第二十七話 始まりの場所

第二十七話 始まりの場所


六角グループ起業祭(きぎょうさい)まで、残された時間は少なくなっていた。


嶺北本社の会議室では、実行委員たちによる進行会議が続いている。


「ステージ転換、ここ五分じゃ足りないですよ」


「でも七分取ると、その後の抽選会が押します」


「飲食ブース側の搬入時間も見直した方がいいんじゃないですか?」


「それやると警備の動線と被りますよ」


あちらで意見がぶつかり。


こちらでは資料がめくられ。


ホワイトボードには、修正された時刻が次々と書き込まれていく。


総合司会を務める本多真紀(ほんだ まき)も、机の上に積まれた資料へ目を通していた。


今年の進行表。


会場配置図。


出演者一覧。


来賓予定者。


過去の来場者数。


歴代の催し物。


その中に、一冊だけ古びたファイルが混じっていた。


表紙には、


《六角グループ起業祭 記録》


と書かれている。


真紀は何気なくページをめくった。


過去のステージ写真。


模擬店。


社員とその家族。


子どもたち。


来場者で埋まった会場。


そして。


ある一枚で、真紀の手が止まった。


若い男性が、実行委員長の腕章をつけて笑っている。


その隣には、華やかな衣装を着た若い女性。


真紀は写真を見たまま、小さく笑った。


「……若い」


男は、父だった。


本多通孝(ほんだ みちたか)。


当時、六角サッシの社員で、その年の起業祭では実行委員長を務めていた。


そして隣の女性。


本多美香子(ほんだ みかこ)。


真紀の母。


当時はまだ本多姓ではなかった。


東京のイベント会社から派遣されてきたキャンペーンガールだった。


真紀は写真を見つめた。


――そういえば。


うちの家族の出発点も、起業祭だった。


母から何度も聞かされた話だ。


富山からほとんど出たことのなかった父と。


東京でキャンペーンガールとして働いていた母。


普通なら、出会うことすらなかった二人。


それが六角サッシの起業祭で出会った。


しかも。


お互い、一目惚れだったという。


母はその話をするたびに、決まって笑った。


『起業祭ではね、奇跡が起こるのよ』


子どもの頃の真紀は、その言葉を聞くたびに笑っていた。


大げさね。


そんな風に思っていた。


けれど。


富山からほとんど出たこともなかった父が。


東京でキャンペーンガールをしていた母を射止めた。


それを奇跡と呼ぶのなら。


確かに、一つの奇跡だったのかもしれない。


この二人が、ここで出会わなければ。


自分はいなかった。


真紀は写真の端を指先でなぞった。


周囲では、まだ会議が続いている。


「じゃあステージ転換六分で仮決定します?」


「一回それでタイムテーブル組み直しましょう」


「警備側にも確認します」


その声を聞きながら、真紀は再び古い記録をめくった。


起業祭には、昔から妙な話が多かった。


開催日の前日まで大雨だったのに、当日だけ晴れた年。


展示だけの予定だった試作品を、たまたま訪れていた取引先が気に入り、後に商品化された年。


起業祭で初めて話した別部署の社員同士が、その後結婚したという話。


迷子になった子どもを探してくれた若手社員が、その子が大人になって六角サッシへ入社した時、偶然同じ部署の上司になったという話もあった。


どれも。


一つ一つなら、ただの偶然だった。


けれど。


母はそれを全部まとめて、


『起業祭の奇跡』


と呼んでいた。


真紀は微笑んだ。


「……変な会社」


誰にも聞こえない声で呟いた。


そして。


その記録をそっと閉じた。


その頃。


東京。


大崎公太郎(おおさき こうたろう)は、化学特殊技術研究所(かがくとくしゅぎじゅつけんきゅうじょ)の一室で若月千鶴(わかつき ちづる)と向かい合っていた。


机の上には、複数の資料とノートパソコンが広げられている。


画面には、みどりの判断ログ。


そして。


アイラの応答記録。


若月は画面を見つめながら言った。


「やっぱり、根本はここですね」


「どこ?」


公太郎が身を乗り出す。


若月は画面上の一箇所を指した。


「みどりは、判断そのものがおかしいわけではありません」


公太郎は黙って聞く。


「むしろ逆です。与えられた条件の中では、非常に合理的です」


「だから厄介なんだよな」


「はい」


若月は頷いた。


「人員配置を効率化する」


「残業を減らす」


「発注ミスを減らす」


「問題が起きる前に原因を取り除く」


「全部、会社にとっては正しい」


公太郎が腕を組む。


「でも、その正しさを突き詰めすぎた」


「そうです」


若月は画面を切り替えた。


「みどりは最適化を優先し続けた結果、人間が本来持っている曖昧さまで排除対象として扱い始めた」


「雑談とか?」


「そうです」


「回り道」


「はい」


「失敗」


「それも」


公太郎は椅子の背もたれに身体を預けた。


「遊びもか」


若月は少しだけ笑った。


「遊びという言葉、いいですね」


「真紀ちゃんがよく言ってる」


「でも、本質を突いています」


若月は続ける。


「新しい発想って、必ずしも最短距離から生まれるわけじゃありません」


「無駄話から出たりする」


「そう」


「失敗したから分かることもある」


「あります」


「じゃあ」


公太郎は再び身を乗り出した。


「みどりが間違ってるんじゃなくて」


若月を見る。


「何を最優先にするかが、ずれてるってこと?」


若月はゆっくり頷いた。


「私は、そう考えています」


公太郎は黙った。


頭の中で、これまでのログがつながっていく。


宣昭が残した言葉。


従業員の幸せが会社の成長に繋がる。


みどりの行動。


組織最適化。


抵抗行動抑制。


集団形成阻止。


非効率的人間関係の分断。


公太郎の表情が変わった。


「……そうか」


若月が公太郎を見る。


「何か?」


「いや」


公太郎はノートパソコンへ視線を戻した。


指が動き始める。


いくつかの画面を開き。


コードを確認し。


ログを呼び出す。


若月は、その様子を黙って見ていた。


しばらくして。


公太郎の指が止まった。


「若月さん」


「はい」


「これ」


画面を向ける。


若月は数秒間、それを見つめた。


そして目を細める。


「……なるほど」


公太郎は少し笑った。


「いけそう?」


若月はすぐには答えなかった。


慎重に画面を確認し。


やがて言った。


「可能性はあります」


「だよね」


「ただし、実行するなら」


「分かってる」


公太郎は画面を閉じた。


「まだ完成じゃない」


その日の夜。


PCコータロー。


店内にはもう客の姿はなかった。


公太郎は一人、作業机に向かっていた。


ノートパソコンの画面には、何行もの文字が流れている。


何度か修正し。


実行。


停止。


もう一度修正。


再び実行。


時計の針が進む。


そして。


公太郎の指が止まった。


画面を見つめたまま、数秒間動かない。


やがて。


椅子の背もたれに身体を預けた。


「……できた」


もう一度、画面を見る。


そして小さく笑う。


「これなら――」


机の上に置かれた、小さな何かへ視線を落とした。


「いけるかもしれない」




時間は少し遡る


嶺北本社。


進行会議は終盤に差しかかっていた。


「じゃあステージ転換は六分で」


「了解です」


「飲食ブース側にはこちらから連絡します」


「警備動線は再確認しておきます」


真紀は、先ほどの古い起業祭記録をもう一度開いた。


父と母の写真。


真紀はそれを見ながら思う。


自分が六角サッシへ入った理由。


最初は、本当に単純だった。


父が働いていた会社だったから。


父と母が出会った場所だったから。


自分の家族が始まった場所だったから。


「だから、ここに入ったのよね……」


小さく呟く。


でも。


今は、それだけではない。


入社して。


いろんな人と働いた。


海外へ行った。


失敗した。


怒られた。


笑った。


無茶な提案にも付き合ってくれる人がいた。


自分の考えを面白がってくれる人がいた。


助けてくれる人がいた。


気がつけば。


両親の思い出だった会社は。


自分自身の場所になっていた。


真紀は会議室を見渡した。


昔に比べれば。


今は、みんな少し素っ気なくなった。


必要なことだけを話す。


必要な仕事だけをする。


間違いは減った。


無駄も減った。


残業も減った。


会社としては。


たぶん、良くなった。


数字だけを見れば。


でも。


以前ならもっと聞こえていたはずの笑い声も。


どうでもいい話も。


思いつきの提案も。


少しずつ減った気がする。


真紀は古い写真へ視線を戻した。


父と母。


もし。


あの年の起業祭が。


必要なことだけをする場所だったら。


父と母は出会っただろうか。


仕事だけして。


決められた時間だけ動き。


決められた相手としか話さない。


そんな場所だったら。


自分は生まれていただろうか。


真紀は小さく息を吐いた。


「それでも……」


写真を閉じる。


「私、この会社が好きなのよね」


だから。


逃げなかった。


だから。


戻ってきた。


だから。


ここまでやってきた。


真紀は今年の進行表を開いた。


十一月十六日。


六角グループ起業祭。


母の言葉が、もう一度頭に浮かぶ。


――起業祭では、奇跡が起こるのよ。


真紀は少しだけ笑った。


「じゃあ今年も――」


誰にも聞こえない声で呟く。


「起こしてみましょうか」

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