interlude
Interlude
その日、富山の空は朝から重く曇っていた。
窓の外では細い雨が降り続き、古い社屋の軒先から一定の間隔で雫が落ちている。
宣昭は玄関前で一度立ち止まり、空を見上げた。
胸元には、濃い緑色のハンカチが差してあった。
「社長」
後ろから追いかけてきた営業部の社員が、息を弾ませながら声をかけた。
「先方から連絡がありました」
宣昭が振り返る。
「契約していただけるそうです」
一瞬だけ、宣昭の表情が止まった。
それから、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。
「そうか」
「来月から、正式に取引を始めたいと」
「みんなに伝えてくれ。今日は遅いから、続きは明日にしよう」
「はい」
社員は深く頭を下げ、社内へ駆け戻っていった。
宣昭はもう一度、雨の向こうを見た。
何度も断られた相手だった。
工場の規模が足りない。納期に不安がある。地方の会社に任せるには、取引額が大きすぎる。
そう言われるたびに、宣昭は資料を作り直し、現場を見直し、何度でも先方へ足を運んだ。
最後に相手を動かしたのは、数字だけではなかった。
何かあれば、自分が責任を取る。
宣昭はそう言い切ったという。
その日の夜、社内の一角では、まだ数人の社員が残っていた。
「決まったってよ」
「本当か?」
「社長が、とうとう落としたらしい」
誰かが小さく手をたたいた。
それにつられるように、別の社員も笑った。
「また緑だったな」
事務員の一人が言った。
「何が?」
「社長の胸元。緑のハンカチ」
「ああ」
「この前、県外の工場との契約を決めたときも、緑じゃなかった?」
「そうだったか?」
「そうよ。私、覚えてるもの」
近くで聞いていた若い社員が、冗談めかして口を挟んだ。
「じゃあ、あれを着けてる日は勝負の日なんじゃないですか」
「社長の勝負服か」
「服じゃなくて、ハンカチだろ」
小さな笑いが起きた。
誰かが湯飲みを持ち上げながら言った。
「勝負の緑、か」
その言葉に、別の社員が首を振った。
「“勝負のみどり”の方が、それっぽくないか?」
「何だよ、それ」
「知らんよ。今、思いついただけだ」
また笑いが起きた。
そこへ、忘れ物を取りに戻ってきた宣昭が姿を見せた。
社員たちは慌てて口を閉じた。
宣昭は机の上に置かれていた書類を手に取ると、集まっている社員たちを見回した。
「どうした。何か面白い話でもしていたのか」
「いえ、別に」
「社長の、そのハンカチの話です」
事務員が正直に答えた。
宣昭は自分の胸元へ視線を落とした。
「ああ、これか」
「大事な商談の日には、いつも緑ですよね」
「そうだったかな。あまり意識してなかったよ」
「勝負のみどりだって、みんなで」
宣昭は少し困ったように笑った。
「そんな大げさなものじゃないよ。家を出るとき、たまたま目についただけだ」
「でも、今日も契約が決まりました」
「それは、このハンカチのおかげじゃない」
宣昭は、社員たちの顔を順番に見た。
「工場のみんなが、いいものを作ってくれたからだ。営業が何度断られても通ってくれた。事務所のみんなも、資料をそろえてくれた」
胸元の緑に軽く触れる。
「これだけで仕事が決まるなら、苦労はしないよ」
そう言って、宣昭は書類を小脇に抱えた。
「今日はもう帰りなさい。明日から忙しくなるぞ」
社員たちの返事を背中で聞きながら、宣昭は社屋を出ていった。
雨は、いつの間にか止んでいた。
誰かが窓の外を見ながら、静かに言った。
「本人は、ああ言ってるけどな」
「何が?」
「あれはやっぱり、勝負のみどりだよ」
翌朝。
営業部の机には、緑色のネクタイを締めた社員が一人いた。
工場では、いつもと違う緑色の手袋を選ぶ職人がいた。
宣昭が命じたわけではない。
社内の規則になったわけでもない。
ただ、その言葉だけが、人から人へと伝わっていった。
――勝負のみどり。
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