血漿とインスリン
来田千斗
Ⅰ型糖尿病
※本作品は、生理学に着想を得たフィクションです。科学的に不正確な描写を含む場合があります。ご承知おきください。
膵臓・ランゲルハンス島B細胞の出口。制限速度すれすれで血管を飛ばす、一台のタクシーがあった。
「そろそろ、窓を開けてくださいな」
後部座席に座る、活力あふれた老婦人が、こじゃれた黒眼鏡を外して言った。きりりとした、明徴な声音だ。
「さあて。今日もぼちぼち、同化の時間といきましょう」
座席に積み上がったブリーフケースを開いて、紙束を取り出す。タクシーの興す風に乗って、窓から投げ出された無数のB5紙は、血管の天井すれすれにまで舞い上がった。ばらばらばら。刹那、視界が真白に覆い隠される。
次の瞬間、血管の外壁は一挙にその口を開いた。壁面の細胞が各々、彼女の投げたグルコース分解指令書を吸収したのだ。橙色の常夜燈が照らすだけだった血管壁を、青の閃光が埋め尽くす。ごとん、ごとんという重低音とともに、細胞が働きはじめた。
「このまま肝臓までまっすぐ、いつも通りにお願いね」
老婦人は、名をインスリンといった。彼女の言に頷いて、老運転手はタクシーのハンドルを強く握りしめる。「
血漿はふだん、脳下垂体前葉の車寄せで客を待っている。無骨な鉄筋コンクリート造りから駆け出してくる青年が、ふたり。
「僕は甲状腺、彼は副腎のええっと、皮質のほうにお願いします」
「承知しました。代謝向上のためにね、制限速度も緩んでいますから、すぐに着きますよ」
アクセルを踏みしめ、血管に乗る。後部座席に座る青年たちの姿を、フロントミラーから覗き見た。いかにも堅実にスーツを着込んだ、目立たない雰囲気の二人組だ。胸元のバッジがなければ、容易に見わけも着きそうにない。放出ホルモンも手抜きが多いな、と思って、血漿はまた首を横に振った。彼らは血漿のタクシーにも碌に乗らないからあまり見ないが、放出ホルモンたちの相同具合は見ていて気持ちが悪くなるほどだ。それと比べれば、後部座席の甲状腺刺激ホルモンと副腎皮質刺激ホルモンなど、赤の他人のようなものだった。
「しかし、今日は一段と冷え込みますね」
血漿の言葉に、刺激ホルモンたちからの返事はなかった。彼らは後部座席で、仕事の手順を確かめ合っているようだった。
ときおり、後部座席で低い声が聞かれるほかは静まり返った車内。タクシーは、平常よりいくぶんか道幅の狭まった、青色の常夜燈に照らされる血管をまっすぐに走っていた。
その時だった。みしみし、という低い音がしたかと思うと、唐突に、目の前の血管壁が崩れ落ちた。ちかごろ不安定だった血管にとって、この寒さは最後のひと押しとなったのだろう。土煙を立てて、細胞のコンクリート片が血管を塞いだ。
刺激ホルモンたちが、顔面を蒼白にする。このままでは、標的器官へ辿り着けない。ともすれば、この身体は、寒さに凍え死んでしまうとも知れないのだ。
「どうしましょう、修復にはまだしばらくかかるし……」
「落ち着いて。来た道を少しもどれば、迂回路があります。少し時間は食いますが、標的器官まではすぐです」
血管の逆走は厳禁だが、非常時では仕方がない。幸い、毛細血管への分岐点は、弁よりも手前だ。
そう自分に言い聞かせて、血漿はアクセルを名一杯踏み込んだ。血流への逆走に、車体が軋む音がする。秒速三十センチメートルの爆風。普段なら、背中を押してくれるそれが、今日ばかりは鬱陶しく眼前に吹き付けていた。
血管を、やっとのことで分岐点まで戻り、無理矢理に毛細血管へ乗り入れる。血流に乗ったタクシーは、いつになく道幅の狭まった毛細血管を、全速力で飛ばした。
「ああ、暖かい」
刺激ホルモンたちを甲状腺と副腎皮質まで送り届け、彼らの指令で入れ違いにタクシーへ乗ったチロキシン、糖質コルチコイド、それに副腎髄質で乗り込んできたアドレナリンを肝臓まで送り届けて、血漿は一息をついた。肝臓で買った缶コーヒーを啜りながら、心地よく暖かな静脈流に乗る。いちど心臓に戻って洗車でもしようかと思ったところで、血糖がいつのまにか空気に満ちているのを感じた。この身体が、栄養補給でもしたのだろう。
そろそろ、インスリンに呼び出される頃合いだろう。血漿は、心臓でも休みを取らずに、車を加速させた。
ランゲルハンス島B細胞の車寄せは、とても長時間を過ごせるような場所ではない。タクシーの車体がはみ出して、ほかの車にクラクションをどやされるし、なにより地面が半端に傾いている。インスリンは、仕事が遅いような性格でもないし、ほかのタクシーに乗っていった様子もない。数時間を待った末、さすがに不審を覚えた血漿は、おそるおそるB細胞のインターホンを押した。この類の催促は本当なら、間脳の視床下部が、副交感神経を介してするはずなのだが。
「インスリンさん、まだご準備が整わないようでしょうか」
インスリンの返事はない。ほかの運転手の車で出かけてしまったのではないか、そんな疑いが一瞬、血漿の脳裏をかすめる。いいや、これまで何十年も、毎日きっかり三度、血漿はインスリンを後部座席に乗せてきた。今になって、その習慣が破られることなど、あるはずがないのだ。
インスリンは失踪した。言い方を変えれば、ランゲルハンス島B細胞は、インスリンの分泌を停止した。この身体には、対処のしようがないことだ。血管は、気も狂いそうな、高血糖の粘り気に満たされていた。
血漿は一日の大半を、B細胞の薄暗い小部屋で過ごした。消え去ったインスリンが、戻り来るその日が、決して来ないことを知りながら。
春も近づいて、血管が少しづつ広がってきたある日のことだった。
血漿がB細胞の扉を開くと、部屋の真ん中に、ブリーフケースが積み上がっていた。
インスリンが手ずから用意したあのころのものよりは、いくらか無機質で工業的なブリーフケースたち。それが、B 細胞の真ん中にうずたかく積み上がっていた。
震える手でそっと、ケースの蝶番を外す。
「グルコース分解指令書」
B5紙の手触りから、指令書の一言一句、印刷のかすれ具合に至るまで。
「ああ、まったく同じだ」
血漿の口から、唸り声が漏れた。
膵臓・ランゲルハンス島B細胞の出口。制限速度すれすれで血管を飛ばす、一台のタクシーがあった。
「そろそろ、窓を開けよう」
精一杯の明るさで叫んで、血漿は手元を操作した。どうせ車通りもない血管、追突するような相手もない。
「さあて。今日もぼちぼち、同化の時間といこう」
助手席に積み上げたブリーフケースを開いて、紙束を取り出す。タクシーの興す風に乗って、窓から投げ出された無数のB5紙は、血管の天井すれすれにまで舞い上がった。ばらばらばら。刹那、視界が真白に覆い隠される。
次の瞬間、血管の外壁は一挙にその口を開いた。壁面の細胞が各々、彼の投げたグルコース分解指令書を吸収したのだ。橙色の常夜燈が照らすだけだった血管壁を、青の閃光が埋め尽くす。ごとん、ごとんという重低音とともに、細胞が働きはじめた。
「このまま肝臓までまっすぐ、いつも通りに」
老運転手は、タクシーのハンドルを強く握りしめる。「
——終
血漿とインスリン 来田千斗 @sento_raida
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