後編
その翌々日、ナオはいつもより早く旧市街側の乗り場へ着いた。
エレベーターが一台、目の前で扉を開く。
乗ろうと思えば乗れた。
けれどナオはその場に残った。
扉が閉まり、透明な箱が谷へ下りていく。
数分後、自転車を押したマティアスが現れ、空の乗り場を見てからナオを見る。
「今の、乗らなかったの?」
「夕焼けを見ようかなと思って」
二人は崖の縁に並んだ。
太陽が西へ傾き、谷底の窓に映る色が橙から紫へゆっくり変わっていく。
マティアスがハンドルに両手を置いたまま、ぽつりと言った。
「僕、最近は仕事を早めに終わらせてる」
ナオは隣を見る。
「最近?」
「うん。六時十九分に間に合うように」
「合わせてたの?」
「最初の何日かは偶然。そのあとからは僕が合わせてた」
偶然だと思っていた時刻が、途中から彼の選んだ時刻に変わっていた。
七十一メートルという距離も、もうただの高低差には思えない。
ナオにとってそれは、毎日この人へ会いに行くための距離になっていた。
*
帰国まで、あと二日。
谷底のベンチで、ナオは紙袋の最後のひとかけらを指先で割りながら口を開いた。
「わたし、明後日、日本に帰る」
マティアスの手が止まった。
握っていた小さな木片が、指の間で動かなくなる。
「そう」
それだけだった。
いつもなら帰り際に尋ねる「明日もこの時間?」という確認もない。
マティアスはしばらく川を見たあと立ち上がり、自転車へまたがった。
「じゃあ」
先に走り去る背中を、ナオは追えなかった。
行かないで、と言えばよかったのか。
明日も会いたい、と言えばよかったのか。
どちらも言えないまま、遠ざかる後ろ姿を見送った。
*
帰国前日、午後六時十九分。
ナオは旧市街側のエレベーター乗り場に立っていた。
マティアスはいない。
一台目が来る。
扉が開き、閉まり、谷へ下りていった。
ナオは乗らなかった。
六時二十分。
二台目も見送った。
その透明な箱が崖を下りていくのを見ながら、ようやく気づく。
この十数日、ナオはここへ来ればマティアスがいると思っていた。
彼が仕事を早く終え、自転車を走らせ、自分に会うためここまで来ていたことを知ったのに、自分は一度も彼の生活のほうへ歩いていっていない。
三台目の扉が開いた。
ナオは乗り込む。
扉が閉まり、体が七十一メートル下へ沈んでいく。
今日はガラスの前に立った。
手すりには触れない。
崖の岩肌も、アルゼット川も、遠ざかる旧市街も全部見た。
怖さは消えていない。
それでも、目をそらしたくなかった。
谷底へ着くと、ナオは走った。
川沿いを抜け、水車のある方向へ曲がる。
息を切らして角を曲がった先に、自転車を押して歩くマティアスの背中があった。
「マティアス」
彼が振り返る。ナオは足を止めず、その前まで歩いた。
「明日帰る。でも、今日を最後にしたくない」
マティアスは黙ってナオを見た。
川の音だけが二人のあいだを流れる。
やがて彼は、自転車のハンドルから片手を離した。
「遠いって、何メートルかじゃないと思う。行かないと決めた場所が、一番遠くなる」
その一言が、胸の奥へ静かに落ちていった。
仕事のことも、東京のことも、それだけで答えが出るわけではない。
それでもナオは今、自分がここまで走ってきた理由だけは分かっていた。
マティアスが少し目を伏せる。
「僕も、今日で終わるのは嫌だ」
そして顔を上げた。
「次は、いつ会える?」
ナオはもう「分からない」と言わなかった。
スマートフォンを取り出してカレンダーを開く。
「十一月、日本に三連休がある。ルクセンブルクから来られる?」
「行く」
「本当に?」
「今、行かないって決めたら遠くなるから」
ナオは少し笑った。
二人で画面を覗き込み、具体的な日付を決める。
航空券、マティアスの休み、時差。
特別な言葉はなかった。
ただの予定確認だった。
それでもナオにとって、それはこの街へ来てから初めて、自分から未来へ置いた約束だった。
*
予定を決めたあと、二人はもう一度、上の街へ戻るエレベーターに乗った。
誰もいない車内で、谷底の灯りがガラスの向こうへ少しずつ遠ざかる。
初日は手すりから指を離せなかったナオが、今はガラスのすぐ前にいる。
マティアスが隣へ来た。
肩が触れる。
どちらも離れなかった。
「怖くない?」
「怖いよ」
ナオはガラス越しの谷を見る。
「でも、見たい」
上の街へ着き、扉が開いた。
それでも二人はすぐには降りなかった。
旧市街の灯りと、その七十一メートル下にある川を並んで眺める。
やがてマティアスが自転車を押して外へ出た。
数歩先で立ち止まり、振り返る。
初めて会った日とは逆に、今度はナオが彼のところまで歩いた。
隣へ並ぶと、マティアスが歩き出す。
ナオも同じ速さで歩いた。
冷えた風が石畳を抜け、首元のストールを揺らす。
二人はどちらからともなく、同じ方向へ進んでいった。
*
三か月後。
東京の日曜日、夜十時。
ナオは自宅のデスクでノートパソコンを開いていた。
ルクセンブルクは午後二時。
互いに無理なく話せる時間を探して決めた、週末の通話だった。
画面の向こうでは、マティアスが作業場の椅子に座り、木片を片手に笑っている。
「昇進の話、どうなった?」
「受けた」
マティアスが少し目を見開く。
「ただ、働き方は会社と話した。前と同じように全部を仕事へ合わせるのはやめた。休みも、自分の時間もちゃんと取る」
それはマティアスの選択を真似た答えではない。
ナオ自身が考えて選んだ答えだった。
マティアスは頷く。
「そっか」
それ以上、正しいとも間違っているとも言わなかった。
そのことがナオにはうれしかった。
マティアスが机の上から紙を一枚持ち上げる。
「航空券、取った」
「見せて」
画面へ近づけられた予約票には、十一月の日付がある。
ナオもカレンダーを開き、何度も見た丸印を画面へ向けた。
「七十一メートルより、ずっと遠いのにね」
マティアスが笑った。
「でも、行けば着く」
ナオも笑う。
話しているうちに、首に巻いていた薄いストールが肩からずれた。
ルクセンブルクで最初の日、自転車の籠に引っかかったものだ。
ナオが直そうとすると、画面の向こうでマティアスが気づく。
「それ、まだ使ってるんだ」
「使うよ」
ナオはストールを巻き直した。
「今度は籠に引っかけないでね」
「じゃあ、今度は僕が持つ」
画面越しに笑い声が重なる。
約束の日付は、もう「いつか」ではない。
七十一メートルよりずっと遠い距離の向こうから、マティアスは確かにこちらへ向かってくる。
ナオは通話を切らず、彼が作業台へ戻るのを眺めた。
マティアスも時々こちらを見る。
二人は離れた場所で、それでも同じ午後と夜の続きを過ごしていた。
七十一メートル下で、また会う┃ルクセンブルクの国際恋愛短編小説 なっつ @Nattsu-nattsu
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます