七十一メートル下で、また会う┃ルクセンブルクの国際恋愛短編小説
なっつ
前編
九月下旬、午後六時十九分。
パファンタール・パノラマエレベーターのガラス扉の前で、ナオは腕時計を見た。
西ヨーロッパの小国ルクセンブルク。
その首都ルクセンブルク市は、深い谷を挟んで上の旧市街と谷底の街が重なっている。
東京の広告会社でデザイナーとして働くナオは、まとまった休暇を使ってこの街に滞在していた。
谷を渡る風は九月下旬にしては冷たく、旧市街の石畳は夕日を吸って赤く光っている。
崖の縁から見下ろすと、パファンタール地区の屋根がずっと下に小さく並んでいた。
扉が開く。
中にはすでに数人いる。
ナオは奥へ進み、ガラス壁に背を向けた。
高いところは苦手だ。
下を見なければ平気だと自分に言い聞かせる。
扉が閉まりかけたそのとき、自転車を押した男が走ってきた。
「待って」
ナオは反射的に開ボタンを押した。
男は礼を言いながら、自転車ごと車内へ滑り込む。
少し息が上がっていた。
扉が閉まり、エレベーターが動き出した。
床が沈むような感覚とともに、さっきまで足元にあった屋根が急速に遠ざかる。
ガラスの向こうに崖の岩肌、アルゼット川、赤い橋が一度に広がり、ナオは手すりを強く握った。
隣で自転車を支えていた男が、その手元を見た。
何も言わず、自転車をナオとガラスのあいだへ少し動かす。
車体で景色を遮るように。
「見なくても、三十秒くらいで下に着くよ」
低い声に、からかう響きはなかった。
ナオは小さく頷いた。
三十秒。
本当にそれくらいで、エレベーターは谷底へ着いた。
扉が開き、男が自転車を押して降りる。
ナオも続こうとして、彼の前籠に薄い布が引っかかっているのを見つけた。
自分のストールだった。
「あ」
二人が同時に手を伸ばし、籠の縁で指先がぶつかった。
男が先にストールを外して、ナオへ差し出す。
「ごめん。自転車に引っかけたみたいだ」
「ううん。扉を開けたとき、わたしが落としたのかも。ありがとう」
男は少し笑い、自転車にまたがった。
「じゃあ」
名前を聞く間もなく、彼はパファンタールの奥へ走り去った。
ナオはストールを首へ巻き直し、エレベーター脇の案内板を見る。
上の街と谷底を結ぶ高低差は、七十一メートル。
「七十一メートルもあるのに、三十秒なんだ」
さっきまで怖かった数字が、なぜか少しだけ気になった。
ナオは川沿いを一人で歩き始めた。
*
翌日、午後六時十九分。
ナオはまた同じエレベーターの前にいた。
昨日と同じ時間に旧市街を歩いていたら、自然とここまで来てしまったのだ、と自分には言い訳していた。
扉が開く。
その向こうに、自転車を押した昨日の男がいた。
今日は駆け込んでこない。
すでに乗っていて、ナオが近づくのを見ると開ボタンを押した。
「また会ったね」
ナオは乗り込みながら、少し笑った。
「昨日の人が、どうして今日も同じ時間にいるんだろうって思ってました」
「僕も同じこと考えてた」
エレベーターが下り始める。
今日は手すりを強く握らずに済んだ。
代わりにナオは、男の自転車の前籠を見る。
細い木の削りくずがいくつも残っていた。
「それ、仕事のもの?」
「舞台美術の木工。劇場で使うセットを作ってる。マティアス」
「ナオです」
初めて互いの名前を知った。
谷底に着くと、扉が開く前にマティアスが二方向を指す。
「今日はどっちへ行く? 右なら川沿い。左なら古い水車のほう」
ナオは昨日歩かなかった道を思い浮かべた。
「今日は右」
二人は並んで川沿いへ歩き出した。
*
三日目も、午後六時十九分だった。
偶然にしては続きすぎている、とナオは思い始めていた。
谷底の屋台の前で、マティアスが足を止める。
油の香ばしい匂いが風に混じっていた。
彼が買ったのはグロンペレキッヒェルヒャー。
すりおろしたじゃがいもに玉ねぎや香草を混ぜて平たく揚げる、ルクセンブルクで親しまれている料理だった。
縁はこんがりと硬く、中はまだ湯気が立っている。
マティアスは紙袋を一つだけ受け取ると、中身を半分に割り、大きいほうをナオへ差し出した。
「自分の分は?」
「今渡した」
「これ、半分でしょう」
「だから僕の分も半分」
ナオは笑って受け取った。
食文化の違いではない。
この人は、たぶん分けることを大げさに考えない人なのだ。
翌日も、その次の日も、谷底へ着くとマティアスは紙袋を一つだけ買った。
大きさが違えば一度だけ見比べ、それからどちらかをナオへ渡す。
半分に分けて食べながら歩くことが、いつの間にか二人だけの習慣になった。
*
一週間が過ぎた。
最初はエレベーターを降りれば別れていた二人が、ベンチに座り、川沿いを歩き、帰る方向が分かれる交差点まで一緒に行くようになっていた。
「また明日」と約束したことは一度もない。
それでもナオは、一日の中で午後六時十九分が近づくのを待つようになっていた。
東京の会社からは、アートディレクターへの昇進を打診されている。
帰国後までに返事を求められていた。
ずっと欲しかった肩書きのはずなのに、メールを開くたび、ナオは返信画面まで進めず閉じてしまう。
その日も考え込んだままエレベーターを降りると、マティアスが横から顔を覗き込んだ。
「今日、来ないかと思った」
「どうして?」
「昨日、疲れた顔してたから」
ナオは足を止めた。自分では隠していたつもりだった。
「大丈夫」
「大丈夫そうに見えない、って言ってる」
マティアスはそう言ったきり、理由を尋ねなかった。
自転車を押して歩き始め、いつもより半歩だけナオに近いところにいる。
そのわずかな距離に、ナオは自分でも説明できない安心を覚えた。
*
十日目、ナオは朝から熱っぽく、部屋で一日を過ごした。
午後六時十九分になっても、エレベーターへは行かなかった。
*
翌日、谷底へ着いたナオを見るなり、マティアスはいつもと違う顔をした。
「昨日、待ってた」
初めて聞く言葉だった。
ナオは返事を探せず、ただマティアスを見る。
言った本人も少し驚いたらしく、視線を自転車のハンドルへ落とした。
「来るって約束してたわけじゃないけど」
「うん」
「でも、待ってた」
ナオの胸の奥で、何かが静かに動いた。
これまでマティアスは「偶然、何度も会う人」だった。
今は違う。
彼は午後六時十九分に、自分が現れるかどうかを気にしている。
その事実だけで、見慣れた横顔が少し違って見えた。
*
その週末、雨が降った。
夕方には小雨へ変わったものの、川沿いのベンチはまだ濡れている。
マティアスは自転車のサドルを拭いていた布を取り出すと、ナオがいつも座る側を先に拭いた。
それから自分は、まだ少し湿っている側へ腰を下ろす。
何も言わないので、ナオも何も言わなかった。
雨上がりの川面に夕方の光が細く反射し、マティアスの頬に揺れる影を落としていた。
優しい人だとは、前から思っていた。
けれどその横顔を見ているうちに、それだけでは言い表せない感覚が胸を通り過ぎる。
この人に触れてみたい。
浮かんだ考えに、ナオ自身が戸惑った。
「そっち、濡れてない?」
「少し。でも乾く」
「交換する?」
「ナオが濡れるだろ」
短いやり取りのあと、二人は川を見た。
会話がなくても気まずくない。
そのことが、ナオには妙にうれしかった。
*
十四日目。
二人は谷底からさらに奥へ歩き、古い水車が残る一角まで来ていた。
流れる水の音が石壁へぶつかり、狭い空間に柔らかく反響している。
マティアスは止まった水車の木製の羽根を見上げた。
「これと似た水車を修理したことがある」
「舞台だけじゃなくて?」
「木で直せるものなら、たまに」
しばらく水車を見てから、マティアスはポケットの木片を指で転がした。
「最近、大きい会社に来ないかって言われてる。仕事も給料も安定するって」
「行くの?」
マティアスは少し考え、首を振った。
「小さくても、自分が納得できるものを作りたい」
ナオは返事をしなかった。
昇進を勧めるメールの文面が頭に浮かんだからだ。
けれどマティアスの選択を、そのまま自分の答えにしてはいけないとも思った。
彼もそれ以上、何も言わなかった。
二人は水音を聞きながら、同じ道を戻った。
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