04
今日はやけに黒板が見える日だ。
それは、教卓の前にわたしの視線を吸い寄せる背中がないことも少しは関係あるのかもしれないし、単純に邪魔な背中がないから黒板がよく見えるだけかもしれない。
『ちゃんと学校行った?』
送信時間は二時間前。授業が始まる前、それとなく送ってみたものだ。
お昼休みになっても、下に続くメッセージはない。
遠野のことだから、恐らく寝ている。
最近、遠野は真面目に学校に来ているなあ、なんて思っていた矢先のこれだ。
学校に行っていた分を埋め合わせるみたいに欠席が増えた。
今週は月曜日に顔を見せたきり。
今日は金曜日だから、今日来なかったら遠野は週休六日ってことになる。
「凪咲、行くよ」
「うん」
こういう時、友達は便利な存在だ。
鬱屈とした気を少しは紛らわせてくれる。
「凪咲、なんか機嫌悪い?」
「そうかな」
「だよ。眉間やばいよ」
廊下を隣で歩いている陽乃は、わたしの真似をしているつもりなのか、おもむろに眉をひそめてみせる。
「寝不足かも。最近クマやばいんだけど、なんかいいのない?」
「クマ? 青? 茶色?」
「クマって種類あるんだ」
「うん。え、でも今クマ見えないよ。何使ってる? この前買ったやつ?」
「たぶん。これ見て」
わたしはブレザーのポケットから小さなポーチを取り出して、そのまま陽乃に手渡した。
陽乃は化粧や流行りものの話が大好きだ。
それらの話を振るだけで陽乃は簡単に話を変えてくれる。
単純で扱いやすい。
おおよそ友達に抱くべき感想ではないかもしれないけれど、わたしはそういう陽乃が好きだった。
「ね、聞いてる?」
「ごめん、ぼーっとしてた。おすすめなんだっけ」
「寝不足ですなあ」
「参っちゃうよね」
「相変わらず他人事だなあ。凪咲なら――」
陽乃がブツブツと挙げていく商品名を聞き流しながら、わたしたちは足を進める。
わたしは化粧品の話はそんなに好きじゃない。
どちらかと言えば、好きなものを語っている時の陽乃の顔の方が好きだ。
今度化粧品を一緒に見に行くことを約束する頃には、購買に到着していた。
「奢ったげる。相談乗ってくれたし」
「やった。どーしよっかなあ」
てっきりいつものようにメロンパンと言うものだと思っていたが、今日はそういう気分じゃないらしい。
陽乃は機嫌が良さそうに、代わり映えしない購買の品々を眺めていた。
食べるものに特にこだわりのないわたしは、陽乃が選んだものと同じものを買うことにしている。
最近はメロンパンもなかなか気に入っていた。
「じゃあこれ」
そう言って陽乃が手に取ったものは、よりにもよってチョココロネだった。
「ちょいちょい、また眉間やばい」
「寝不足で眠いだけ、気にしないで」
わたしは自分の眉間を指で揉みながら否定する。
陽乃が笑って「外れたかなあ」と首を傾げた。
「外れたって?」
「だって凪咲ずっとコロネ見てたから、食べたいのかなーって。でもコロネ取ったら嫌そうな顔したじゃん。凪咲、今日もあたしと同じの買うでしょ?」
そんなに露骨に顔に出ていただろうか。
ババ抜きとかやると、表情が顔に出なさ過ぎて怖いって言われるぐらいなのに。
「別に嫌いとかじゃないよ。……まあ、たまにはいいかも」
「じゃあこれできまり! ごちですっ、凪咲様」
「はいはい、お粗末さま」
陽乃が両手を合わせてはにかんだ。
わたしたちは教室に戻ってチョココロネを平らげる。
陽乃の口の端にチョコで髭ができることはなかった。
食べ終えてからお手洗いに向かい手を洗い、教室へ戻ったわたしは、いつものように本を開く。
陽乃は教室に残っていて、はしたなくわたしの隣の机へ座って伸びをしていた。
「こら、はしたないよ。ただでさえスカート短いんだから」
自分で言っておいて、親戚みたいだ。
陽乃にも同じことを指摘されて、二人で少し笑う。
陽乃が笑うと明るい毛先がふわりと揺れて、甘い匂いがわたしの鼻をくすぐった。
「今日はいてくれるんだ」
「どうでしょう」
陽乃はわたしとお昼を食べたら、大抵どこかにふわりと消えていく。
綿毛みたいに、自由に、気ままに。
棘のない人当たりのいい性格で、特定のグループに属さず、誰とでも自然に話せる子だった。
なのに、お昼ご飯だけはわたしと食べるのが不思議だ。
放っておいたらわたしが孤立することを懸念していたりするんだろうか。
別にわたしは一人でも全然いいのだけれど。
わたしは上機嫌に足を揺らしている彼女に声をかける。
「凪咲がどうしてもって言うなら、いてあげてもいいよ?」
「じゃあどうしても」
わたしは本を閉じて、遠野の空席を一瞥してから陽乃の方へ体を向き直す。
陽乃がにへらと頬を緩めた。
「仕方ないなあ」
「ありがと」
「でも、凪咲は本読んでてもいいよ? あたし見てるから」
「なにそれ。わたしが本読んでるの見てても面白くないじゃん」
「そうでもないって。……凪咲は絵になるからね」
そうだろうか。
そういう割には陽乃はわたしの方を見ていない。窓の方をぼんやり見つめていた。
やっぱり本を読んでいるわたしを見るのは退屈なんだろう。
わたしもつられて外を見ると、雲一つない青空が視界におさまった。
こんなにも天気がいいのに、遠野は学校にやってこない。
だからこそ来ないのかもしれない。遠野は太陽が嫌いだから。少なくとも、あめはそうだ。
天気と遠野の登校の相関をひそかに考察することを決めつつ、わたしは陽乃に意識を戻す。
「なんか上の空だね、最近」
「そうかな。寝不足だから」
「寝不足になるほど熱中できるものでもあるの?」
「勉強」
「凪咲ちゃんはえらいねえ」
陽乃の手がわたしの頭に伸びてきて、何度か髪を指で梳いていった。
本当は勉強なんてあまりしていないんだけど。
「それより、話そうよ。わたしは本より陽乃と話してる方が楽しいよ」
「……凪咲ってそういうとこずるいよね。仕方あるまい。付き合ってあげましょう」
笑顔を顔いっぱいに咲かせた陽乃が、尊大に胸を張った。
目が合って二人で笑い合い、ありふれた雑談に花を咲かせる。
そんなふいに陽乃がこんなことを聞いてきた。
「凪咲ってさ、電子派に乗り換えたの? 紙派じゃなかった?」
突然なんの話だろう。
わたしは陽乃の視線の先を追う。机の上、あるのは文庫本とスマホ。
「ああ、本? ううん。なんで?」
「最近、スマホいじってること多いから。スマホで本読んでるのかなって」
「……あー。ネットで昔の作品とか無料で見れることに気がついたんだ。著作権切れたヤツとか」
急にそんなことを聞いてくるから、背中が跳ねそうになる。
何か嫌な予感を感じつつ、わたしの口は流暢に言い訳を口にした。
お姉ちゃんに聞かれたとき用の言い訳だったのだけれど。意外な所で役に立った。
「ふーん?」
「例えばこれとか」
机の上にある文庫本は芥川龍之介の河童だ。
スマホでブラウザを開いて、タブから読んでいる途中の河童を選び、わたしは陽乃にそのままスマホを手渡した。
やましいことはないのだから、問題はない。
「芥川か。凪咲って好きだよね、芥川。あたしも読んでみよっかな」
「陽乃って本読めるんだ」
「読めるよっ! これあたしのラインに共有しちゃってもいい?」
「いいよ」
別に調べたら出てくるのに、とは野暮か。
今度はもっと読みやすいやつをおすすめしよう。
「ちょいちょい凪咲。なんか彼氏から連絡来てるよ」
「え?」
わたしは慌てて陽乃からスマホを奪うように手に取って、あめと話すためのアプリを開く。返信は返ってきていなかった。
しまった、と正面を見ると、にやついているような、驚いているような。
ぎこちない顔をした陽乃がわたしを見ていた。
「…………あれ、ほんとに彼氏いる?」
「ちがっ、違うって。なに。そんなこと疑ってたの?」
「まあ、ちょっとは」
そんなに慌てなくてもいいじゃん、と一転、陽乃がからっと笑う。
「慌ててなんかない」
「慌ててたって」
我ながら無理がある。
どう誤魔化そうか、色々な言い訳が頭を巡っては消えていく。
「で、今誰のラインを開いたのかな、凪咲ちゃんは」
「だから違うから。そういうのじゃない。変な迷惑メールとか来たんじゃないかなって思っただけ。陽乃そういうのに騙されそうじゃん。なんかの通知来て勘違いしたんじゃない?」
ダメだ。口を開けば開くほど、わたしは自分の首を絞めている。
言い訳がましく、無理がある。なのに、口が止まらない。
「変な迷惑メールが来るようなサイト見てたりするの?」
「ど、どういうことっ。違うって。誤解」
「じゃあ陽乃さんに見せてみなさい」
今までに見たことがないくらいの満面の笑みで陽乃がわたしに手を向けた。
「絶対にヤダ。プライバシー」
結局、あきらめた。わたしはスマホを胸に抱いて隠す。
これ以上追及するな。今日言い訳することはあきらめて、その姿勢をわたしはただ示す。陽乃ならきっとわかってくれるはずだ。
「凪咲って恋愛興味ないの?」
「……なぜ」
「だって、凪咲のそういう浮ついた話聞かないし。の割にはキューピットとかよくやってるじゃん。もう彼氏いるやつのムーブじゃんって前から思ってたの」
「そういうのじゃない。頼まれたからやってるだけ」
好きでやっているわけじゃない。断るのとやるのとじゃあ断る方が面倒だから、渋々やっているだけだ。
「そうなんだ。凪咲が言いたくないなら追及しないけど?」
「じゃあ追及しないで」
「やっぱやましい事はあるんだ」
なんでか今日の陽乃はしつこくわたしに噛みついてくる。
やましくはない。だが、あめとの会話について――あめについての存在を教えたくない。あそこにはわたしらしくなさが詰まっているから。
「……今度何か奢るから。前行きたいって言ってた、パフェのお店とか」
そう言うと陽乃は自分の口にチャックを締める動作をした。買収成功。
「わかった、まだ彼氏じゃないんだ。好きな人だ! だいじょぶだいじょぶ、ちゃんと凪咲かわい――くはないか」
「何てこというんだ」
買収失敗だった。とんでもない暴言に思わず口が出る。
「凪咲はねえ……可愛いって言うよりは綺麗なんだよね。でも話してみると可愛いから、不思議な感じ。今みたいに焦ってるときとか、ちょーかわ――」
わたしは居た堪れなくなって、陽乃の口を手でふさぐ。
もごもごと陽乃が抗議してくる感触が手のひらに伝わってくるが、知ったことではない。今日の陽乃は喋りすぎだ。そしてわたしもらしくなさすぎだ。
「わかった、なんでも言うこと聞くから」
噛みつかれる前に手を放し、陽乃の顔を伺うようにわたしは見る。
幸い怒っているような様子はなく、むしろにまあ、っと笑みを深めた。
「じゃあ明日デートしよ。バイトある?」
さっそくパフェを食べに行くつもりらしい。
スマホのカレンダーを渋々確認しても、明日は特に予定がない。
「……ない。じゃあ、それで」
「よっしゃっ」
陽乃がにひひ、と笑っている間、わたしは机に突っ伏したくなる衝動をどうにか抑えていた。あめとのことを知られるぐらいなら、恋人がいると勘違いされている方がよっぽどましだ。
『今起きた』
こういう時に限ってあめは返事をしてくる。
ほんとに、もう。
『ちゃんと学校に来なさい』
『来なさいって変。先生みたい。てか行ってるかもしれないじゃん』
墓穴を掘った。
いやしかし、今起きたと言っておいてそれは無理がある。
ああくそ、陽乃のせいだ。変な事言うから。
陽乃はスマホに指を滑らせるわたしを見てほほ笑んだ。なんだよその微笑みは。
スマホの電源ボタンを押して、スカートのポケットに雑に突っ込む。そのまま文庫本を開いた。一挙手一投足で余計な憶測を生みかねない。
余計なことは、もうしない。
「拗ねないでよ」
「拗ねてない」
勘違いをしている陽乃は無視をして、文庫本を読み進める。quaxだとか、なんだとか。全く頭に入ってこない。
こんなことになるのも遠野が学校に来ないからだ。
午後からでもちゃんと学校に来てよ。
わたしはそんな念をこめて、なにか言いたげにわたしを見つめる陽乃の顔から目を逸らした。
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