第7話 薬師の娘

 十二年後には勇者になるかもしれない。その記憶が戻ってから七日たったが、リーゼはまだ薬瓶の一本にも触らせてもらえなかった。


 熱は下がり、寝台を出ることも許された。それでも母が様子を見ていられる長椅子で、薄い薬草図鑑を読むだけ。それが今日の役目だった。


 表紙を開いても、つい店の物音を追ってしまう。


 戸が開くたびに冷たい風が入り、待っている誰かが咳をする。父が症状を尋ねる間に母は棚から瓶を下ろし、やがて硬貨が木の皿へ落ちた。


 動画にもゲームの画面にも映らなかった仕事が、朝から途切れず続いていた。


「次の方」


 母が呼ぶと、杖を持った老人が診察台へ移った。その後ろには、頬を赤くした子どもと母親が待っている。


 子どもは退屈したのか、長椅子の端を爪でこすっていたが、ふとリーゼへ顔を向けた。


「風邪?」


 小声で尋ねると、子どもは首を振った。


「おなか」


「痛いの?」


「食べると」


 母親が会話に気づき、子どもの肩を引いた。


「お嬢ちゃんも病み上がりでしょう。うつったらいけないよ」


 薬師の娘であっても、五歳の病み上がりは患者の側らしい。


 リーゼは図鑑へ目を戻した。


 それが少し面白くなかった。自分は店の側にいるつもりだったのだ。


 先のことを知り、人より大きな魔力も持っている。それなのに、目の前の子どもの腹痛が、食べ過ぎなのか、傷んだ物のせいなのか、それとも病気なのかさえ分からない。ゲームなら薬草を一つ選べば治ったが、父は答えを聞くたびに診察台の瓶を入れ替えていた。


 老人の診察が終わり、親子が呼ばれた。


 父は子どもの腹へ触れ、昨日から食べた物と、便の様子と、熱があるかを尋ねた。答えを聞くたび、診察台の横に置く瓶を入れ替える。


 最後に選んだのは、リーゼの知らない灰色の粉だった。


「それ、何?」


 思わず尋ねる。


 父は患者へ飲み方を説明し終えてから、娘を見た。


「リーゼ。診察中に口を挟むな」


「ごめんなさい」


 親子が帰ると、父は灰色の粉を少量だけ紙へ出した。


「乾かした樹皮だ。腹の動きを整える。ただし、熱が高い時や血が出ている時には、これで抑えてはいけない」


「どうして?」


「外へ出すべきものを、腹へ残すことがある」


 リーゼは紙の上の粉を覗き込んだ。


「じゃあ、さっきの子は大丈夫?」


「話を聞き、腹へ触れ、便を確かめた。その上で今はこれだと決めた」


 父は残った粉を瓶へ戻した。


「薬は、名前を知れば使える物ではない。助けるつもりで毒を飲ませることもある」


 リーゼは紙の上の粉を見たまま、返事をしなかった。


 未来を知り、大きな魔力もあるのだから、今から人を助けられる。胸の内でひと続きになっていた考えが、父の言葉でばらばらにほどけた。


「わたしも、覚えたい」


「まず図鑑を読め」


「調合も」


「十年早い」


「十年たったら学院へ行く」


 父が眉を上げた。


「急に何の話だ」


「学院なら、薬と魔法を両方習えるでしょう?」


「入るだけでも金がかかる」


「特待生なら?」


「誰に聞いた」


 ゲームで、と答えるわけにはいかない。


 リーゼは棚の上を指した。古い紙束の一番上に、王立学院の案内が置かれている。薬材を納めた商人が、包み紙として置いていった物だ。


「そこに書いてあった」


 嘘ではない。昨夜、眠れない時に読んだ。


 父は案内を取り、特待生の欄へ目を通した。


「試験は難しい。文字と計算だけではない。基礎魔法も、推薦状も要る」


「勉強する」


「病み上がりが、まず何をする」


「休む」


「分かっているなら座っていろ」


 話はそこで終わったように見えたが、父は学院の紙を捨てず、薬草図鑑の隣へ置いた。


     ◇


 昼を過ぎると、待つ人が増えた。


 母は診察の順を木札へ書き、壁の釘へ掛けている。五人目の老人を呼んだ時、外から若い女が子どもを抱えて駆け込んできた。


「急に息が苦しいって」


 母は木札を見ず、すぐ父を呼んだ。


 父は診察台を空け、子どもの服を緩める。待っていた人々も、今度は何も言わなかった。


 リーゼは長椅子から立った。


 何かをしなければと思う一方で、診断も調合もできない。父の邪魔にならず、今の自分でも手を出せるものを探して店内を見回した。


 診察台の横に、使い終えた布が積まれている。水差しは空だった。母は子どもの母親を支え、話を聞いている。


 リーゼは裏口から井戸へ向かった。


 桶は一人で持つには大きい。空のまま井戸へ下ろし、水を半分だけくむ。両手で持ち上げても、店まで運ぶ途中で何度も膝へ当たった。


「何をしているの」


 戻った母が声を上げた。


「お水がなかったから」


「こぼして滑ったらどうするの。病み上がりなのよ」


「半分にした」


 母は小言をのみこんだ様子で、桶を受け取った。


「次は先に言いなさい」


「はい」


 子どもはしばらくして呼吸を取り戻した。喉の腫れを抑える薬を使い、今夜は店の奥で様子を見ることになった。


 診察台の周りには、使った布と器が残った。リーゼは今度こそ母へ聞いた。


「洗っていい?」


「熱い湯は触らないこと。水洗いだけして、こちらへ並べて」


 ようやく仕事をもらえた。リーゼは器を一つずつ井戸水ですすぎ、台の上へ伏せた。薬の油が残った器を爪でこすっていると、父が横から灰を溶いた洗い水を差し出した。


「薬瓶は種類ごとに分けろ。混ざると使えなくなる」


「印が消えているのは?」


「こちらへよける」


「ひびがあるのは?」


「捨てる。惜しんで薬を失う方が高い」


 洗えば終わりだと思っていたのに、瓶は形ごとに戻す場所が違った。口の広い物は軟膏、口の細い物は一滴ずつ使う薬、色の濃い物は光を嫌う薬に使う。母は洗い終えた瓶を窓へかざし、曇りや欠けを見てから棚へ戻していった。


 リーゼがきれいだと思った瓶も、母は二本よけた。一つには前の薬の匂いが残り、もう一つには底の近くへ細い傷があった。


「これくらいなら使えそう」


「水ならね。でも薬は何日も置くでしょう。傷から空気が入れば、見た目が同じでも効き方が変わることがあるわ」


 母は傷のある瓶へ炭で線を引いた。捨てず、店の外で採取した種を分ける容器にするという。


 店先から次の患者を呼ぶ声がしたが、母は瓶の確認で手が離せない。


「リーゼ、壁の木札を一枚めくって。書いてある名前を読めますか」


「うん。読める」


 字を指で追い、待合へ向かって名前を呼ぶ。返事をした女が立ち上がるのを確かめてから、外した札を母へ渡した。


「順番を変えた時は、札を勝手に捨てないで。必ず私へ渡してください」


「分かった」


 傷のある瓶も、種を分けるだけなら使える。何でも捨てられるほど店に余裕はない。それでも、人へ渡す薬には使わない。ひびのある物を惜しむなと言った父の言葉が、今なら少し分かった。


 昼から洗った数は四十三本だった。百本には遠い。リーゼは急いで二本をぶつけ、母に手を止められた。


「速さより、割らないこと」


「待っている人が多いから」


「瓶を割れば、もっと待たせます」


 リーゼは手の動きを戻した。一度に三本持たず、一本ずつ底を洗う。遅くても、初めからやり直す回数は減った。


 夕方、店の外へ子どもの咳が聞こえた。


 リーゼは手を止めた。


 待合の隅に、母親に連れられた男の子がいる。咳き込むたび、顔を伏せている。順番はまだ先だ。


 リーゼは木札を見た。


 六番目。


 今すぐ助けられるかは分からない。だが、悪くなった時に父へ知らせることはできる。


 瓶洗いの台を、待合が見える位置へ少しずらした。


「勝手に動かすな」


 父に言われる。


「ここなら、待ってる人も見えるから」


 父は男の子と、娘の手元を順に見た。


「通路をふさぐな。それから、見えたことだけ言え。病名を決めるのはまだ早い」


「うん。見えたことだけ言う」


 リーゼは水へ手を入れ直した。刺すように冷たい。指先が赤くなるのもかまわず、瓶の底の泥をこすり落とした。


 泥を落として母へ渡すと、瓶はようやく四十四本目の列へ加わった。


「あと五十六本ね」


 その時、待っていた男の子の咳が、乾いた音から痰の絡む音へ変わった。


「お父さん。咳の音が変わった」


 父はすぐ男の子を呼び、胸へ耳を当てた。診察を終えると、瓶洗いの台を見て言う。


「明日も、その場所で待合を見ろ。病名は決めるな。変わったことだけ教えろ」


「うん!」


 赤くなった指を握ったり開いたりしてから、リーゼは四十五本目を水へ沈めた。冷たい水の向こうに、待合の男の子がまだ見えていた。

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