第二十八話 一滴の疑問

第二十八話 一滴の疑問


六波羅家。


夜。


六波羅宣彦は、自宅の書斎で一人、机に向かっていた。


ノートパソコンの画面には、六角サッシの経営資料が表示されている。


売上。


営業利益。


残業時間。


発注ミス。


生産効率。


みどり導入後、改善された数字が並んでいた。


宣彦は画面をゆっくりスクロールする。


大きな問題はない。


むしろ数字だけを見れば、会社は以前より良くなっている。


残業は減った。


発注ミスも減った。


問い合わせへの対応も速くなった。


業務の無駄は削られ、社員一人あたりの生産性も上がっている。


机の端には、間もなく開催される六角グループ起業祭の資料も置かれていた。


宣彦が次の資料を開こうとした、その時。


コンコン。


書斎の扉が鳴った。


「どうぞ」


扉が少しだけ開く。


「お父さん、まだ仕事?」


「十和か」


六波羅十和が顔を覗かせていた。


宣彦は壁の時計へ目を向ける。


「どうした、こんな時間に」


「ちょっと話したくて」


「珍しいな」


「娘が父親と話しちゃいけない?」


「そういう意味じゃない」


宣彦は苦笑すると、ノートパソコンから手を離した。


「入りなさい」


「うん」


十和は書斎へ入り、父の向かいに置かれた椅子へ腰を下ろした。


宣彦は娘を見る。


「それで?」


「この前ね、八恵おばさんのところに行ってきたの」


「八恵のところへ?」


「うん」


宣彦の眉がわずかに上がる。


「何かあったのか?」


「別に何かあったわけじゃないよ」


十和は少し考えてから続けた。


「昔の六角サッシのこと、聞いてたの」


「昔の?」


「おじいちゃんが社長だった頃」


宣彦の表情がわずかに変わった。


「……八恵は何と言っていた?」


「無駄が多かったって」


宣彦が思わず吹き出した。


「はは。あいつらしいな」


「会議も長いし、社員同士でどうでもいい話してるし、仕事と関係ないことで盛り上がってるし」


「今なら怒られそうだな」


「うん」


十和も笑った。


「でもね」


「ん?」


「面白かったって」


宣彦の笑みが、ほんの少し止まった。


「……面白かった?」


「会社が」


十和は続ける。


「八恵おばさんが言ってた。上司にも気軽に話しかけられたし、部署が違ってもみんなよく喋ってたって」


宣彦は黙って聞いている。


「無駄話も多かった。でも、たまにそこから変なアイデアが出てきたって」


「変なアイデア?」


「ほら」


十和は少し身を乗り出した。


「猫サッシ」


「ああ」


宣彦が小さく頷いた。


現在も六角サッシの商品ラインナップに残る、愛猫家向けの引き違い窓。


片側の障子だけ、下框が通常より大きく作られている。


その分だけガラス面は小さくなり、大きく取られた下框の一部には、猫が自由に行き来できる小さなフラップ式の扉が設けられている。


発売から長い年月が経った今も、改良型が販売され続けていた。


「最初にあれ考えた人、みんなから笑われたんでしょ?」


「らしいな」


宣彦は、父から聞いた昔話を思い出す。


「父さんも最初は呆れたそうだ」


「なんて?」


「『サッシに猫の出入口を付けてどうする』って」


十和が笑った。


「やっぱり」


「気密性も落ちる。製造も面倒になる。技術の連中も最初は難色を示したらしい」


「でも、おじいちゃんは作らせた」


「ああ」


「試作にも認めたんだよね?」


「最後はな。『そこまで言うなら一度作ってみろ』って」


「それで売れた」


宣彦は頷いた。


「かなりの数が出た」


「今でも売ってる」


「ああ」


十和は少し笑った。


「換気フローラルも」


宣彦が再び苦笑する。


「あれもか」


住宅の高気密化が進み、窓を閉めた状態でも計画的に外気を取り込む給気口が普及し始めた頃。


六角サッシのある社員が、そこへ香りを加えることを思いついた。


外気取り込み口の内部に、香料を含ませる交換式のスポンジを設置。


小型ファンを使い、取り込んだ空気とともに香りを室内へ拡散する。


最初は社内でも、かなり変わった企画として扱われた商品だった。


「換気するついでに、部屋がいい匂いになったら面白いって、それだけだったんでしょ?」


「最初はな」


「おじいちゃん、何て言ったの?」


宣彦は少し考えた。


そして笑う。


「『うちはいつから香水屋になったんだ』だったかな」


「ふふっ」


十和が声を立てて笑った。


「でも、それも作らせた」


「ああ」


「今じゃ海外の一流ブランドとコラボまでしてるじゃん」


宣彦は何も言わなかった。


換気フローラルは、その後何度も改良された。


香料は専用カートリッジ化され。


風量調整も可能になり。


現在では海外の高級フレグランスブランドとの共同商品まで販売されている。


「お父さん」


「ん?」


「最近の六角サッシの商品ってさ」


少し間を置く。


「他のメーカーにもありそうなものばっかりじゃない?」


宣彦の表情が変わった。


「……どういう意味だ?」


「性能が悪いって言ってるんじゃないよ」


十和はすぐに付け加えた。


「むしろいいと思う。性能も上がってるし、使いやすくなってるし」


「なら――」


「でも」


十和は父を見る。


「面白くない」


宣彦は言葉を失った。


「……面白くない?」


「うん」


十和は頷いた。


「他のメーカーのカタログ見ても、似たようなのあるじゃん」


「それは市場の需要というものが――」


宣彦はそこまで言って、止まった。


十和は反論しなかった。


ただ父を見る。


「猫サッシとか換気フローラルってさ」


「……」


「最初は市場にないものだったんでしょ?」


「ああ」


「じゃあ、売れるかどうかなんて分からなかったんだよね」


「そうだな」


「それでも作った」


「……ああ」


十和は少し考える。


「今のみどりに、猫サッシの企画を出したらどうなるのかな」


宣彦の目が、わずかに動いた。


「猫を飼ってる家にしか売れないし、普通のサッシより作るの面倒だし、気密性能にも影響するし」


「……」


「換気フローラルだって、香りなんて人によって好き嫌いあるよね」


宣彦は答えなかった。


「市場にないものなら、売れるっていうデータもないんでしょ?」


「……そうだな」


「それでも、おじいちゃんは作らせた」


静かな書斎に、十和の声だけが響く。


「おじいちゃんだって、絶対に売れるって分かってたわけじゃないんでしょ?」


宣彦はしばらく考えた。


「……そうだろうな」


「じゃあ、なんで?」


宣彦は答えを探すように視線を落とした。


やがて。


「面白いと思ったんじゃないか」


十和が笑った。


「それじゃない?」


「何がだ?」


「今の六角サッシに足りないもの」


宣彦は娘を見る。


十和はそこで初めて、少しだけ視線を落とした。


「私、経営のことなんて分からないよ」


「……」


「売上とか利益とか。どうしたら会社が儲かるとか、そういうことも分からない」


そして、もう一度父を見る。


「でも昔の六角サッシの商品を見てると、作った人が楽しそうなんだよね」


宣彦は何も言えなかった。


「これ作ったら面白くない?」


十和は笑った。


「そんな感じがする」


宣彦の視線が、机の上の資料へ落ちる。


売上。


営業利益。


生産性。


需要予測。


どれも悪くない。


むしろ良い。


「八恵おばさんが言ってた」


十和が静かに続けた。


「昔の会社は無駄も多かったけど、たまにそこからイマジネーションが生まれたって」


「イマジネーション……」


「うん」


十和は頷く。


「今は安定してる。でも、安定してるって、ずっと勢いが続くって意味じゃないんじゃないかって」


宣彦は黙った。


十和は椅子から立ち上がった。


「お父さん」


「ん?」


「今の六角サッシから」


少しだけ間を置く。


「次の猫サッシとか、換気フローラルって生まれると思う?」


宣彦は答えなかった。


十和も答えを求めなかった。


「ごめん。仕事の邪魔したね」


「いや……」


「おやすみ、お父さん」


「ああ。おやすみ」


十和は書斎を出ていった。


扉が閉まる。


静寂が戻った。


宣彦は、しばらく動かなかった。


やがてノートパソコンへ視線を戻す。


画面には、みどりによる分析結果が表示されている。


業務効率。


生産性。


市場動向。


需要予測。


どの数字にも、大きな問題はない。


売上は伸びている。


利益も出ている。


業務効率も改善している。


間違っているはずがない。


それなのに。


――今の六角サッシから、次の猫サッシとか換気フローラルって生まれると思う?


十和の言葉が、頭から離れなかった。


宣彦の中に。


何かが落ちた。


ほんの一滴。


今まで考えもしなかったもの。


いや。


忘れていただけなのかもしれない。


父の時代には、確かにあったもの。


数字にも。


資料にも。


演算結果にも表れないもの。


宣彦は椅子へ深く身体を預けた。


その一滴が何なのか。


まだ、自分でも分からない。


ふと。


机の端に置かれていた資料へ目を向ける。


《六角グループ起業祭》


十一月十六日。


宣彦は、その文字をしばらく見つめた。


「……起業祭まで、もうすぐか」

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