03

「北上、これ遠野に渡してきてくれ」


 衣替えした制服にも慣れ、じめじめとした湿気を肌で感じる今日この頃。

 担任から雑用に呼びだされた。

 ままあることだから、普段は気にしない。

 でも、今日は違う。


 問題だったのは先生の口から出てきた人名だった。


「遠野さんに」 


 意味もなく、わたしは遠野の名前を反復する。

 舌にざらついたような感触が残った。


「でも、今日って遠野さん欠席してますよね」


 先生はいや、と首を横に振って答える。


「保健室にはいるんだよ。だけど、今から早退するから、これ頼むな」


 机の上のプリントを目で示して、先生は笑った。

 手で渡せないぐらいには忙しいらしい先生の視線はさっきからお弁当箱に向いている。


「……承知いたしました」


 わたしはプリントを脇に挟んで、職員室を出る。そのまま廊下を真っ直ぐ歩いて進む。


 最近、遠野が学校に来ている。来ている、と言っても早退したり、遅刻したり。今日はお昼になっても教室に来ないから、遅刻か欠席だと思っていた。となると遠野は今日、授業を受けずに早退することになるわけだけれど、なら一体どうして学校に来たのだろう。

 物思いにふけっているうちに、わたしは保健室の前にたどり着いた。


「失礼します」


 扉の前から声をかけてみても、返事はない。

 保健室の先生の声、どんなんだっただろうか。

 遠野の声だって、知っていると言えるほど自信はない。


 声だけなら聞く機会なんて沢山あったはずなのだけれど、薄い靄でもかかったみたいに、どうしても輪郭が浮かんでこなかった。

 

 もう一度だけノックをして、少し待つ。

 相変わらず反応は返って来ない。

 このままドアの前で立ち尽くしていても仕方がない。お昼休みも終わってしまう。


「入りますね」


 勢いのまま扉を開けた。

 保健室の中は除湿がよく効いていて、からりとした空気を肌に感じる。


 入って早々、手前に机と椅子が二脚。

 机の奥側の椅子に座った遠野が、手にワニのパペットをはめたまま、わたしを見ていた。堂々した居留守ね。


「……北上さん」


 なんでも無さそうに、眠たそうな平らな目をして遠野が言う。


「……そういうそっちはワニさんだ」

「暇だったから」


 じゃあ授業、受けたらいいのに。


「そっか。居留守したなー、遠野」

「だって先生いないし。病人の面倒とか私見れない」


 少しは拗ねたり、口を尖らせたりすると思っていたけれど、返ってきた声の温度はどこまでもが一定だった。


 あめ相手なら、返事なんて勝手に指が打ってくれるんだけどな。


 何かそれらしい話題はないだろうか。

 立ち止まって少し考えていると、遠野のほうから声をかけてきた。


「体調悪いの?」

「あ、ううん。遠野に用があって」

「……私に?」  

 

 そう、とわたしは首肯して、脇に挟んでいたプリントを持ち直す。

 両手で持ったそれを遠野に差し出すと、遠野はワニの口でそれを咥えてとった。


「先生が直接渡しに来ればいいのに」

「忙しいから仕方ない。これも委員長の仕事だからね」


 今頃お弁当箱をつついているのだろうけれど。


「……ああ、そういえばクラス委員なんだっけ。大変そうだね、色々」

「こういう仕事多いから、そんなに大変でもないよ。ちょっとしたパシリみたいな感じ」

「へー」


 興味なさげに息を吐いた遠野はわたしの方を見ない。プリントをじっと見つめて、「お疲れ様」とそれだけ言った。

 遠野によると、わたしとの話はもう終わったらしい。


「うん、遠野もお大事に」

「しとく」


 そういう遠野は相変わらずで、体調が悪いようには見えなかった。

 愛想笑いぐらいは返してくれてもいいのに。


 そのままわたしは保健室を出て、何となく煮え切らない思いを抱えたまま教室に戻る。


 流れのまま授業を受けて、そのまま帰宅。

 バイトはないから、いつもより平穏。

 だけど、どうにも疲れていた。

 

 お風呂の水面に顔をつけてぶくぶくと泡を吹く。

 窓の縁に置いたスマホはピクリとも動かない。

 いい加減お風呂からあがろう、と立ち上がったその時、スマホがぶるっと震えた。


『暇』


 いつも通りの一言はあっという間にわたしを浴槽に戻してしまう。


『今お風呂』

『いつもじゃん。なんかえっちだね』


 何言ってんだこいつ。

 お湯の温度が少し上がった気がした。

 本当に昼話した遠野と同一人物なのか、今更疑問にすら思う。


 あめが入力中なのが見えたから、返事をしないで待つ。

 ほんの少し待つだけなのだけれど、待っている間にのぼせてしまいそうだ。

 最近、どうもお湯を熱く感じる。

 少し痩せたから、お腹の中まで熱が浸透しやすくなったのかもしれない。


『今日久々に学校の人と話したよ。てか、学校行ったからちゃんと』


 ぶっ、と吹き出しそうになる。

 今日遠野の声を聞いたからだろうか。

 文字なのに遠野の声で脳が再生してくる。


『今日も偉いじゃん。普段誰とも話さないみたいなこと言うね』


 何故だか最近のあめは学校に行ったことを報告してくる。

 このままだと音読カードとか、連絡簿にサインをしてくれ、とでも言いそうな勢いだ。


『友達いないもん』

『今日話した人は友達じゃないんだ』

『うん。保健室にプリントわざわざ持って来てくれたの。委員の仕事だって』

『へー』


 いつも通りの、適当な相槌。その後に指が勝手に動いて、送信ボタンを押す前に理性がわたしの指を止めた。


 その人って、どんな人?


 自分で打っておいて、読み返すととてつもなく気持ち悪い。

 たぶんろくな答えは返ってこないだろう。

 遠野がわたしに、北上凪咲にどんな印象を持っているのか知りたくなってしまった。しばらく悩んで、消しては書き直す。

 同じ文章が出てくるだけで、何も変わらない。

 返信の遅さに耐えかねたのか、『あめが入力中』の表記が見えた。

 勢いのまま、送信する。


『うーん。真面目な人』

『まじめ』

『よく知らないんだよね。まあなんか委員長顔? てか委員長だし』


 ……委員長顔ってなんだ。

 真面目そうということだろうか。

 メガネとか、三つ編みとか。わたしの髪はそんなに凝ったものではない。


『三つ編みでメガネかけてそうだね』

『コテコテすぎるでしょ。てか語弊。陽キャだよ普通に』


 そんな自覚はない。わたしだって、友達は多い方じゃない。


『まーなんか、一言で言うなら一軍って感じ』

『どういう……?』

『よく見ない感じの美人』

 

 美人。容姿の話をしているつもりはなかったし、お世辞なんてものは求めていない。外面なんてものはいくらでも取り繕えてしまう。求めている評価は、そこじゃない。

 

「何やってんだろ、わたし」


 自分から聞いておいて、返ってきた答えに苛立っている。

 子供じみている。それも、救いようがないくらいに。


『なんか性格悪そうだね、その人』

『どうなんだろーね。優等生って感じ』


 優しい人だと思うけど、とあめは続けて言う。

 さっきから言われている側のわたしには思い当たる節がない。

 本当にそれは北上凪咲の話なのだろうか。もしかして、別で遠野にプリントを届けた人がいるのではないかとすら思う。

 わたしは親切ではないし、優等生でもなければ一軍でもない。

 

『そういう人に限って裏ではめちゃくちゃ性格悪そう』

『裏表とか無さそうじゃない? 逆に』


 だとしたらみかんは一体裏なんだろうか。

 北上凪咲は表なんだろうか。

 表裏一体では、絶対にない。


『やけに褒めるね』

『みかんはやけに厳しいじゃん』

『知らない人だし』

『私もよく知らない。嫉妬してる?』

『してないよ』

『嘘だ、嫉妬してるでしょ。ちゃんと好きだよ? みかんのこと』

『はいはいわたしも好き好き』


 好きって言葉は口にするには重たくて、文字にするには随分軽い。

 

『悪い人じゃないなら、友達になってみれば』


 わたしの指が滑って、バカみたいなメッセージを送ってしまう。

 送信してから、後悔した。取り消すかどうか、一瞬頭によぎっている間にも返事は返ってきている。今ばかりは遠野のレスポンスの速さが憎い。


『無理無理。住む世界違うし』


 そんなことないよ。


 なんて言えたら、良かったのに。

 わたしの指は、機械的に『そっか』とだけ返した。

 

『お風呂上がってからまた話そ。あめが寝てなかったら』

『まだ入ってたんだ。ちゃんと服は着てね』

『えろがき』

『てか先に寝るのそっちじゃんいつも。ちゃんと甘やかしてよ学校行った』

『日頃から十分甘やかしてますー』


 わたしはそれ以降返信はせずに、湯船から体を起こし、ため息を漏らした。

 体がやけに冷たくて、ぶるりと体が震えて鳥肌が立った。

 

 頭からお湯を浴びると、余計に頭が重くなった。

 知らないふりをして自分のことを聞いた気持ち悪さは強くこびりついて、流れていかない。


 つくづく、人間関係というものがわたしには向いていないのだと思う。


「一人でいるのが好きだったら良かったのに」


 誰に聞かせるでもない独り言が水音に溶けていく。


 わたしは温くなった湯船に戻って、追い炊きのボタンを足で押す。


 口を体温程度のお湯につけて、胸の中の得体のしれない重たいものを吐き出すと、体が少しは軽くなる気がする。

 水面に泡ができて、ぶくぶく消えていく。


 最後に一際大きな泡が一つ残った。バカの顔が滲んでうつっている。

 指でつついて見ると、あえなく割れた。泡沫。


 どうしようもなく、胸焼けがした。

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