第5話 愚者の札

『きらいだ』


 腹の奥の同居人が、初めてそこまではっきりと嫌悪を口にした。


「何が?」


『その札』


 コンラートは、「ここで生きるしかない」と口にした直後に現れた黒い長方形を見つめていた。


 黒い長方形は、目を閉じても消えなかった。


 寝台の上へ起き上がり、灯りへ顔を向けても、壁を見ても、黒い形は同じ場所に残った。部屋の中ではなく、視界よりも奥に貼りついているようだった。


 意識を向けると、一枚だった黒が左右へ広がり、上端を重ねた二十二枚の札になった。試しに手を伸ばしても指は空を切る。


 二十一枚には絵がない。


 一番左の札だけは表を向いていた。ただ、絵は黒い膜に覆われ、その下で旅人らしき輪郭がかすかに動いている。


 あの言葉に応じるように、膜だけが剥がれた。


 薄い色の服を着た旅人が、崖の縁へ足を出していた。肩には小さな荷を結び、足元には犬がいる。前世で見たタロットの「愚者」によく似ていた。


 札の下へ「0 愚者」と文字が浮かび、少し遅れて「鑑定」「収納」の二語が並ぶ。待っても説明は増えなかった。


「ゲームの画面か?」


 つぶやいてから、違うと気づく。


 『暁の勇者』に、タロットの札を使う仕組みはない。能力は技能名として表示されたが、現実になったこの世界では、そもそも画面らしいものを見たことがなかった。


「この札を知っているのか」


『しらない。きらいだ』


「知らないのに?」


『おまえのだ』


 それでは、なぜ嫌うのか分からない。けれど、内側の気配は札が開いた時からずっと身を固くしていた。


 コンラートは問い方を変えた。


「これは、お前の力じゃないんだな」


『ちがう』


「僕がここへ来た時からあった?」


 返事が遅れた。


『くろいのは、いた』


「札が?」


『あれだけ、おまえに、ついてた。うまれたときから』


 《愚者》だけは、生まれた時から自分へ貼りついていた。残る二十一枚も影として並んでいたが、今は何の札かさえ分からない。


 力そのものは、生まれた時からすでに結びついていた。四歳の今日、ここで生きると決めたことで、その一枚がようやく見え、使えるようになったらしい。


 生まれる前の自分を選ぶとは、ずいぶん勝手な力だった。


 コンラートは愚者の札へ意識を触れさせた。


 手近なところで、鑑定から試してみる。札へ意識を向けると、手で触れた物を調べられるらしい。それ以上の説明は、待っても出てこなかった。


 枕元に置かれた木の積み木をつかむ。頭の中に浮かんだのは「木」の一語だけだった。


「それだけか」


 乾燥具合も、作った者も、値段も出ない。別の積み木へ触れても、やはり木としか表示されなかった。


 心の中で笑う気配がある。


「まだ木にしか使ってないだろ。ほかの物なら違うかもしれない」


『木を、木だって』


「僕が木しか知らないから、それしか見えないのかもしれない」


『木だぞ』


「木なのは分かったよ」


 口論を切り上げ、収納も試してみる。積み木を握ったまま、入れ、と考えた。


 手の中から重さが消えた。驚いて指を開く。積み木はない。掛け布の上にも、床にも落ちていなかった。


 札とは別の場所に、積み木一つ分の空間がある。うまく言葉にはできないのに、そこへ入っていることだけは妙にはっきり分かった。


 戻れと念じると、開いた手のひらへ同じ積み木が現れた。


 コンラートはすぐ周囲を見た。扉は閉まっている。窓の向こうにも人影はない。


「本当に出し入れできた……誰にも見られてないよな」


『こそこそするな』


「見つかって取り上げられてもいいのか」


 内側の声は黙った。


 この力がどれほど珍しいか分からない。珍しくなくても、四歳の子どもが突然使えば騒ぎになる。父が家の名誉として客に言いふらす姿は簡単に想像できた。


「お前は何者だ」


 これまで何度尋ねても、まともな返事はなかった。今夜は札が現れてから、明らかに言葉が増えている。


『おれ』


「それは名前じゃない」


『おまえ、あとからきた』


 コンラートは言葉に詰まった。


「後から?」


『からだ。おれの、だった』


 返ってくる言葉は途切れ途切れだったが、事情はどうにか拾えた。相手はこの胎児へ入り、肉体を得るはずだった。その時、何かに押された。気づいた時にはコンラートが手足と口を使っており、相手は内側に取り残されていた。


 相手は今も身体の中にいるが、手足を動かすことも、口を使うこともできない。


「僕が奪ったのか」


 返事はすぐに来ず、迷いだけが先に伝わってきた。


『おまえも、おされた』


「誰に」


『しらない』


「どこから」


『ない』


「覚えていない?」


『きれてる』


 記憶が途中で切れているらしい。コンラートにも、ここへ来るまでの記憶はない。前世でどう死んだのかも、誰が転生させたのかも分からない。


「お前は人間なのか」


『ちがう』


「何だ」


 今度の返事には、妙な自信があった。


『あくま』


 コンラートは黙った。


『こわいか』


 声には、期待のような響きがあった。


「悪魔にしては、暖炉と虫を怖がりすぎじゃないか」


『こわくない!』


 頭の内側で怒鳴られ、コンラートは思わず耳を押さえた。耳から聞こえる声ではないので意味はない。


「もう少し小さな声で話せるのか」


『うるさい』


 声量は下がった。


 コンラートは笑いをこらえながら尋ねる。


「本当に悪魔か?」


『わかりやすく、いった』


「では、正しくは?」


 長い沈黙があった。


『あまのじゃく』


 その言葉は日本語で聞こえた気がした。この世界の言葉として覚えた音ではない。意味が直接重なっただけかもしれない。


 天邪鬼。前世では、人の言うことへわざと逆らう小鬼のようなものだった。詳しい由来までは知らない。


「名前は?」


『……クロム』


「それは覚えているんだな」


『いま、おもいだした』


 本当かどうかは分からない。だが、嘘だと決める材料もなかった。


「じゃあ、クロムだな」


 名を呼ぶと、内側の気配がわずかに揺れた。嫌がったのではない。初めて自分へ向けられた音を確かめるような反応だった。


    ◇


 話し始めてみれば、聞きたいことは多すぎた。コンラートは寝台の上へ積み木を三つ並べ、自分とクロム、それから二人が入っている体の代わりにした。


「この体を動かしているのは僕だ」


『とった』


「先に来たのはお前でも、僕が選んで取ったわけじゃない」


『だから、なんだ』


「返す方法は知らない。半分ずつ動かす方法もない」


『おまえが、ねてても、うごかない』


 少なくとも、眠った隙に体を奪われる心配はなさそうだった。


「僕が死んだら?」


 問いかけた瞬間、クロムの恐れが強く返った。


『おれも、きえる』


「確かなのか」


『わからない。たぶん。いやだ』


 初めて、飾らない言葉が出た。


 二つの積み木を隣り合わせに置き、体に見立てた三つ目へ寄せる。どちらも、そこから離れては生きられない。


「僕は、この家が滅びる未来を知っている」


 クロムは黙って聞いている。


「前の世界で、この家が滅びる話を見た。どこまで同じかは分からない。父上が領地を壊して、跡取りが先に死ぬ」


『おまえが、しぬ』


「おそらく」


『にげろ』


「四歳でどうやって」


 返事はない。


「だから、死ぬ未来を変えたい。お前も死にたくないなら、知ったことを隠さないでくれ」


『めいれい?』


「命令はしない。嫌なら断っていい。でも、僕は一人でもやる」


 クロムは長く黙った。やがて、腹の奥から渋い声が上がる。


『おまえが死ぬと、こまる』


「僕もだ。それに、僕が知ったことも隠さない」


『たすけるんじゃない』


「それでも助かる」


『あいぼうでも、ない』


「分かった。今はそういうことにしておく」


 コンラートは三つ目の積み木へ触れ、鑑定を使った。浮かんだのは、やはり「木」の一語だけだった。


『つぎ』


「何だ?」


『ほかのも、さわれ。ちがうかも』


 相棒になった覚えはないと言ったばかりのクロムが、誰より先に次の実験を急かしていた。

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