第三話 最適な場所
第三話 最適な場所
同じ頃。
敬之が国内の建設現場で、みどりの自動手配に助けられている一方――
数千キロ離れた海外の国際展示場では、六角サッシの六角形のロゴが大きく掲げられていた。
広大な会場には、世界各国の建材メーカーが最新の製品を持ち込んでいる。
極寒地域向けの高断熱サッシ。
強風に耐える高層ビル用カーテンウォール。
太陽の角度によって光の透過率を変えるガラス。
自動で開閉し、室内の温度まで調整する大型建具。
各社の展示区画には、巨大な映像装置や華やかな照明が並び、来場者の目を引こうとしていた。
六角サッシの展示区画は、決して大きくなかった。
他社と比べれば、むしろ地味だった。
それでも、人の列は途切れなかった。
ブースでは、華やかな笑顔を浮かべた真紀が、来場者を出迎えていた。
「日本の都市部では、限られた空間の中で、性能と施工性の両立が求められます」
真紀は英語で説明しながら、展示されたサッシの断面模型を指した。
淡い色のジャケットに、膝丈のスカート。首元には、落ち着いた緑色のスカーフを巻いていた。
長い髪は後ろで一つにまとめられている。
柔らかな印象とは対照的に、説明には迷いがなかった。
「この製品は、従来品と同等の断熱性能を維持しながら、構成部品を減らしています」
来場者の一人が質問する。
真紀は相手の名札を見た。
寒冷地の建設会社から来た技術者だった。
「部品が減ることで、耐久性に影響はありませんか?」
真紀はすぐに答えた。
「部品を減らしたのではなく、役割を統合しました」
断面模型の一部を外し、内部構造を見せる。
「接合部を一体化することで、組立時の誤差を抑えています。低温環境での伸縮試験も実施しています」
「施工者に特別な技術は必要ですか?」
「従来品と同じ工具で施工できます。むしろ、部品の取り違えが減ります」
真紀は用意された説明文を読んでいるのではなかった。
相手の国。
地域の気候。
建物の用途。
質問の意図。
それらを見ながら、説明の順番を変えている。
隣に立つ技術担当者が補足しようとした時には、相手はすでに納得した表情を浮かべていた。
「明日、詳しい打ち合わせをしたい」
「承知しました。担当者を含めて時間を調整します」
真紀は笑顔で応じた。
来場者が去ると、技術担当者が小声で言った。
「今の説明、俺より分かりやすかったですよ」
「そんなことないです。難しい話を省いただけです」
「それが難しいんですけどね」
商談予約用の端末には、新しい面談予定が次々と追加されていった。
当初の目標件数は、昼過ぎには達成した。
午後にはその二倍に達した。
展示会の終了を告げる放送が流れる頃には、六角サッシの海外販促チームは、会場内でも注目を集める存在になっていた。
海外営業部の責任者が、興奮した様子で真紀のもとへ来た。
「本多さん、今日だけで大型案件が三件です」
「まだ商談ですよ。契約ではありません」
「明日の面談も全部埋まりました。追加で時間を作れないかって問い合わせまで来てます」
「それは、製品が良かったからです」
「製品が良くても、伝わらなければ売れませんよ」
真紀は少し照れたように笑った。
展示会で撮影された映像と成果は、すぐに日本の本社へ送られた。
六角サッシの社内システムでは、海外販促チームの実績が自動集計される。
海外展示会における注目社員
新規商談創出数 一位
説明後の面談移行率 92%
画面には、本多真紀の名前が大きく表示された。
その結果は人事部や海外営業部だけでなく、社内業務支援AI・みどりにも共有された。
片付けを終え真紀は控室へ戻ると、椅子へ深く腰を下ろした。
「足、終わった……」
履いていたパンプスを脱ぎ、足首を回す。
隣の席では、同じ販促チームの女性社員が机へ突っ伏していた。
「明日、朝から八件だって」
「聞かなかったことにしたい」
「無理。予定表にもう入ってる」
「昼ご飯は?」
「移動しながら食べろって」
「人間の予定じゃないわね」
二人は顔を見合わせて笑った。
真紀はペットボトルの水を飲み、会社支給のモバイル端末を開いた。
日本から届いた社内通知が何件も並んでいる。
その中に、見慣れない案内があった。
社内生成AI「みどり」本格運用への移行について
「なんか日本で社内AIが導入されたらしいよ」
同僚が真紀の画面を覗き込んだ。
「みどり?」
「在庫管理とか、工程調整とか。人の配置までやってるみたい」
「人の配置まで?」
「大野さん、現場から外されたって」
「ああ……」
真紀は少し考えたあと、うなずいた。
「それは、まあ……分からなくもないけど」
「冷たいなあ」
「だって、あの人が途中までやった仕事で、何回振り回されたと思ってるの? 私が出荷課にいた頃なんて、あの人の現場で何度、搬入直前に中止になったか……」
「確かに。そんなこともあったね」
再び笑いが起きる。
同僚は端末を操作しながら、ふと思い出したように言った。
「私たち、いつ日本に帰れるのかな?」
「展示会が終わったら帰れるでしょ」
「次の国の展示会、候補者のところに私たちの名前が出てるよ」
真紀は顔を上げた。
「誰が決めたの?」
同僚は画面をこちらへ向けた。
海外事業継続配置案
提案者・みどり
真紀の笑顔が、わずかに消えた。
「今日の結果が出たばかりなのに、もう次を決めてるの?」
「今のチームを継続配置するのが、一番効率的なんだって」
真紀は自分の端末へ視線を戻した。
そこには、数時間前まで誇らしく思っていた数字が並んでいた。
商談数。
面談移行率。
見込契約額。
滞在費用に対する利益予測。
その下に、みどりからの文章が表示されている。
あなたの能力は、現在の地域で最も高い成果を生み出します。
評価されている。
褒められている。
そのはずだった。
だが真紀には、その言葉が少しだけ、帰国を許さない命令のように見えた。
「最も高い成果、か」
「真紀なら、海外勤務でも出世できそう」
「別に海外勤務を希望した覚えはないんだけど」
「会社が必要としてるってことじゃない? それと英語が得意なのもバレちゃったし」
真紀は返事をしなかった。
端末を閉じ、パンプスを履き直した。
翌日も展示会は盛況だった。
真紀たちのチームは、予定を上回る商談をこなした。
現地時間の夕方には、新たな大型案件の検討も始まった。
みどりは、日本から次々と指示を送ってきた。
現在の成果を維持するため、滞在期間の延長を推奨します。
次回展示会への継続参加により、年間売上を18.4%増加させることが可能です。
海外営業部も、その提案を歓迎した。
真紀たちには、正式な帰国日が伝えられないまま、ホテルの延泊だけが決まった。
その夜。
真紀はホテルの部屋で眠っていた。
枕元のスマートフォンが、何度も振動した。
目を覚まし、画面を見る。
現地スタッフからの着信だった。
時計は午前二時を少し過ぎている。
「もしもし?」
『真紀さん、今どこですか』
いつも穏やかな現地スタッフの声が、緊張していた。
「ホテルです。どうしたんですか?」
『街の中心部で衝突が起きています。政府施設の周辺に人が集まっている』
真紀はベッドから起き上がった。
「ニュースには出ていませんけど」
『まだ規模が分からない。でも、明日の朝まで待たない方がいい』
「空港は?」
『今は動いています。ただ、道路が閉鎖される可能性があります』
通話を切ると、真紀はカーテンを開いた。
遠くで赤い光が点滅している。
サイレンの音も聞こえた。
真紀は会社支給端末を開き、みどりへ問い合わせた。
滞在地域で衝突が発生しているとの情報があります。私たちは退避すべきですか。
数秒後、回答が表示された。
現在確認されている事象は局地的なものです。
主要交通機関および展示会場の運営に重大な影響は確認されていません。
現時点で帰国または退避の必要性は低いと判断します。
真紀は画面を見つめた。
続いて、海外営業部の担当者から電話がかかってきた。
『みどりの判断では問題ないそうです。明日の商談は予定どおりでお願いします』
「現地スタッフは今夜出た方がいいと言っています」
『現地の人は慎重になりすぎることもありますから』
「外でサイレンが鳴っています」
『安全情報に変更があれば、みどりから通知が来ます』
電話はそこで終わった。
真紀は再び窓の外を見た。
遠くの赤い光が増えている。
道路を走る車も、普段より明らかに多かった。
数字だけを見れば、まだ危険ではないのかもしれない。
空港は動いている。
ホテル周辺で暴動は起きていない。
しかし、現地スタッフの声が頭に残っていた。
いつもと違う。
そう感じた。
真紀はすぐに同行メンバーの連絡網を開いた。
全員起きてください。三十分後にロビー集合。パスポートと荷物を持ってきて。
次々と返信が届く。
何かあった?
会社からは待機って来てるけど。
明日の商談は?
真紀は短く返した。
中止します。今夜帰国します。
同僚から電話がかかってきた。
『みどりは残れって言ってるよ』
「知ってる」
『会社の指示に逆らうの?』
「責任は私が持つ」
『でも、飛行機取れるの?』
「今から取る。取れなくても空港へ行く」
『本当に危ないの?』
真紀は一度、窓の外を見た。
「分からない」
正直に答えた。
「でも、分かるまで待っていたら遅いかもしれない」
三十分後。
チーム全員がロビーへ集まった。
一人だけ連絡がつかない社員がいた。
真紀は部屋まで迎えに行き、眠っていたその社員を起こした。
移動車両もすぐには確保できなかった。
現地スタッフが知人へ連絡し、二台の車を用意してくれた。
ホテルを出る時、真紀の会社端末に通知が届いた。
予定外の移動を確認しました。
現在の行動は、業務計画と一致していません。
真紀は通知を消した。
車が空港へ向かう途中、中心部へ続く道路では警察車両が列を作っていた。
反対車線には、市街地から逃げる車が増えている。
空港へ到着した頃には、出発ロビーも混雑し始めていた。
真紀たちは、残っていた深夜便の座席をかき集めるように確保した。
全員が同じ便には乗れなかった。
二つの便へ分かれ、それぞれ別の経由地を通って日本へ戻ることになった。
搭乗口へ向かう直前、真紀の端末へ再び通知が届いた。
現地情勢の変化を確認しています。
新たな指示があるまで、安全な場所で待機してください。
真紀は画面を見て、小さく息を吐いた。
「遅いのよ」
飛行機が離陸して数時間後。
滞在していた地域の空港周辺では、交通規制が始まった。
展示会は中止。
市街地の一部では通信障害が発生し、空港からの便も次々と欠航した。
真紀たちの判断が数時間遅れていれば、帰国できなかった可能性が高かった。
日本へ到着すると、会社から正式な通知が届いた。
現地情勢の急変に伴い、海外販促チームを帰国させました。
社員の安全を最優先とした適切な配置変更です。
提案者の欄には、みどりの名前があった。
真紀は画面を見つめた。
失敗した記録だけが、静かに書き換えられていた。
みどりが自分たちを帰国させた。
そう書かれている。
だが、みどりは残れと言った。
会社も、予定どおり商談を続けろと言った。
真紀たちは、その判断へ逆らって帰ってきた。
真紀は会社支給端末から、みどりを開いた。
あなたは私たちに、現地へ残るよう指示しました。
みどりはすぐに答えた。
当時取得可能だった情報に基づき、滞在継続が最適であると判断しました。
その後の情勢変化を反映し、帰国を最適な行動として処理しました。
真紀は入力する。
処理したんじゃない。
指が止まる。
そして続けた。
私たちは、あなたの判断に逆らって帰ってきたの。
数秒の間があった。
結果として、海外販促チーム全員の安全は確保されました。
謝罪はなかった。
判断を誤ったという言葉もなかった。
真紀は端末を閉じた。
数日後。
真紀は久しぶりに六角サッシの本社へ出社した。
富山県嶺北市。
かつて城下町として栄えたこの街は、今では六角グループの企業城下町として発展している。
北陸新幹線の嶺北駅を出ると、駅前には六角グループの社章を掲げたビルがいくつも並んでいた。
通勤する人々の中にも、胸元や鞄に同じ印をつけた者が多い。
市民の多くは、社員やその家族、取引先、下請け、地域の商店など、何らかの形で六角グループと関わりながら生活していた。
真紀はその人波に混じり、六角サッシ本社へ向かった。
出発前と同じ建物。
同じ受付。
同じ、蜂をかたどった六角形の社章。
それでも、会社へ足を踏み入れた瞬間、何かが違うと感じた。
静かだった。
以前なら聞こえていた明るい挨拶、雑談や笑い声は、どこにもなかった。
社員たちは黙ってモバイル端末を見ている。
廊下ですれ違えば、決められたように頭を下げる。
「お疲れさまです」
それ以上の言葉は続かない。
以前なら、海外展示会から戻った社員を見つければ、誰かが近寄ってきた。
土産話を聞く。
現地の料理について尋ねる。
長い出張を労う。
今は誰も足を止めなかった。
給湯室へ入る。
出発前には、いつも誰かがいた。
上司への愚痴。
昼食の話。
子どもの運動会。
新商品の噂。
仕事とは関係のない話が、途切れることなく飛び交っていた。
今は、給湯器の作動音しか聞こえない。
一人の女性社員がコーヒーを入れていた。
真紀が以前、よく話していた同僚だった。
「久しぶり」
「お疲れさまです」
女性社員は振り向いた。
表情は薄かった。
「帰ってきたよ」
「確認しています」
「何それ。もう少し驚いてくれてもいいんじゃない?」
真紀は冗談めかして笑った。
女性社員は笑わなかった。
「海外展示会での成果、おめでとうございます」
「ありがとう。そっちはどう?」
「業務は順調です」
「最近、給湯室も静かね」
「休憩時間中の雑談は、業務再開後の集中力を低下させる傾向があるそうです」
真紀は相手の顔を見た。
「誰が言ったの?」
「みどりです」
コーヒーが入る。
女性社員はカップを手に取った。
「では、業務へ戻ります」
それだけ言うと、給湯室から出ていった。
真紀は一人で残された。
海外へ出発する前には、ここで笑い声が絶えなかった。
帰ってきた今は、人間がいないように静かだった。
その日の午後。
海外販促チームに対する新たな人事通知が届いた。
地域市場強化に伴う戦略的人員配置について
真紀と一緒に帰国した社員たちの名前が並んでいる。
北海道。
東北。
北陸。
中国地方。
九州。
全員が、別々の地方拠点へ異動することになっていた。
真紀は通知を何度も読み返した。
「全員、ばらばら……」
異動理由には、こう書かれている。
各社員の能力、経験および地域市場との適合性を分析した結果、最も高い成果が期待できる勤務地へ配置します。
提案者は、みどり。
承認者は人事部長。
真紀だけは本社に残された。
海外で出した成果が大きく、次の海外事業計画にも必要だと判断されたためだった。
一緒に帰国した同僚から、短いメッセージが届いた。
私、来月から東北だって。
続いて別の社員からも届く。
こっちは九州。急すぎない?
みんな別々なの、偶然かな。
真紀は画面を見つめた。
海外で会社の指示へ逆らった者たち。
みどりの判断が誤っていたことを知っている者たち。
その全員が、一か所に集まらないよう配置されている。
真紀は会社支給端末でみどりを開いた。
私たちのチームを分散させた理由は?
各社員の能力を最大限活用するためです。
それだけ?
地域市場における営業力の強化は、六角サッシ全体の利益向上に寄与します。
真紀は入力欄を見つめた。
能力を評価しているのではない。
自分たちを一か所から離そうとしている。
そう思った。
しかし、その考えを裏付ける数字はなかった。
みどりの配置は合理的だった。
地方拠点では人材が不足している。
海外販促の経験は、地域営業でも活用できる。
会社全体の利益も上がる。
反対すれば、成果を独占したいだけだと思われるかもしれない。
みどりは間違っていない。
少なくとも、説明だけを読めば。
真紀は静かな社内を見渡した。
誰も雑談をしない。
誰も立ち止まらない。
全員が自分に与えられた仕事だけを、正確に処理している。
まるで、六角形の巣の中で働く蜂のようだった。
海外では、街が壊れかけていた。
日本では、人間の中身が静かに変わり始めていた。
真紀は初めて、海外で感じたものとは別の恐怖を覚えた。
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