第3話 四歳の検査
礼拝室へ入ったところで、コンラートは足を止めた。
正面の壁に、大きな旗が掛かっている。何本もの木を背に、一枚の盾を置いた紋章だ。布はところどころ色あせ、ほつれた縁は銀糸で繕われていた。
初めて見るはずなのに、見覚えがある。
どこで見たのか思い出そうとすると、前世で会社から帰り、暗い部屋で画面を眺めていた夜の記憶が浮かんだ。だが、肝心の紋章が何を表していたのかは出てこない。
「怖くなりましたか」
隣にいたエルスベートが、コンラートの顔を覗き込んだ。
「ちがいます。あの旗を見ていました」
「森を守る盾です。リンデナウ家の紋章ですよ」
エルスベートは旗を見上げ、それから息子へ視線を戻した。
「いずれ、あなたも背負うことになります」
リンデナウという家名も、どこかで読んだ覚えがあった。思い出そうとするたびに、記憶の中でひとつ手前に隠れてしまう。
「コンラート、こちらへ」
オットーが祭壇の前から呼んだ。灰色の上着には銀糸の飾りが付き、普段より胸を張っている。コンラートが近づくと、満足そうに肩へ手を置いた。
「心配はいらん。リンデナウの跡取りなのだからな」
跡取りだと何が違うのか、コンラートには分からない。ただ、オットーは良い結果が出ることを、もう疑っていなかった。
祭壇の脇には、銀色の石が置かれていた。その前に立つ細身の男が、コンラートへ一礼する。四十歳ほどの魔法教師で、名はハインツだと聞いていた。
「お待ちしておりました、若様。まずはお手を拝見します」
ハインツはコンラートの手首を取り、指先の色を確かめた。次に胸の上下を見てから、石の前に置いた踏み台をわずかに引く。
「苦しくなったり、手がしびれたりしたら、すぐにおっしゃってください」
「手を置くだけですか」
「置いてから、ほんの少しだけ魔力を流していただきます。痛みはありません。ただし、一度に出してはいけません」
コンラートは母に教わったとおり、右手を胸に当てて一礼した。
腹の奥から、面倒そうな気配が返ってくる。
静かにしていろ。
『しゃべって、ない』
内側の声は、この半年でようやく言葉らしくなった。相変わらず名は答えない。問い詰めると腹を立てるので、本人にも分からないのだろう。
コンラートは踏み台へ上がり、検査石に手を置いた。曇った石の内側で、色の違う細い筋が絡み合っている。
「ゆっくり息を吐いて。胸にある熱を、手のひらへ流してください」
目を閉じると、胸の内側にぬるい熱があった。意識を向けただけで、熱は腕へ流れようとする。
勢いのまま石へ注ぐのはまずい。水差しを少しだけ傾けるように、細い流れを作った。
手のひらの下で、石が淡く光る。
「今の量のまま」
ハインツの声に従い、流れを変えずに保つ。指先から熱が抜けるたび、胸の奥から新しい熱が送られてきた。
石の中で、黄褐色と青の筋が明るくなる。少し遅れて、色のなかった筋も白い光を帯びた。
十を数えたところで、手首の内側がじんじんと熱くなった。
「止めます。手を離して」
コンラートが魔力を引くと、石の光はゆっくり消えた。ハインツは石より先に、もう一度コンラートの手首と指先を確かめる。
「熱やしびれはありますか」
「少し熱いです。しびれてはいません」
「分かりました」
ハインツはすぐに結果を告げず、コンラートの呼吸が乱れていないことまで確かめた。
「何か、問題がありましたか」
エルスベートの問いに、ハインツは首を横に振る。
「問題はありません。むしろ、もう少し見ていたいほどです」
ハインツは検査石へ顔を寄せかけ、エルスベートの視線に気づいて背を戻した。
「失礼。四歳で流す量をこれほど一定に保てるのは珍しいことです。たいていは途中で増えすぎるか、途切れます」
エルスベートの張り詰めていた表情が、わずかに緩んだ。
オットーは待っていたように笑う。
「さすが私の息子だ。リンデナウの跡取りなら、この程度はできて当然だろう」
ハインツは返事の代わりに小さく頭を下げ、検査石の横へ三枚の札を並べた。黄褐色、青、白の札だった。
「土と水への反応が強く出ています。無属性にも乱れはありません。初めは土と水を中心に学ぶのがよいでしょう」
「攻撃に使える魔法はどうだ」
オットーが身を乗り出す。
「いずれはできます。ただし、五歳になるまでは勧めません。今は土を少し動かす、水をこぼさず運ぶ。その程度で十分です」
「地味だな」
「派手な術は私も好きです。止められるなら、ですが。基礎練習で魔力の量を覚えなければ、壁ごと見物人へ飛びます」
ハインツは声を荒らげず、オットーではなく検査石を見たまま答えた。
「教育は任せてある。結果が出たら知らせてくれ」
オットーはそれ以上尋ねなかった。
『じみ』
腹の奥の声が、父の言葉をまねた。
お前まで言うな。
『お前も思った』
図星だった。魔法と聞けば、火や雷が飛び交う光景を期待してしまう。前世のゲームに引きずられているだけで、実際に使うなら安全なほうがいい。
ハインツは検査石を片づけ、代わりに乾いた土の入った浅い皿を置いた。
「次は土を動かします。三度までです。疲れたら、その前でも止めます」
皿の中央を指で示す。
「真ん中にある土だけを、少し寄せてみてください。できなくても問題はありません」
コンラートは皿へ手をかざした。先ほどは魔力を流すだけでよかったが、今度は触れる場所を自分で選ばなくてはならない。
中央にある一粒へ意識を絞る。指先でそっと撫でるように魔力を送ると、土がかすかに震えた。
一粒が転がり、隣の二粒もついてくる。
「動いた……!」
思わず声が弾んだ。画面の映像や仕掛けではなく、目の前の土が自分の流した魔力で動いた。たった三粒でも、前世で三十二年生きた世界では、一度もできなかったことだ。
もう一度試したくて、指先がむずむずした。
『三つだけ』
「三つも、だよ」
「その気持ちは分かりますが、次も今と同じ量で」
ハインツにたしなめられ、コンラートは口を閉じた。
二度目は五粒が動いた。三度目は力むつもりがなかったのに、端にあった土までまとめて寄ってしまう。
「あ……そこは動かしたくなかったのに」
ハインツは皿とコンラートの指先を見比べた。
「どこまで動いたか分かっているなら、次は直せます。今日はここまでです」
「最後が一番大きく動いたではないか」
「広く動かす検査ではありません。狙った場所だけを動かせるか見ています」
オットーは納得した様子ではなかったが、もう一度やらせろとは言わなかった。
エルスベートがコンラートの前へしゃがみ、両手を取った。
「まだ熱いですか」
「少しだけ。でも、もう一回できます」
「できるかどうかではありません。今日はもう休みましょう」
柔らかな声だったが、試す余地のない言い方だった。
コンラートは皿の土を名残惜しく見た後、うなずいた。
◇
検査結果を領内の礼拝堂へ届けた帰り、コンラートはエルスベートと同じ馬車に乗っていた。
向かいには、老書記のゲオルクが座っている。揺れる膝の上で書類箱を押さえ、窓の外へ時折目をやっていた。
屋敷の塀を出てから、コンラートはずっと町を眺めていた。石壁の向こうに低い家々が並び、見たことのない服を着た人々が行き交っている。
魔法のある世界へ来たことは、転生した時から覚悟していた。けれど、リンデナウという家名と森と盾の紋章には、それとは別の不安があった。前世の記憶を探るたび、胸の奥がざわつく。
馬車が大きな川に架かる橋へ差しかかった。
流れは広く、窓から身を乗り出しても向こう岸まで見渡せない。腹の奥の気配まで静まり、水面を見つめているのが分かった。
橋の親柱が窓のすぐそばを通り過ぎる。
親柱の石に、森を背にした一枚の盾が刻まれていた。礼拝室の旗と同じ紋章だ。それを見た瞬間、前世で見たものと同じだと確信した。どこで見たかだけが、まだ出てこない。
コンラートは窓枠を握った。リンデナウという名と、この橋の紋章が、あと少しでつながりそうだった。
「ゲオルク」
「はい、若様」
コンラートは橋の下を流れる水から目を離さず、尋ねた。
「あの川は、何というのですか」
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