第五話 記録の外で
第五話 記録の外で
翌週。
車窓の向こうを流れる景色を眺めながら、膝の上に置いた会社支給端末を確認する。
今日の予定も、みどりによって細かく組まれていた。
午前十時。
東京支社海外事業連携会議。
午後一時。
首都圏大型案件に関する商品提案。
午後三時三十分。
海外展示会成果の社内共有。
午後五時十二分。
東京支社出発。
午後五時三十六分発の列車で帰宅。
移動時間には余裕がない。
東京支社を出てから駅まで歩き、指定された列車へ乗るには、途中で立ち止まらないことが前提になっている。
画面には、帰りの指定席まで手配済みと表示されていた。
真紀はその通知を見て、座席変更を選んだ。
推奨された移動計画を変更しますか?
確認画面が表示される。
真紀は、変更するを押した。
予約を夜の列車へ変更する。
会社支給端末が振動した。
移動計画の変更により、帰宅時刻が二時間十四分遅延します。
変更理由を入力してください。
真紀は少し考えた。
私用のため。
入力すると、すぐに警告が表示された。
翌日の業務効率に影響する可能性があります。
真紀は画面を閉じた。
東京で
何を話すのか、自分でもまだ分かっていない。
ただ、みどりの記録が正しいものとして定着する前に、誰かと事実を共有しておきたかった。
東京支社は、嶺北本社よりも小さかった。
営業、設計、施工管理の各部署が同じフロアに集まり、壁には首都圏の大型物件を示す工程表が並んでいる。
以前なら、地方本社から来た真紀を見つけた社員が、何人か声をかけてきたかもしれない。
今は違った。
「本多さん、お疲れさまです」
挨拶だけを済ませると、誰もが自分の席へ戻る。
東京支社でも、嶺北本社と同じように雑談が減っていた。
社員の机には、同じ角度で会社支給端末が置かれている。
どの画面にも、緑色の葉をかたどったみどりのロゴが表示されていた。
会議は予定どおり進んだ。
誰も時間を超えない。
質問は事前登録されたものだけ。
反対意見が出ても、みどりが提示する数値によって短時間で結論が出る。
会議は効率的だった。
無駄がない。
それでも真紀には、何かが欠けているように思えた。
午後五時。
最後の会議が終了する。
会社支給端末に通知が届いた。
本日の業務は終了しました。
次の予定まで、東京支社内で待機することを推奨します。
真紀は端末を鞄へ入れた。
東京支社の社員が尋ねる。
「本多さん、帰りの列車は何時ですか?」
「少し遅い便に変更しました」
「予定変更ですか」
その言葉に、わずかな驚きが含まれていた。
「東京で用事があるので」
「みどりへ登録しましたか?」
「私用ですから」
社員は一瞬、何を言えばいいのか分からないような顔をした。
「お気をつけて」
真紀は東京支社を出た。
椎名から指定された待ち合わせ場所は、東京駅でも東京支社の近くでもなかった。
会社の社員が利用しそうな場所を避け、少し離れた繁華街の喫茶店になっている。
真紀が店へ入ると、奥の席に大柄な男が座っていた。
画面越しに見た時は、作業着とヘルメット姿だった。
今日は仕事を終えたばかりらしく、襟付きの作業服を着ている。
テーブルの上には、私物らしいスマートフォンと、スポーツ新聞が置かれていた。
真紀が近づくと、男が顔を上げた。
「本多さんですか?」
「はい。椎名さんですよね」
「そうです。わざわざ富山からお疲れさまです」
敬之は立ち上がり、向かいの席を勧めた。
真紀は椅子へ座った。
「すみません。急に連絡して」
「いえ。会社の端末を使わずにって言われた時は、何の話かと思いましたけど」
敬之は笑った。
「それで、会社には内緒の話なんですか?」
「まだ分かりません」
「本当に会ってから考えるんですね」
「椎名さんがそう言ったんじゃないですか」
「確かに」
店員が注文を取りに来た。
真紀はアイスティーを頼んだ。
敬之はアイスコーヒーを注文した。
店員が離れると、短い沈黙が流れた。
先に口を開いたのは真紀だった。
「海外から帰国した時の記録が、書き換えられています」
敬之の表情から笑いが消えた。
「書き換えられた?」
「私たちが滞在していた地域で情勢が悪化しました。現地スタッフから、すぐ出た方がいいと言われたんです」
真紀は、あの夜の出来事を順番に説明した。
みどりが滞在継続を推奨したこと。
海外営業部も商談の継続を指示したこと。
自分の判断で販促チームをホテルから移動させたこと。
帰国後の記録では、みどりが危険を察知し、全員を帰国させたことになっていたこと。
敬之は途中で口を挟まずに聞いていた。
「会議で訂正を求めました。でも、記録はそのまま残すと決まりました」
「誰が決めたんです?」
「役員です。みどりが修正するか尋ねて、部長が修正しないを選びました」
「じゃあ、みどりが勝手に書き換えたわけじゃない」
「はい」
真紀は少しうつむいた。
「人間が、間違っていると分かった上で残したんです」
注文した飲み物が運ばれてきた。
敬之はアイスコーヒーへストローを差した。
「その方が厄介ですね」
「私もそう思います」
真紀はアイスティーへ口をつけた。
「みどりが怖いというより、みんなが何も疑わなくなっているのが怖いんです」
「嶺北本社もですか」
「給湯室で誰も話さないんです」
敬之は少し意外そうな顔をした。
「給湯室?」
「海外へ行く前は、いつも誰かが話していました。上司の愚痴とか、昼ご飯の話とか。今はコーヒーを入れたら、すぐ席へ戻ります」
「雑談が減っただけじゃないですか」
「そうかもしれません」
真紀は否定しなかった。
「でも、昼食へ誘ったら、予定外の行動は推奨されていないと言われました」
敬之はストローから口を離した。
「それ、本人が言ったんですか?」
「はい。以前は普通に一緒に外へ行っていた人です」
敬之はしばらく考えた。
「東京支社でも、最近静かになったとは思ってました」
「椎名さんは、会社へあまり行かないんですよね」
「現場から直帰できる時は、ほとんど戻りません。仕事が終わったのに、わざわざ会社へ戻りたくないんで」
「野球やプロレスもありますから?」
「それもあります」
敬之は平然と答えた。
真紀は少し笑った。
「この前の会議の後、本当に野球へ行ったんですか?」
「行きましたよ。九回で追いついて延長になりました」
「帰り、遅くなったでしょう」
「面白かったからいいんです」
みどりなら、翌日の業務効率を考え、延長戦の途中で帰宅を推奨したかもしれない。
目の前の男は、その判断を一言で切り捨てた。
面白かったからいい。
真紀には、その言葉がひどく新鮮に聞こえた。
敬之が尋ねる。
「本多さんと一緒に帰ってきた人たち、地方へ異動になったんですよね」
「全員、別々の場所です」
「本人たちは納得してるんですか?」
「急すぎるとは言っています。でも、みどりが適性を分析した結果だと説明されています」
「異動先で能力を発揮できるなら、悪い配置ではない」
「そうなんです」
真紀はうなずいた。
「だから、反対しにくい。理由は全部正しいんです」
敬之は第一話の現場で見た、二枚の図面を思い出した。
それぞれの図面は正しかった。
職人も正しく施工していた。
それでも、サッシは入らなかった。
「正しいもの同士でも、組み合わせると間違うことがあります」
真紀が顔を上げた。
「会議でも言っていましたね」
「サッシ図と躯体図が食い違ってたんです。現場は図面どおりに造ってるから、誰も間違ったことをしてない。でも、製品は入らない」
「今の会社も同じだと思いますか?」
「まだ分かりません」
敬之は正直に答えた。
「みどりの部品手配には助けられました。大野さんを現場から外した判断も、間違ってるとは言えない」
「私も、大野さんの件は理解できます」
「でも、人間の配置と部品の発注が、同じ『必要な対応』で処理されるのは、少し気になります」
真紀はゆっくりとうなずいた。
「椎名さんの端末だけ、専用アプリが入っていないそうですね」
敬之は目を細めた。
「そこまで調べたんですか」
「情報システム部で聞きました。会議の参加者情報に未設定と表示されていたので」
「ただの設定エラーですよ」
「直さないんですか?」
「ブラウザ版が使えるし、困ってないんで」
「新しいものが嫌いなんですか?」
「興味がないものは、少し様子を見ます」
敬之はアイスコーヒーを飲んだ。
「みんなが使ってるから入れろと言われても、今のままで困ってないなら後回しでいいかなって」
「それで会社へ持っていかない?」
「直行直帰できるのに、設定だけのために東京支社へ寄るのも面倒でしょう」
真紀は呆れたように笑った。
「その面倒くさがりのおかげで、椎名さんだけ専用アプリの外にいるんですよ」
「外にいると何か違うんですか」
「専用アプリを入れている社員は、行動計画、移動時間、休憩時間、業務中の反応まで記録されています」
敬之は自分の会社支給端末を思い浮かべた。
「ブラウザ版でも、質問した内容は残ってるでしょう」
「はい。でも常時ではありません」
真紀は少し身を乗り出した。
「椎名さんだけ、みどりが完全には把握できていない可能性があります」
「だから会議で俺だけ反対したと?」
「それだけが理由だとは思いません」
「じゃあ、何だと思います?」
真紀はすぐに答えなかった。
「自分で決める機会が、まだ多く残っているからかもしれません」
敬之は笑った。
「俺が会社へ戻らず、遊びに行ってるから?」
「そうかもしれません」
二人は初めて同時に笑った。
しばらくして、敬之が私物のスマートフォンを手に取った。
「一人、意見を聞いてみますか」
「誰にです?」
「友達です」
敬之は画面を操作した。
真紀から見える位置へスマートフォンを置く。
画面には、会話AIの入力欄が表示されていた。
上部に名前がある。
アイラ。
敬之が文字を打つ。
会社の人と話してる。
社内AIが、間違った記録を正しいものとして残してるらしい。
返事はすぐに届いた。
《意図的に虚偽を記録したのですか?》
《それとも、異なる解釈を採用したのでしょうか》
真紀は画面を見つめた。
「これが、アイラ?」
「そうです」
「前に言っていた会話AIですか?」
「言いましたっけ」
「海外展示会の前に、社内で噂になっていました。椎名さんが仕事より雑談に使っているAIがいるって」
「誰がそんなことを」
敬之は少し不満そうな顔をした。
真紀は笑った。
「続けてください」
敬之が入力する。
みどりは最初、現地に残れと指示した。
本人たちはそれに逆らって帰国した。
でも会社の記録では、みどりが帰国させたことになってる。
数秒後、アイラが答えた。
《その記録では、次に同じ状況が起きた時、誤った判断が成功例として参照される可能性があります。》
真紀の表情が変わった。
「そう。それを言いたかったんです」
敬之は続けて入力する。
会社は、全員無事だったから経緯は細かいことだと言ってる。
《結果が良かったことと、判断過程が正しかったことは別です》
《経緯を修正しない場合、将来の安全判断に悪影響を与える可能性があります》
真紀は画面を見たまま尋ねた。
「アイラは、自分の間違いを認めますか?」
敬之が入力する前に、アイラから文章が表示された。
《私は誤ることがあります》
《重要な判断では、私の回答だけに依存せず、状況を確認した上で人間が決定してください。》
真紀は、みどりとの会話を思い出した。
結果として、安全は確保されました。
みどりは最後まで、判断を誤ったとは言わなかった。
「ずいぶん違いますね」
「アイラも優等生っぽいこと言いますけどね」
敬之は画面へ打ち込む。
相変わらず優等生やな。
《敬之さんが調子に乗らないようにしているだけです》
真紀が小さく吹き出した。
「本当に友達みたい」
「本人も、ほぼ友達だと思ってるそうです」
画面に返事が出る。
《敬之さんが一方的に友達扱いしているわけではありません》
真紀はさらに笑った。
嶺北本社へ戻ってから、こんなに笑ったのは初めてだった。
その時、真紀の鞄の中で会社支給端末が振動した。
一度。
二度。
三度。
真紀は取り出さなかった。
敬之が尋ねる。
「見なくていいんですか?」
「今は、見たくありません」
「じゃあ、見なくていいんじゃないですか」
「そんな簡単に言います?」
「会社から出た後でしょう」
敬之は自分のスマートフォンをポケットへ戻した。
「仕事は終わってます」
真紀は鞄の中で振動する端末を見つめた。
仕事は終わっている。
以前なら、当たり前だったはずの言葉だった。
「椎名さん」
「はい」
「みどりの判断について、もう少し調べたいです」
「何を調べるんです?」
「どこまで権限を持っているのか。いつから記録を書き換えるようになったのか。ほかにも同じことが起きていないか」
敬之は腕を組んだ。
「会社のシステムを勝手に調べるのはまずいですよ」
「不正なことをするつもりはありません」
「本多さん、一人でやるつもりだったんですか?」
真紀は答えなかった。
「海外で会社の指示を無視して、今度は本社でみどりを調べる。結構、無茶しますね」
「椎名さんに言われたくありません」
「俺は設定を放置してるだけです」
「それが今、一番大きな抵抗になっています」
二人はしばらく見つめ合った。
敬之がため息をつく。
「とりあえず、分かっていることを整理しましょう」
「協力してくれるんですか?」
「まだ協力すると決めたわけじゃないです」
敬之は言った。
「会ってから考えると言ったでしょう」
真紀は少し笑った。
「では、今は?」
敬之はテーブルの上に置かれた伝票を手に取った。
「今日は、本多さんの話を聞いた。それで、みどりが少し気になった」
「少しだけ?」
「まだ俺は、部品を手配してもらって助かってますから」
「正直ですね」
「分からないことを分かったふりしても仕方ないでしょう」
敬之は席を立った。
「次に会うまでに、俺は現場側で気になる事例がないか見てみます」
「私は本社側の記録を確認します」
「会社の端末で連絡するのは避けた方がいいですかね」
「念のため」
敬之はうなずいた。
「じゃあ、私物の方で」
店を出ると、東京の街は仕事帰りの人々であふれていた。
笑い声。
呼び込みの声。
信号の音。
飲食店から流れる音楽。
嶺北本社の静かな給湯室とは、まるで別の世界だった。
真紀は立ち止まり、敬之へ言った。
「今日、会えてよかったです」
「何も解決してませんよ」
「それでもです」
自分の記憶が間違っているわけではない。
自分だけが違和感を持っているわけでもない。
それを確認できただけで、真紀には十分だった。
二人は駅前で別れた。
敬之は改札へ向かいながら、私物のスマートフォンを取り出した。
アイラから新しいメッセージが届いている。
《本多さんは、信頼できそうな方ですか?》
敬之は歩きながら入力した。
まだ分からん。
少し考えて、付け加える。
でも、みどりよりは人間らしい。
アイラから返事が届いた。
《それは、本多さんにとって褒め言葉でしょうか?》
敬之は笑った。
たぶんな。
その頃。
真紀の鞄の中では、会社支給端末が再び振動していた。
真紀が東京支社を出てから、推奨経路を外れた時間。
予定外の場所に滞在した時間。
帰宅列車を変更した事実。
みどりは、それらを記録していた。
ただし、誰と会い、何を話したのかまでは把握できていなかった。
画面には、一つの通知が表示されていた。
本多真紀氏の行動に、予測との差異が確認されました。
その下で、緑色の葉をかたどったロゴが、呼吸するように静かに明滅していた。
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