第二十九話 前日

第二十九話 前日


PCコータローの作業スペースには、一定の間隔でキーボードを叩く音だけが響いていた。


モニターには、いくつものウィンドウが開かれている。


大崎公太郎(おおさき こうたろう)は椅子に深く腰掛けたまま、画面に表示された数値をじっと見つめていた。


しばらくして。


最後の処理が終了した。


公太郎はマウスから手を離し、大きく息を吐いた。


「よし……」


もう一度、画面を確認する。


問題はない。


「何とか間に合った」


机の上に置かれていた小さな物を手に取る。


それをしばらく見つめたあと、公太郎は机の引き出しを開けた。


中には、すでに用意されている物がある。


公太郎は手にしていた物を、その隣へそっと置いた。


引き出しを閉める。


「これで……あとは」


そこで言葉を止めた。


公太郎は椅子にもたれ、天井を見上げた。


――その頃。


富山県嶺北市(とやまけんれいほく)しは、すでに普段とはまったく違う姿を見せていた。


駅前には、六角グループ起業祭を知らせる旗が並んでいる。


商店街の店先にもポスターが貼られ、飲食店には普段より多くの客が入っていた。


駅の改札からは、次々と人が出てくる。


家族連れ。


若い男女。


大きなキャリーバッグを引く者。


首からカメラを下げた者。


聞こえてくる言葉も様々だった。


関西の方言。


東北の方言。


九州の方言。


遠方から訪れた人々が、翌日に迫った起業祭きぎょうさいを目当てに嶺北市へ集まり始めている。


街全体が、すでに祭りの空気に包まれていた。


駅前の観光案内所には、最新版の起業祭パンフレットが山積みにされている。


表紙には、


『六角グループ起業祭』


の文字。


ページをめくれば、会場案内。


出店一覧。


イベントスケジュール。


六角グループ各社の紹介。


そして、今年の起業祭を彩る人物たちの紹介ページが続く。


六角サッシ株式会社代表取締役社長。


六波羅宣彦(ろくはら のぶひこ)。


その紹介ページから、さらに数ページ後。


大きな写真とともに、ひときわ目立つ人物が掲載されていた。


『総合司会(そうごうしかい) 本多真紀(ほんだまき)』


海外販促チームでの勤務経験。


海外展示会での実績。


語学力。


六角サッシの社員として積み重ねてきた経歴が、簡潔にまとめられている。


紹介に割かれている紙面は、六波羅社長とほとんど変わらない。


今年の起業祭の顔。


そう呼んでも不思議ではない扱いだった。


その頃、六角サッシ嶺北本社。


起業祭実行委員会(きぎょうさいじっこういいんかい)が使用している部屋の前で、一人の男が足を止めた。


六波羅宣彦だった。


扉の向こうからは、慌ただしく人が動く気配がする。


明日の最終確認。


進行表。


出店配置。


各部署との連絡。


実行委員たちにとって、今日は一年でもっとも忙しい日のひとつだった。


宣彦は隣に立つ秘書へ視線を向けた。


「松井」


「はい」


女性秘書が顔を上げる。


胸元のネームプレートには、


『秘書課(ひしょか) 松井莉緒(まついりお)』


と記されていた。


宣彦は扉を見た。


「少し時間をもらって、実行委員のみんなを激励できないかな」


松井は手にしたタブレットへ視線を落とした。


画面を数度操作する。


数秒後。


「急な予定変更は……推奨されておりません」


宣彦は苦笑した。


「やっぱりそうか」


松井はタブレットから顔を上げる。


「ですが、社長のお気持ちは伝わっていると思います」


「そうかな」


「はい」


松井は扉の向こうへ目を向けた。


「それに、司会があの本多真紀ほんだ まきですので」


宣彦が松井を見る。


「皆の思いは、きっと拾ってくれるはずです」


宣彦は少しだけ考えたあと、頷いた。


「……そうか」


そして、柔らかく笑った。


「それなら信じよう」


宣彦は再び歩き出そうとして、ふと足を止めた。


「そういえば松井」


「はい」


「確か君、本多くんとは同期だったな」


一瞬。


松井の表情が変わった。


「ご存じでしたか?」


「まあね」


「恐れ入ります」


宣彦は小さく笑う。


「あの世代は目立ってたからね」


松井も、ほんの少しだけ笑った。


「……そうかもしれません」


それ以上、二人は話さなかった。


宣彦と松井は、そのまま廊下の奥へ歩いていく。


実行委員会の部屋からは、変わらず慌ただしい声が聞こえていた。


そして。


その中心にいる女性のもとへ、一件の連絡が入る。


専務室へ来るように。


送り主は――森村豊一(もりむら とよかず)。


本多真紀は、しばらく画面を見つめた。


やがて立ち上がる。


「少し外します」


周囲の実行委員へそう告げ、部屋を出た。


廊下を歩く。


明日の起業祭を目前に控え、本社内も普段以上に人の出入りが多い。


誰もが忙しそうに動いている。


その中を、真紀だけが一定の速さで歩いていた。


やがて専務室の前へ到着する。


ノック。


「本多です」


「入れ」


扉を開ける。


森村は机の向こうに座っていた。


「失礼します」


真紀は森村の前へ立つ。


「明日だな」


「はい」


「起業祭」


「そうですね」


森村は椅子にもたれた。


「総合司会とは、随分と出世したじゃないか」


真紀は表情を変えない。


「会社から任された仕事ですので」


「相変わらずだな」


森村は鼻で笑った。


「何がですか?」


「そういうところだよ」


森村は机の上で指を組んだ。


「自分は何でもできますって顔をしている」


「そのようなつもりはありません」


「海外販促でも目立って、今度は起業祭の顔か」


「私が決めたことではありません」


「だろうな」


森村は真紀を見た。


「みどりが決めた」


真紀は黙っている。


森村は続けた。


「お前も分かっていると思うが、明日は余計なことをするなよ」


真紀の目がわずかに細くなった。


「余計なこと、とは?」


「分かるだろ」


「分かりません」


即答だった。


森村の眉が動く。


「明日は社外からも大勢来る。取引先もいる。報道関係者もいる。会社の名前を背負ってステージに立つんだ」


「承知しています」


「だったら、司会だけしていろ」


真紀は森村を見つめた。


「私は総合司会として、起業祭を成功させるために仕事をします」


「それだけでいい」


「そのつもりです」


「本多」


森村の声が低くなる。


「勘違いするなよ」


真紀は動かなかった。


「会社は、お前一人のものじゃない」


数秒。


真紀は森村を見つめたあと、静かに答えた。


「当然です」


「……何?」


「六角サッシは、私一人の会社ではありません」


森村の表情が固まる。


真紀は続けた。


「専務一人の会社でもありません」


部屋の空気が止まった。


森村は真紀を睨む。


しかし。


真紀は視線を逸らさない。


「それでは、明日の準備がありますので」


一礼する。


「失礼します」


「おい、本多」


真紀は振り返らなかった。


そのまま扉を開け、専務室を出ていく。


扉が閉まる。


森村はしばらく、その扉を睨んでいた。


やがて椅子へ深く座り直す。


「本多真紀……」


小さく呟く。


「本多先輩の娘か……」


そして。


「生意気だな!俺を誰だと思ってる?美人だけど、あの態度は気に入らねえ。調子に乗りやがって!」


誰もいない専務室に、その声だけが残った。



その頃

東京の都心にある新築現場


「佐々木ちゃん、今日はここまでにしとくよ」


「わかりました。残りは明日以降ですね」


「そうだな。もう上がろう」


敬之は残された作業へ目を向けた。


「佐々木ちゃん、これ一人でもできる?」





例年以上に、さまざまな想いを乗せた起業祭が、明日、幕を開ける。

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