第2話 名前のない同居人
床を這って暖炉へ近づいたコンラートは、赤くなった薪へ手を伸ばした。柵はない。あと少しで触れるところまで来た時、腹の奥から強い拒絶が突き上げた。
熱さと危険をひとかたまりにして、押し返してくるような不快感だった。驚いて手を引く。その直後、薪が崩れて小さな火の粉が跳んだ。
「コンラート様!」
乳母が後ろからさらうように抱き上げ、暖炉から引き離した。
「火は熱いのです。お手を出してはいけません」
周囲の言葉が分かるまで、一年あまりかかった。目覚めた夜に聞いたコンラートという音は、やはり自分の名だった。淡い青の服を着ていた女性は母のエルスベートで、男性は父のオットーだという。
乳母は絵札や部屋の道具を使い、毎日同じ言葉を聞かせてくれた。窓や扉、椅子の名前を覚えると、食事や朝と夜にも、少しずつ音が結びついていった。
ここはオットーとエルスベートが暮らす大きな屋敷で、自分は「跡取り」と呼ばれている。そこまでは分かったが、家名や土地の名はまだ聞き取れない。聞きたいことほど、幼い舌ではうまく言えなかった。
「ひ、は……あぶ、ない」
コンラートが暖炉を指さすと、乳母は目を丸くした。
「そうです。よく分かりましたね」
声は明るかったが、乳母はすぐに扉の方を見た。そこにはエルスベートが立っていた。
「今の言葉を聞いたのは?」
「私だけです、奥様」
「そう。では、今はこの部屋の中だけに」
エルスベートはそれ以上言わず、コンラートの前へ膝をついた。
「火へ近づいてはいけません。分かっていても、今のあなたの身体で痛い思いをします」
エルスベートは優しく髪を撫でた。叱られたようには聞こえない。けれど、息子がどれだけ話せるのかを、屋敷の外へ知らせるつもりもないらしい。
コンラートは、これから覚える速さに気をつけることにした。
◇
乳母の腿の上に、四角い積み木が並んでいた。
「今日は塔を作りましょう」
「とう」
「はい。高く積んでみましょうか」
コンラートが一つ目を置き、二つ目を重ねようとする。すると、腹の奥から右へ寄せろと急かす感覚が来た。
「そっち?」
積み木を右へ動かすと、焦れた感覚が弱くなる。二段目までは積めたが、三段目を置くと塔は崩れた。すぐに腹の奥から不満が返ってくる。
「ぼくのせいじゃ、ない」
今度は押し返すようないら立ちが来た。乳母には積み木と話しているように見えたらしく、小さく笑って木を並べ直した。
腹の奥にいる何かは、暖炉の熱さや高い寝台の危なさは感じ取れる。けれど、積み木の置き方までコンラートより知っているわけではない。塔が崩れてから、不満をぶつけてくるだけだった。
その日の食事は、いつもより遅かった。廊下から食器の音はするのに、扉が開かない。喉から泣き声が出かけた時、腹の奥のいら立ちもまた強くなった。
待て。
いら立ちは消えなかった。それでも、一度漏れた泣き声は、そのまま大きくはならなかった。
乳母が食事を持ってくると、腹の奥がすぐに急かしはじめた。その日から、食事を待つたびに「待て」と胸の内で押し返した。眠る前は「夜」、エルスベートが来れば「母上」と、目の前のものに短い意味をつけて聞かせた。
「夜」には眠気が返り、「母上」にはほっとしたように力が抜けた。食事を待つ時だけは、いつまで経っても焦りっぽい。どの反応も、コンラートの気分とは別に動いていた。
◇
二歳の春、コンラートは乳母に両手を支えられ、初めて庭の石畳を歩いた。
花壇の縁で、黒い殻の虫が光っている。しゃがんで見ようとすると、腹の奥の気配は後ろへ逃げたがった。
「むし」
指を差し、胸の中でも同じ言葉を繰り返す。
虫が羽を開き、急に顔の横を飛んだ。二人分の驚きが身体をのけぞらせ、足がもつれる。乳母が腕を引いてくれなければ、花壇へ頭から落ちていた。
腹の奥から、強い怒りが返ってきた。
「ぼくも、おどろいた」
自分で転んだわけではない。虫が悪い。そんな言い分だけが、言葉より先に伝わってきた。
「そうだね。むしが、わるい」
コンラートが笑うと、腹の奥の怒りがわずかに弱くなった。乳母は何のことか分からないまま、服と膝についた土を払ってくれた。
◇
三歳になる頃、腹の奥の気配は、時々かすれた音を返すようになった。
耳から聞こえる声ではない。胸の奥でうなり声のような振動が生まれ、形の崩れた音のまま頭へ上がってくる。コンラートが日々聞かせた言葉を、向こうも覚えようとしているらしい。
一人で眠るようになった夜、コンラートは何度目かの問いを口にした。
「お前の名前は?」
長い間があった。やがて、胸の奥でかすかな音がふるえた。
『……お、ぇ』
意味は取れない。名前なのか、単に声を出そうとしたのかも分からなかった。
「まだ、言えないんだな」
気遣うつもりで言ったが、不満そうな感覚がすぐに返ってきた。
ここまではっきり反応するなら、ただの体調ではない。自分とは別の、名前さえまだ持たない何かが、同じ身体の中にいる。
怖かった。意識を奪われたり、身体を乗っ取られたりするかもしれない。その恐れが伝わったのか、腹の奥の気配まで小さく縮こまった。逃げ場もないのに、コンラートから少しでも離れようとする。
どうやら、怖いのはお互いさまだった。
「今すぐ、追い出すつもりはない」
縮こまった気配は戻ってこない。
「追い出し方も、知らないし」
今度は鋭い不満が返った。安心させるのに失敗したらしい。
「嘘を言っても、しかたないだろ」
不満は消えなかったが、気配は少しだけ元の位置へ近づいた。
◇
四歳を迎える少し前、父と母はエルスベートの部屋で何冊かの本を見ていた。
オットーは子ども向けの魔法書を一冊開き、すぐに閉じた。
「支度は任せる。当日は私も立ち会おう」
「承知しました」
オットーはそれだけ言うと、先に部屋を出ていった。
エルスベートは残りの本をコンラートの前へ並べ、来月、魔力検査を受けると告げた。
「怖いものではありません。石へ手を置き、先生の言うとおりになさい」
「魔法が、なくても?」
「あなたがあなたであることは、変わりません」
言い終えた後も、エルスベートはコンラートの顔をじっと見ていた。息子へ告げたというより、自分に言い聞かせたように聞こえた。
コンラートは一冊を手に取った。革張りの表紙には、色の違う線を重ねた輪が描かれている。その下には、まだ読めない古い文字が並んでいた。
指先で表紙の紋様をなぞった瞬間、腹の奥の気配が強く身構えた。
虫や火に近づいた時は、すぐに逃げたがった。今はそれと違う。痛みを恐れるより、これから来る何かを知って身を硬くしているようだった。
魔力検査を受けるのはコンラートなのに、名前のない同居人のほうが先に身構えていた。
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