第2話 言葉にならない十年

ビビットの傷が癒えるまで、ひと月かかった。


その間、マークは片時もそばを離れなかった。


「痛くない? まだ動かない方がいいよ」


そう声をかけても、ビビットは「ビビ」としか答えない。それでもマークには、なんとなく通じている気がした。


「元気になったら、ちゃんと一緒に帰る方法探そうな」


ビビットが小さく尻尾を振った。


その日から、マークにとってビビットは「化け物」ではなくなっていた。


***


――しかし、現実は甘くなかった。


異世界での生活は、五歳の子供には過酷すぎた。


食べ物の取り方も知らない。危険な生き物の見分け方も知らない。夜、獣の遠吠えが聞こえるたびに、マークはビビットにしがみついて震えた。


「ママに会いたい……おうち帰りたいよ……」


夜になるたび、同じ言葉を繰り返した。


ビビットはそのたびに、黙って隣に寄り添った。何も答えられない。ただ、体を光らせて、暗闇の中の小さな灯りになった。


***


一年が経った頃。


マークは、ビビットの真似をして木の実の見分け方を覚えた。


赤い実は甘い。黄色い実は苦い。青い実は――お腹を壊す。それを覚えるまでに、マークは三度お腹を壊した。


「うっ……気持ち悪い……」


「ビビビ!」(だから言っただろ!)


ビビットが必死に鳴いて、マークの背中をさすった。言葉は通じなくても、その必死さだけは伝わった。


***


二年目。


マークは、初めて自分の手で魚を捕まえた。


冷たい川に飛び込んで、何度も何度も逃げられて、それでも諦めずに追いかけて。


「捕まえたぁぁぁ!!」


泥だらけの顔で、魚を高く掲げる。


ビビットが飛び跳ねて喜んだ。


「ビビーッ! ビビビーッ!」


その夜、二人で焼いた魚を食べた。塩気のない、ただ焼いただけの魚。


なのに、マークはその味を一生忘れなかった。


***


三年目。


森の中で、二人はモンスターに襲われた。


マークは咄嗟に木の棒を振り回し、ビビットは電撃を放った。息の合わない、めちゃくちゃな連携だった。それでも、なんとか追い払うことができた。


肩で息をしながら、マークが笑った。


「……やった、な」


ビビットも、疲れ切った顔で――それでも嬉しそうに鳴いた。


「ビビ!」


この日を境に、二人は少しずつ「戦い方」を覚えていった。


***


五年目。


マークは十歳になっていた。


もう、木の実で腹を壊すこともない。獣の気配にも動じなくなった。


けれど、夜になると、まだ時々思い出す。


公園の芝生。友達の声。ママの顔。


「……ビビット」


「ビビ?」


「俺、ちゃんと帰れるかな」


ビビットは答えられない。ただ、マークの隣にそっと寄り添った。


その沈黙が、何よりの答えだった。


――帰る方法は、まだ見つかっていない。


***


七年目。


マークの背は、ビビットの背丈をとうに超えていた。


薪を割る。獲物を追う。崖を登る。どれも、五歳のあの日には想像もできなかったことだった。


ある日、マークが大きな岩を素手で叩き割った。


ビビットが目を丸くする。


「ビビビ!?」(お前、人間だよな!?)


「何だよ、その顔」


マークは笑いながら、拳についた土を払った。


自分でも、いつからこんな怪力になったのか分からない。ただ、毎日ビビットと一緒に鍛え続けた結果だった。


***


九年目。


マークは十四歳になっていた。


もう、泣き虫だった頃の面影はほとんどない。


けれど、変わらないものもあった。


夜、焚き火のそばで、ビビットと並んで座る時間。


「なあ、ビビット」


「ビビ」


「もし、元の世界に帰れる方法が見つかったら――」


言いかけて、マークは口をつぐんだ。


その先を、まだ言葉にできなかった。


ビビットも、何も聞き返さなかった。ただ、いつものように、マークの隣にいた。


***


そして、十年目。


十五歳になったマークは、もうあの日の泣き虫な少年ではなかった。


がっしりとした体つき。まっすぐな目。そして――


「ビビット、行こうぜ」


「ビビ!」


隣を歩くのは、あの日、命を懸けて自分を守ってくれたモンスター。


血の繋がりはない。言葉だって、完全には通じない。


それでも、十年間という時間が、二人を本当の家族にしていた。


***


その日、マークとビビットは、いつものように帰還の手がかりを探して森を歩いていた。


不意に、前方の空間が――歪んだ。


「……なんだ、あれ」


光の裂け目から現れたのは、白装束に身を包んだ、見知らぬ男だった。

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