第6話 熱の中の記憶
五歳のリーゼは、高熱に浮かされながら、十二年後の自分が勇者になることを思い出した。
もっとも、今は剣どころか、水を入れた匙さえ一人では持てない。
眠っても、薬草の匂いが追いかけてきた。青い葉の青臭さだったり、煮詰めすぎた薬の甘さだったりする。目を覚ますたびに額の布が替わっていて、初めは冷たくても、じきに肌と同じ熱を持った。首筋を伝う水は、汗と混じって寝間着へ染みていく。
「リーゼ。聞こえる?」
母の声は分かった。
返事をしようとしたが、喉が貼りついて声にならない。唇だけを動かすと、父が木の匙を持ってきた。
「水だ。少しずつ飲め」
一口目はほとんど顎へこぼれた。二口目でようやく飲み込んだものの、喉の奥が焼けるように痛んだ。
リーゼと呼ばれて、もう五年になる。
父と母は表の店で薬を売っている。リーゼは干した薬草の籠をよけながら、店と奥の小部屋を行き来して育った。朝、父が戸を開ける音も、母がどの棚から薬包を取るかも知っている。昨日まで、それが自分の知る暮らしのすべてだった。
ところが熱を出してから、知らないはずのものまで頭へ浮かぶようになった。
白い壁の学校。机の下でのぞいたスマートフォン。友人に勧められ、動画を見てから自分でも始めたゲーム。試験が近いというのに手を出して、結局は途中で放り出した。
題名は『暁の勇者』。
薬師の娘リーゼが王立学院の特待生となり、聖剣に選ばれ、悪政王へ立ち向かう物語だった。画面の中のリーゼも、初めから剣を振るっていたわけではない。町の薬屋を手伝い、病人を助けるために光魔法を学び、学院で仲間を得ていく。
最後には王へ反旗を翻す。そこまでは、友人から聞いていた。
自分で遊んだのは、学院へ着く前までだ。追加された物語には手もつけていない。王国や地方領主がその後どうなったのか、リーゼは知らなかった。
覚えている場面も順不同だった。
王都からパンが消え、残ったものの値が上がる。魔族に襲われる村。教会で受け取る聖剣。王国軍から離れていく仲間たち。熱が上がるたび、そんな光景が脈絡もなく浮かんでは、また暗く沈んだ。
どこで何を拾い、どの敵へどの魔法を使ったかとなると、ほとんど残っていない。遊んでいた時は、画面に出る数字や文字を見て選んでいた。今いる部屋のどこにも、体力の残りや次の行き先は表示されていなかった。
自分と同じ名の薬師の娘が、やがて勇者になる。そして、その頃の王国はひどく苦しんでいる。
今のリーゼに分かるのは、そのくらいだった。
名前だけなら、偶然だと思えたかもしれない。だが、薬師の娘として王都から遠い町に生まれ、幼い頃から大きな魔力を持っている。店の棚には、ゲームの最初に出てきた古い銀の薬研まであった。父が高価だから触るなと言っていた品だ。欠けた縁の形まで、記憶の中の絵と同じだった。
自分は、あのリーゼなのだろうか。
考えをまとめようとすると、頭の奥がずきりと痛んだ。今の五年間と、別の場所で過ごした記憶が、熱の中で絡まり合っている。どちらも自分のものなのに、うまく一つにはならなかった。
「もう一度、薬を」
母の声がした。
「間隔が短い」
父が低い声で答える。
母は匙へ伸ばした手を止めた。
「でも、このままでは」
「量を増やせば胃がもたない。水を切らすな。朝まで待つ」
ゲームの中で、父は主人公が学院へ入ったあとに手紙を送ってきただけだった。顔の絵すらなかった。母も同じだ。
けれど、今ここにいる父は何度も脈を取り、母は汗を吸った服を替えている。二人とも目の下を黒くして、店の客へ渡すはずの薬を娘のために使っていた。
物語の背景にいる、名前も顔もない親ではない。五年間、リーゼを育ててきた父と母だった。
「……おかあ、さん」
かすかな声しか出なかったが、母はすぐに顔を寄せた。
「ここにいるわ」
手を伸ばそうとすると、腕が震えた。指先が母の指へ触れ、すぐに両手で包まれる。
その温かさを確かめたところで、リーゼの意識はまた途切れた。
◇
燃える町を見た。
石畳を人々が逃げている。画面の端では赤い任務の文字が明滅し、城門の上で王国旗が燃えていた。
勇者リーゼの手には剣がある。
その前に、森と盾の紋章を胸へ付けた役人が立っていた。
リンデナウ男爵家。
農民から種籾を取り上げ、備蓄を売り、洪水のあとにも税を求めた悪役貴族だ。本編で主人公が領地を通る頃には、当主の幼い息子はすでに死んでいる。男爵は息子を失ってから、ますます領民へ目を向けなくなった。
男爵本人と戦う場面は、なかったと思う。
プレイヤーが目にするのは、被害を受けた者たちの話だけだった。リンデナウの名は、王の悪政が地方にまで及んだ証として出てくる。
幼い跡取りの顔も、名前も知らない。物語が始まる前に死んだ子なのだから、知りようがなかった。
夢の中で役人の口が動いた。
何を言ったのかは聞こえない。代わりに、誰かの咳が耳元へ戻ってきた。
◇
窓の隙間が白んでいた。
リーゼはゆっくり目を開けた。胸はまだ痛むが、昨日より息がしやすい。額の布はぬるくなり、汗に濡れた髪が頬へ貼りついていた。
母は寝台脇の椅子で眠っている。眠ったまま、片手だけはリーゼの手を握っていた。
父は床へ毛布を敷き、壁にもたれていた。足元には空になった薬碗が二つある。
「おとうさん」
今度は言葉になった。
父が目を開ける。立ち上がろうとして、しびれた足を支えるため棚へ手をついた。
「起きたか。気分は」
「のどが痛い。頭は、昨日よりいい」
「昨日のことを覚えているか?」
「お水を、もらった」
別の世界の記憶については話さなかった。信じてもらえるとは思えないし、リーゼ自身、まだ何を思い出したのか整理できていない。
父は額へ触れ、首筋、手首の順に確かめた。
「熱が下がっている」
その声で母も目を覚ました。
娘の顔を見ると、長く息を吐いた。泣きはしない。ただ、握っていた手を包み直した。
リーゼは毛布の中で、これからのことを考えた。
もし本当にゲームと同じ道をたどるなら、学院へ入り、仲間を得て、勇者として王へ立ち向かうのは十二年後だ。今は水を一杯飲むだけで疲れる。剣は持てず、光魔法も指先に小さな明かりをともせるだけだった。
母がずれた毛布を掛け直した。
「もう眠りなさい」
「お店は?」
「今日は閉めます」
「病気の人が来たら」
「扉に札を出したわ。急ぎなら裏をたたくように、と」
その時、表の戸をたたく音がした。
一度。間を置いて、二度。
父と母が顔を見合わせる。
父はリーゼへ寝ているよう言い、部屋を出た。薄い壁の向こうで戸が開く。
女の声がした。話の中身は聞き取れない。ただ、「子ども」という言葉だけが何度も聞こえた。
父の足音が棚へ向かう。引き出しが開き、瓶同士が触れ合った。
「あと、いくつ?」
リーゼが尋ねても、母は答えなかった。
母は在庫箱のある棚へ目をやり、すぐに視線を戻した。それだけで、薬が足りていないのだと分かった。
これは、ゲームの始まりまで待てばよい話ではなかった。壁一枚の向こうで、今朝の薬を必要としている人がいる。
リーゼは母の手を握り、店先の足音を数えた。
一人、二人。五人まで数えたところで、少し遅れて別の足音が加わった。母の指に力がこもる。
表の戸はまだ閉じている。それでも咳と靴音が、薄い板を抜けて部屋まで届いていた。
母はリーゼの手をそっと放し、棚から在庫箱を引き出した。残った薬包を寄せると、木箱の底が見えた。
リーゼは、母が箱を閉じるまで、その手元から目を離せなかった。
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