後編

その翌々日、ナオはいつもより早く旧市街側の乗り場へ着いた。


エレベーターが一台、目の前で扉を開く。


乗ろうと思えば乗れた。


けれどナオはその場に残った。


扉が閉まり、透明な箱が谷へ下りていく。


数分後、自転車を押したマティアスが現れ、空の乗り場を見てからナオを見る。


「今の、乗らなかったの?」


「夕焼けを見ようかなと思って」


二人は崖の縁に並んだ。


太陽が西へ傾き、谷底の窓に映る色が橙から紫へゆっくり変わっていく。


マティアスがハンドルに両手を置いたまま、ぽつりと言った。


「僕、最近は仕事を早めに終わらせてる」


ナオは隣を見る。


「最近?」


「うん。六時十九分に間に合うように」


「合わせてたの?」


「最初の何日かは偶然。そのあとからは僕が合わせてた」


偶然だと思っていた時刻が、途中から彼の選んだ時刻に変わっていた。


七十一メートルという距離も、もうただの高低差には思えない。


ナオにとってそれは、毎日この人へ会いに行くための距離になっていた。


帰国まで、あと二日。


谷底のベンチで、ナオは紙袋の最後のひとかけらを指先で割りながら口を開いた。


「わたし、明後日、日本に帰る」


マティアスの手が止まった。


握っていた小さな木片が、指の間で動かなくなる。


「そう」


それだけだった。


いつもなら帰り際に尋ねる「明日もこの時間?」という確認もない。


マティアスはしばらく川を見たあと立ち上がり、自転車へまたがった。


「じゃあ」


先に走り去る背中を、ナオは追えなかった。


行かないで、と言えばよかったのか。


明日も会いたい、と言えばよかったのか。


どちらも言えないまま、遠ざかる後ろ姿を見送った。


帰国前日、午後六時十九分。


ナオは旧市街側のエレベーター乗り場に立っていた。


マティアスはいない。


一台目が来る。


扉が開き、閉まり、谷へ下りていった。


ナオは乗らなかった。


六時二十分。


二台目も見送った。


その透明な箱が崖を下りていくのを見ながら、ようやく気づく。


この十数日、ナオはここへ来ればマティアスがいると思っていた。


彼が仕事を早く終え、自転車を走らせ、自分に会うためここまで来ていたことを知ったのに、自分は一度も彼の生活のほうへ歩いていっていない。


三台目の扉が開いた。


ナオは乗り込む。


扉が閉まり、体が七十一メートル下へ沈んでいく。


今日はガラスの前に立った。


手すりには触れない。


崖の岩肌も、アルゼット川も、遠ざかる旧市街も全部見た。


怖さは消えていない。


それでも、目をそらしたくなかった。


谷底へ着くと、ナオは走った。


川沿いを抜け、水車のある方向へ曲がる。


息を切らして角を曲がった先に、自転車を押して歩くマティアスの背中があった。


「マティアス」


彼が振り返る。ナオは足を止めず、その前まで歩いた。


「明日帰る。でも、今日を最後にしたくない」


マティアスは黙ってナオを見た。


川の音だけが二人のあいだを流れる。


やがて彼は、自転車のハンドルから片手を離した。


「遠いって、何メートルかじゃないと思う。行かないと決めた場所が、一番遠くなる」


その一言が、胸の奥へ静かに落ちていった。


仕事のことも、東京のことも、それだけで答えが出るわけではない。


それでもナオは今、自分がここまで走ってきた理由だけは分かっていた。


マティアスが少し目を伏せる。


「僕も、今日で終わるのは嫌だ」


そして顔を上げた。


「次は、いつ会える?」


ナオはもう「分からない」と言わなかった。


スマートフォンを取り出してカレンダーを開く。


「十一月、日本に三連休がある。ルクセンブルクから来られる?」


「行く」


「本当に?」


「今、行かないって決めたら遠くなるから」


ナオは少し笑った。


二人で画面を覗き込み、具体的な日付を決める。


航空券、マティアスの休み、時差。


特別な言葉はなかった。


ただの予定確認だった。


それでもナオにとって、それはこの街へ来てから初めて、自分から未来へ置いた約束だった。


予定を決めたあと、二人はもう一度、上の街へ戻るエレベーターに乗った。


誰もいない車内で、谷底の灯りがガラスの向こうへ少しずつ遠ざかる。


初日は手すりから指を離せなかったナオが、今はガラスのすぐ前にいる。


マティアスが隣へ来た。


肩が触れる。


どちらも離れなかった。


「怖くない?」


「怖いよ」


ナオはガラス越しの谷を見る。


「でも、見たい」


上の街へ着き、扉が開いた。


それでも二人はすぐには降りなかった。


旧市街の灯りと、その七十一メートル下にある川を並んで眺める。


やがてマティアスが自転車を押して外へ出た。


数歩先で立ち止まり、振り返る。


初めて会った日とは逆に、今度はナオが彼のところまで歩いた。


隣へ並ぶと、マティアスが歩き出す。


ナオも同じ速さで歩いた。


冷えた風が石畳を抜け、首元のストールを揺らす。


二人はどちらからともなく、同じ方向へ進んでいった。


三か月後。


東京の日曜日、夜十時。


ナオは自宅のデスクでノートパソコンを開いていた。


ルクセンブルクは午後二時。


互いに無理なく話せる時間を探して決めた、週末の通話だった。


画面の向こうでは、マティアスが作業場の椅子に座り、木片を片手に笑っている。


「昇進の話、どうなった?」


「受けた」


マティアスが少し目を見開く。


「ただ、働き方は会社と話した。前と同じように全部を仕事へ合わせるのはやめた。休みも、自分の時間もちゃんと取る」


それはマティアスの選択を真似た答えではない。


ナオ自身が考えて選んだ答えだった。


マティアスは頷く。


「そっか」


それ以上、正しいとも間違っているとも言わなかった。


そのことがナオにはうれしかった。


マティアスが机の上から紙を一枚持ち上げる。


「航空券、取った」


「見せて」


画面へ近づけられた予約票には、十一月の日付がある。


ナオもカレンダーを開き、何度も見た丸印を画面へ向けた。


「七十一メートルより、ずっと遠いのにね」


マティアスが笑った。


「でも、行けば着く」


ナオも笑う。


話しているうちに、首に巻いていた薄いストールが肩からずれた。


ルクセンブルクで最初の日、自転車の籠に引っかかったものだ。


ナオが直そうとすると、画面の向こうでマティアスが気づく。


「それ、まだ使ってるんだ」


「使うよ」


ナオはストールを巻き直した。


「今度は籠に引っかけないでね」


「じゃあ、今度は僕が持つ」


画面越しに笑い声が重なる。


約束の日付は、もう「いつか」ではない。


七十一メートルよりずっと遠い距離の向こうから、マティアスは確かにこちらへ向かってくる。


ナオは通話を切らず、彼が作業台へ戻るのを眺めた。


マティアスも時々こちらを見る。


二人は離れた場所で、それでも同じ午後と夜の続きを過ごしていた。

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七十一メートル下で、また会う┃ルクセンブルクの国際恋愛短編小説 なっつ @Nattsu-nattsu

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