と音です」
柄頭を軽くたたくと、乾いた硬い音がした。次にひびの近くをたたくと、わずかに低い。
「木は乾きすぎれば固くなり、粘りを失います。表がきれいでも、中から割れる。特に握り元は汗を吸い、また乾くので傷みやすい」
説明を聞いてから、コンラートはもう一度触れてみた。【トネリコ材】【乾燥しすぎている】【握り元に深さ三分のひび】。今度は場所まで出ている。それでも、いつ割れるかまでは表示されない。誰が手入れを怠ったのかも分からなかった。
「このまま使えば?」
「強く打った時に割れるかもしれません。今日は持つだけでも、捨てます」
バルドは木剣を古布で包み、足で押さえてから両手でゆっくり曲げた。乾いた音がして、握り元から二つに折れる。
コンラートは思わず一歩下がった。知らずに振っていたら、同じ破片が手元で跳ねていた。
「直せないんですか」
「新しい物に替えたほうが安く済みます。折れた方は短く切って、足さばきの印に使いましょう」
足さばきの印なら、ひびの入った木でも危険はない。直すことだけが、物を惜しむ方法ではないらしい。
バルドは新しい木剣を選び、今度は鑑定させずにコンラートへ渡した。
「持って確かめなさい」
柄を握ると、先ほどよりわずかに軽い。握った感触も柔らかかった。
「違います」
「どこが」
「軽い。それと、手が痛くない」
「重さはほぼ同じです。握りの太さが若様の手に合っている」
秤の数字が同じでも、自分の手には同じ重さではなかった。
バルドはコンラートの右手を柄へ置き直し、親指と人差し指の力を抜かせた。
「剣は落とさぬ程度に持つ。ずっと強く握れば、振る前に腕が疲れます」
次に教えられたのは、受け止めないことだった。バルドは細い棒を木剣へゆっくり当て、正面で支える形と、刃を斜めにして横へ流す形を比べてみせる。正面で受けると、五歳にもならない腕へそのまま重さが来た。斜めにすると、棒は木剣の横を滑って床へ落ちる。
「力の強い相手と同じ向きへ押し合えば、弱い方が負けます。足を止めるか、横へ流す。若様が大きくなっても同じです」
「魔法で強くなっても?」
「相手も魔法を使います」
簡単な答えだった。
コンラートは同じ動きを繰り返した。三度目は腕へ力が入りすぎ、棒を正面で止めてしまう。四度目は足がそろって、一歩押し戻された。五度目になって、ようやく棒だけが木剣の横を滑った。
その時の手首の角度は、札のどこにも表示されなかった。
「敵へ当たる時は?」
「敵を考えるのは、転ばず立てるようになってからです」
教えられた幅に足を開き直すと、木剣を片手で持っても体が傾きにくくなった。鑑定の表示がなくても、この違いは立っていれば分かる。
◇
稽古が終わると、バルドは割れた木剣を持って倉庫へ向かった。コンラートは黙ってあとをついていく。
「明日も教えてくれますか」
「男爵様がお許しなら」
「僕が頼んでも?」
「若様は、まだ私へ命じるお立場ではありません。跡取りであることと、今日の命令権は別です」
はっきり言われ、コンラートは足を止めた。跡取りでも、今は四歳の子どもだ。相手の仕事を勝手に変える権限はない。
「では、母上に頼みます」
「それがよろしい」
バルドは初めて少し笑った。
コンラートは木剣で分かったことを手帳へ書いた。《鑑定》が見せるのは、自分が知っている範囲での今の状態だけ。人から教われば表示は増えるが、過去や原因まで勝手に埋めてはくれない。
三行を書き終えると、クロムが言った。
『帳簿は、紙だったな』
「今はな」
『また、人間にきくのか』
「聞くし、自分でも比べる。札だけに答えさせるのは、もうやめる」
鑑定の下には、もう一つ「収納」という文字が浮かんでいた。意識を向けると、横に五つの空き場所が現れる。
「入れられるのは、五つまでみたいだ」
『大きいのも?』
「それが書いてない。重さも、大きさも分からない」
『ぜんぶ、入れろ』
「一つずつ試す。頭の上に出てきたら危ないからな」
『考えるより、入れろ』
「壊れても困らない物を探してからだ」
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