02
「ただいま」
「あんた今日も遅いねえ。男?」
「だからバイトだって」
バイトから疲弊して帰ってきた妹を見た姉のセリフではない。
わたしはため息をついて、にこにこ笑うお姉ちゃんの肩を押す。
お姉ちゃんはわざとらしく仰け反って、抗議の目を向けてくる。
「男と?」
「そりゃあね。たくさんいるけど」
「罪な女だねえ」
「そーだね」
お姉ちゃんの言葉は無視して、わたしは尋ねる。
「お風呂沸いてる?」
「そろそろだろうなって思ってお湯はっといたよ」
わたしが帰る途中でお風呂の連絡をしたんだから当たり前だ。
「ありがと」
わたしはわざとらしく顔をしかめて、その横を通り抜けると、背後でお姉ちゃんがけらけら笑う声がした。むかつく。
「もう入るんでしょ?」
「うん」
「着替えは?」
「自分で用意できるし」
いつまで子供扱いする気なの、と言いかけた口はどうにか閉じて。
わたしは着替えを取りに、二人分の荷物で狭くなった居室へ戻る。
いつからこの人はこんなに丸くなったんだろう。
尖ったままでいてくれた方が、触れたくならなくて良かったのに。
「エアコンつけるの早くない? まだ六月だよ」
「じめじめしていやじゃん。除湿モードでつけてんの」
「ふーん」
昔は口を開けば文句ばかり言っていたのに、今はわたしが文句ばかり言っている。
止めてほしいわけでもないから、それ以上は言わない。
何となく、突っかかりたくなるのはなぜなんだろう。
一種の試し行動のようなもの――わたしが、お姉ちゃんに?
違うとしても、そう思い至ってしまっただけで悪寒がする。
進学を機にお姉ちゃんのアパートへ転がり込んでから、もう一年以上になるらしい。
姉妹だけの共同生活は意外にも上手くいっていた。
わたしはスマホは持ったまま浴室に入り、さっさと体と髪を洗う。
指にコンディショナーを馴染ませて、前髪を指でつまむ。
少し目に被る長さだった。
「もうそろそろ切らないとか」
遠野は前髪が目を覆ってしまうぐらい長いけれど、自分で切ったりはしないんだろうか。
諸々の準備を終え、わたしはようやく浴槽へ入る。
スマホを水没させないように気を付けて、メッセージアプリを立ち上げた。
『戻ったよ』
『遅い』
無難な連絡を遠野――あめに送ると、爆速で返事が返ってきた。
あめとこの半年で随分仲良くなったつもりだったが、彼女がわたしに向ける言葉は鋭くなる一方だった。
最初の方はお疲れ様、とか、お帰り、とか言ってくれたのに。
だけど、その雑さがわたしは嫌いじゃない。
鍼をさしたことはないけれど、きっとこんな感じなんだろう。
『お姉ちゃんに絡まれてたの』
『ほんとに仲いいね』
『仲悪くないだけだって』
『いいな。お姉ちゃん欲しい』
あめが姉を欲しがるのは今に始まったことじゃない。
お姉ちゃんの話をするたび、決まって一度は羨ましがる。
妹でも兄でもなく、姉がいいらしい。
あまりいい話はしていないのに、ないものねだりだ。
『そんなに欲しいの?』
『みかんでもいいよ』
なんだそれ。
『仲いい友達欲しいだけじゃん』
遠野が寂しそうに見えたことはない。
居心地の悪そうな教卓前の席で菓子パンをかじり、来たい時に来て、帰りたい時に帰る。
自由で、他人の目をまるで気にしていない。
そんな風に、わたしには見える。
だけど、チャットの遠野は――あめは寂しいのだと言う。
わたしだけに、吐露してくれる。
『お姉ちゃんは甘やかしてくれそうだし』
『甘やかされたいの?』
『うん』
『なんか可愛いじゃん』
『かわいくない』
はあ、と脱力のため息が肺から零れた。
ため息の次に大きなあくびが一つ出て体が軽くなる。
涙で視界が霞むと、音ばかりが気になってくる。
お湯が溢れて、排水溝に吸われていく音がする。
わたしの輪郭がほつれて、溢れ出たものがどこかへ流れていく。
それがあめではなく、遠野に届いてくれればいいと思う。
『黙んないでよ。恥ずかしいじゃん』
『あめが子供みたいなこというから。どう甘やかそうかなって』
『子供だし。たまには甘やかしてよ。この際、みかんでもいい』
『この際って。わたしじゃなきゃダメなら考えたげる』
スマホの縁についた水滴を、親指で拭う。
『じゃあ、みかんじゃなきゃダメ』
『じゃあが余計だ』
ふふっ、とわたしは静かに笑ってしまう。
教室の遠野が野良猫なら、チャットのあめは家猫だ。
今思うと、半年前のあめがどれだけ猫を被っていたのかよくわかる。
『じゃあ、明日学校に行ったら、明日はずっと甘やかしてあげる』
『今日学校行ったから甘やかして』
嘘つき。
今日、学校にいなかったじゃないか。
『今日月曜だよね。あめが学校に行ってるわけない。週休三日なんでしょ、あめは』
というか、正確には金曜日もいなかった。
週休四日じゃん、羨ましい。
『行ったし』
『ぜったい嘘』
『冷凍みかん』
『おいしそうじゃん』
『なんでみかんなの名前』
今更過ぎる質問が飛んでくる。
あめも自覚しているのか、すぐさま『今更だけど』と追いメッセージ。
『アカウント作るときに読んでた本のタイトル』
『……みかんってかわいくないよね。冷凍というか、ドライ。ドライみかん』
『あんまり可愛くはないね。あめは可愛いよね』
『かわいくないって性格だから。みかん絶対美人だよ』
『なんで』
『何となく。なんか余裕がありそうだから』
『あめは可愛い』
『余裕がなさそうだから?』
『皮肉じゃないって』
前髪、切ればいいのにな、遠野。
『なら写真送ってあげよっか』
「えっ」
濁点交じりの声が喉から出た。
そのままむせてしまう。気管の変なところに唾が入った感じだ。
少しの間咳き込んでいれば、お姉ちゃんが「早く上がれえ」とわざわざ文句を言ってきた。心配をしろ、心配を。
『急だね』
『現実を教えてあげようかと思って』
「……ずいぶんネガティブな動機ね。じゅうぶん可愛いのに」
だけど、見たい。顔を知っているけれど、見たい。
あの遠野が、自撮りした写真。
自撮りなんかするタイプには見えないし。
『全然見たいけど』
『普段ネットリテラシー低いって怒ってくるのに、こういうのはノリノリなんだ』
『気になるもん。別に保存したり拡散したりしないって』
自分で言うのはどうなんだろう。
でも、遠野はやめておくなら今のうちだとも思う。
『信頼してるから、そこは。ちょっと待ってよ』
信用。その言葉がチクリとわたしの胸に刺さる。
どくん、と一つ大きく心臓が跳ねた。
そうしてあっけなく、写真が送られてきた。
顔の大半はスタンプで覆われ、見えるのは目元だけ。
くっきりとした、二重。
その瞳がスマホ越しにわたしを見つめていた。
「……ふうん」
わたしはスマホを置き、浴槽から出てシャワーから冷水を出した。
それを、頭からかぶる。
お湯に長く浸かりすぎた身体には、ちょうどいい。
熱に浮かれた体が冷却されて、段々に鳥肌が立ち、心臓が急くように鼓動を早めてわたしの体に血を巡らせる。
整う、というのはこういう感覚なのかもしれない。
そう頭の余白で思った。
意味もなく体と髪をもう一度洗い、再び湯船に浸かってスマホを手に取るころには、写真は消されてしまっていた。
『もっかい言うけど保存禁止だから。みかんのこと信じてるからね』
してないよ、と返事を打とうとする前に、追いメッセージが飛んできた。
『なんか言えよ』
『めっちゃ可愛いじゃん』
『目元しか見てないじゃん。めっちゃ可愛くない』
『目元も可愛いし、自撮りするとこも超可愛い』
『なにそれ、意味わかんない』
わたしも意味が分からない。
やっぱりまだ動揺している気がする。
いや、動揺なんてしてない。少しのぼせてしまっているだけ。
『お風呂あがるから、またね』
『逃げた』
『逃げてないから。起きてたら声かけるから』
お風呂から上がると、わたしの体はやるべきことを粛々とこなした。
体をふいて、保湿。そして服を着て、部屋へ戻り、ドライヤーを探す。
部屋は寒さすら感じるぐらいに、涼しかった。
「ちょっと、あんた。顔色悪いけど大丈夫?」
「長風呂しすぎた」
「今日はいつもより短かったけど。風呂で死なないでよねー」
「……おばあちゃんじゃないんだから」
お姉ちゃんが扇風機の首振りを止めて、わたしの方に向けた。
わたしはお礼を言って、扇風機の前に座り、顔から風を浴びる。
高速で回る扇風機のプロペラを見ていると、頭がぐるぐる、気持ち悪い。
結局、わたしはあめに連絡しないで、その日はすぐに寝てしまった。
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