幼少期編
第1話 二人分の泣き声
目を開けると、顔のすぐ上に木目があった。
淡い色の板を、黒い筋が走っている。輪郭はぼやけ、息が詰まるほど近くに見えた。
いつ寝たんだ。
離れようとしたが、首にも肩にも力が入らない。右手を動かしたはずなのに、視界の端で見覚えのない小さな指が開いた。
何だ、これは。
「ぁ、あ……」
言葉にはほど遠い声しか出なかった。思わず息を止めると、すぐに胸が苦しくなる。次の瞬間、今度は甲高い泣き声が口からあふれた。
自分の声なのに、止め方が分からない。喉がひりつき、呼吸まで苦しくなってきた頃、慌ただしい足音が近づいてきた。
白い布が視界をよぎり、見知らぬ女が真上から覗き込む。女は聞き取れない言葉で何か問いかけながら、両手を伸ばしてきた。
英語ではない。前の職場で耳にした、どの外国語とも違った。
女は頭と背を支えて、そっと抱き上げた。視界が大きく傾き、首が後ろへ落ちかける。すぐに腕の中へ戻されたが、その感覚で認めたくない答えが分かってしまった。
赤ん坊だ。
この小さな手も、自分では支えられない首も、そう考えれば説明がついてしまう。
考えを整える間もなく、腹が引きつるほどの空腹に襲われた。口の中がむずむずし、身体だけが女の胸元を求めてもがく。
女が胸元の布を開いた。何をされるのか悟って気が重くなったものの、恥ずかしがっている余裕はない。
乳を含まされると、考えるより先に飲み始めていた。温かい乳が流れ込み、空だった腹をゆっくり満たしていく。
最後にはっきり覚えているのは、会社からの帰りに駅の階段を上っていたことだ。翌日は久しぶりの休みで、遊び終えたゲームの追加コンテンツにあった設定資料や特典を読み返すつもりだった。
その先の記憶だけが、きれいに抜けている。事故の音も、病院へ運ばれた覚えもない。自分が死んだと確かめた記憶もなかった。
それでも、ここが元の生活の続きとは思えない。死んで、別の赤ん坊に生まれ変わったのかもしれなかった。
気づけば、腹はすっかり満たされていた。これ以上はもう飲めないと思った途端、口の動きが止まった。
同時に、腹の底から焦りに似た不快感がこみ上げてきた。まだ足りない。もっと飲めと、自分の気持ちとは無関係に急かしてくる。
赤ん坊の身体が、満腹をうまく感じ取れていないだけだろうか。試しにもう一度飲もうとしたが、ひと口も続かなかった。腹は十分なのに、焦りだけが消えない。
女は胸元へ布をかけ、身体を縦に抱き直した。背を軽く叩かれるたびに全身が揺れる。やがて小さなげっぷが出ると、その不快感は一気に薄れた。
ほっとする間もなく、扉が開いた。男の声が聞こえ、女が短く返事をする。どちらの言葉も分からない。
男はそばまで来ると、大きな指を差し出した。反射的に握り込む。たったそれだけで、男の声が明るく弾んだ。
男が去ると、女はまた腕の中へ視線を戻した。目の下には薄いくまがあり、結った髪も耳の辺りからほつれている。何度もこちらの顔を覗き込んでは、呼吸を確かめていた。
この人が、母親なのか。
女の腕に包まれていると、まぶたがゆっくり重くなってきた。眠ってしまう前に、この場所のことを少しでも覚えておきたい。
言葉が分からないなら、まずは音を拾うしかない。女と男の声を聞き分け、扉の開く音や、遠くから響く金属音に耳を澄ませた。人の顔や足音、授乳から次に腹が空くまでの間隔も、いずれ手がかりになるだろう。
そうしているうちに、眠気は強くなった。徹夜明けに似ているが、今は抗う力がどこにもない。考えが形になる前から、次々にほどけていく。
まだ眠りたくない。少しでも見て、少しでも覚えておきたい。
それに逆らうように、腹の奥からも早く眠れという鈍い圧が重なってきた。自分の眠気だけではない。そう思えるほど、まぶたが重かった。
最後に一つだけでも覚えておこうと、女の服へ目を凝らす。布は淡い青で、襟には銀糸の細かな刺しゅうが入っていた。
銀の糸を目で追ううちに、意識はあっけなく途切れた。
◇
次に目を開けた時、部屋は薄暗くなっていた。
同じ木目の天井があり、壁際で小さな灯りが揺れている。かすかな油の匂いもした。
今度は泣かずに右手を動かしてみる。布の上で腕がわずかに上がった。足にも力を入れると膝が曲がり、掛け布が少しだけずれる。
全く動けないわけではない。ただ、前の身体で知っていた力の入れ方と、この身体にできる動きが、まるで噛み合わなかった。
首を横へ向けようとして、途中で力尽きた。それでも、寝床を囲う木の柵と、その向こうにある椅子が見えた。昼間の女が、椅子に座ったまま眠っている。
その顔を見たとたん、喉の渇きに気づいた。
泣けば女は起きるだろう。赤ん坊が泣くのは当然なのに、疲れた人を自分の都合で起こすのはためらわれた。
すると、腹の奥から鋭いいら立ちが突き上がってきた。
早くしろ、と急かされているようだった。
待て。
胸の内で押し返すと、いら立ちがふつりと途切れた。
驚いて呼吸まで止めてしまう。胸が詰まり、その苦しさに身体が反応して、予想よりずっと大きな泣き声が出た。
女がすぐに目を開け、椅子から立ち上がった。寝床へ駆け寄るなり額に手を当て、ずれた掛け布を直す。そのまま扉の外へ声をかけた。
ほどなく、年配の女が水差しを持ってやってきた。二人は赤ん坊の顔を見ながら、短く言葉を交わす。同じ音が二度聞こえた。こちらを指して言っている。
名前かもしれない。
聞き取ろうとしたが、濡らした布が唇に触れると、それどころではなくなった。布から落ちる水を一滴ずつ飲み込む。水が喉を通るたびに渇きが薄れ、腹の奥からも満足したような感覚が返ってきた。
今なら、また応じるかもしれない。
お前は誰だ。
腹の奥へ問いかけたが、今度は何も返ってこなかった。
さっきのことも偶然かもしれない。まだ育ちきっていない脳が、自分の欲求を他人のもののように感じさせている。それなら説明はつく。
だが、それにしては感覚のずれがはっきりしすぎていた。
年配の女が水差しを持って出ていく。残った女は椅子へ戻らず、赤ん坊を抱いたまま窓辺へ歩いた。
窓の外には白い月が浮かんでいる。手がかりが欲しかったのに、月は見慣れた丸い形をしていた。二つも三つも並んでいるわけでもない。
女が静かに語りかけてくる。何度か聞いた音が、今度ははっきりと耳に届いた。
「コンラート」
これが、この身体の名前なのだろう。
コンラート。忘れないよう胸の内で繰り返す。すると、腹の奥にいる何かが、気に入らない物を押しつけられたようにざわめいた。
自分なら、新しく与えられた名前にここまで反発する理由はない。そのざわめきだけは、やはり自分のものではなかった。
何がいるのか。なぜ赤ん坊になったのか。聞きたいことは山ほどあるのに、周囲の言葉が通じなければ、自分の口さえまともに動かせない。
眠る前に、扉が開いてから窓辺へ来るまでを、頭の中でもう一度たどった。男の太い指を握ったことも、水を飲ませてもらったことも覚えている。けれど一番引っかかったのは、コンラートという音に腹の奥が反発したことだった。
月が雲に隠れ、部屋が暗くなった。女が背をゆっくり撫でてくれる。自分の眠気に、腹の奥から伝わるもう一つの眠気が重なった。
意識が沈む寸前、内側で小さく舌打ちされたような気がした。
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