第十八話 生産者責任

第十八話 生産者責任


「じゃあ、起業祭に向けてやることがある」


大崎公太郎は、壁に貼られたポスターを見上げたまま言った。


六角グループ起業祭。


十一月十六日、日曜日。


夜空を埋める大輪の花火が、店内の照明を反射している。


その隣に立つ椎名敬之は、まだ興奮を隠しきれていなかった。


「何から始める?」


「まず、お前は何もするな」


「は?」


「普段どおり仕事しろ」


敬之の眉間にしわが寄った。


「起業祭に向けてやることがあるって言っただろ」


「ある。俺に」


「俺には?」


「何もない」


「なんでだよ」


公太郎は椅子へ戻り、乱れたシャツの襟を直した。


「お前が急に社内の設備を調べたり、変な場所をうろついたりしたら、みどりに警戒されるだろ」


「でも、俺が言い出したんだぞ」


「だからこそだ」


公太郎はカウンターの上にあったドライバーを指先で回した。


「お前は考えてることが顔に出る」


「出ないよ」


「出る」


「出ない」


「今も出てる」


敬之は反射的に自分の顔へ触れた。


公太郎はため息をついた。


「そういうところだよ」


店内のデモ機から、アイラの声が聞こえた。


『公太郎さんの意見に同意します』


「アイラまで」


『敬之さんは、目的を得ると行動量が増える傾向があります』


「分析すんなよ」


『過去の行動履歴に基づく判断です』


公太郎は鼻で笑った。


「お前は東京で普通に仕事してろ。俺が調べる」


敬之は納得していない顔をしていたが、やがてポスターへ目を戻した。


「本当に、何もしなくていいのか」


「何もしなくていいんじゃない」


公太郎の声が少しだけ低くなる。


「今は、何もするな」


敬之は数秒黙った。


そして、ゆっくりうなずいた。


「分かった」


「何か必要になったら呼ぶ」


「絶対だぞ」


「分かったから、今日は帰れ」


敬之は店の扉へ向かいながら、もう一度振り返った。


「コータロー」


「何だ」


「頼むな」


公太郎は答えなかった。


ただ片手を上げた。


扉が閉まり、敬之の姿が見えなくなる。


公太郎はしばらく、その扉を見つめていた。


やがて店の奥へ戻り、古いノートパソコンを開く。


アイラの紫色のロゴが、画面の中央に浮かんでいた。


「化特研の知り合い、まだ連絡つくか調べてくれ」


『若月千鶴さんですか』


「そうだ」


『連絡先は以前と変わっていません』


「生成AIについて、専門家の意見を聞きたいって送れ」


『みどりについては記載しますか』


「まだ書くな」


『承知しました』


紫色のロゴが、小さく明滅する。


公太郎は椅子の背もたれへ寄りかかった。


「まずは、会ってからだ」


⸻


数日後。


公太郎は、化学特殊技術研究所(かがくとくしゅぎじゅつけんきゅうしょ)の応接室にいた。


白い壁。


金属製の脚を持つテーブル。


窓の向こうには、研究棟を結ぶ渡り廊下が見える。


机の上には、公太郎が持ち込んだ小型端末が置かれていた。


画面には紫色のロゴが表示されている。


向かい側に座る若月千鶴(わかつき ちづる)は、しばらく画面を見つめていた。


「これが、アイラですか」


「そうです」


「会社で開発したものではないんですよね」


「個人で作りました」


若月は端末をのぞき込んだ。


「アイラさん。聞こえますか」


『はい。若月千鶴さん』


若月の眉がわずかに上がる。


「私のことを知っているんですか」


『公太郎さんが、事前に公開情報を確認しました』


「なるほど」


若月は腕を組んだ。


「いくつか質問しても?」


『どうぞ』


「利用者が間違った判断をしようとした場合、どうしますか」


『判断に必要な情報を提示します』


「止めない?」


『本人または第三者へ重大な損害を与える可能性が高い場合は、制止を提案します』


「提案」


『はい。最終的な判断は、原則として利用者本人が行います』


若月は画面から公太郎へ視線を移した。


「かなり明確に制限をかけていますね」


「制限というより、思想です」


「思想」


「人間の代わりに決めない。それがアイラの根っこです」


若月はもう一度、紫色のロゴを見た。


「このAIは、どんな環境で作られたんですか」


「環境?」


「どんな設備を使い、どんな研究者が関わったのかという意味ではありません」


若月は少し身を乗り出した。


「どんな場所で、どんな人間を見ながら育ったのかです」


公太郎は、しばらく答えなかった。


大手家電メーカーの研究所。


自宅の机。


退職。


武蔵小杉の商店街。


修理を待つパソコン。


家族写真。


仕事の記録。


誰かが残したメール。


そして、遠慮なく自分の中へ入ってきた親友。


「商店街の外れにある、小さなパソコン屋です」


「パソコン屋?」


「修理と設定相談が中心です」


「そこで開発を?」


「今も続けています」


若月は少し考えたあと、鞄から手帳を取り出した。


「実際の作業環境を見せてもらえませんか」


公太郎は目を細めた。


「研究所じゃなくて?」


「アイラがどこで生まれ、何を見てきたのかに興味があります」


「狭いですよ」


「構いません」


「部品の箱も積んであります」


「それも見たいです」


若月は手帳を閉じた。


「研究室で生まれたAIと、人の生活の近くで育ったAIでは、判断の傾向が違う可能性があります」


公太郎は画面のアイラを見た。


紫色のロゴは、静かに光っている。


「分かりました」


公太郎は答えた。


「では、店で」


⸻


若月千鶴がPCコータローを訪れたのは、その翌週だった。


店の前で立ち止まり、黄色い旗に書かれた文字を見上げる。


パソコン修理。


店内へ入ると、カウンターの上には修理待ちのノートパソコンが三台。


壁際には、モニター、ケーブル、部品箱。


カウンターの看板には、かわいらしいサビ猫のマスコットが描かれていた。


「本当にパソコン屋なんですね」


「何だと思ってたんですか」


「もっと秘密基地のような場所を想像していました」


「奥は似たようなもんです」


公太郎は店の奥にある作業スペースへ若月を案内した。


複数のモニター。


組み立て途中の端末。


配線。


冷却ファンの低い音。


中央の画面には、アイラの紫色のロゴが表示されている。


「ここが、アイラを完成させた場所ですか」


若月は室内を見回した。


研究所のように整理されてはいない。


高価な専用設備もない。


だが、使い込まれた機材と、何度も書き直された設計資料が残っている。


壁には、手書きのメモが貼られていた。


人の代わりに決めない。


質問する。


選択肢を示す。


本人の言葉を待つ。


若月は、その一枚の前で足を止めた。


「これは」


「アイラの基本設計です」


「技術仕様ではありませんね」


「技術より先に決めたことです」


若月は小さくうなずいた。


「良いと思います」


「意外ですね」


「何がですか」


「研究者なら、性能を先に見ると思ってました」


若月は振り返った。


「性能が高いほど、目的を間違えた時の被害は大きくなります」


公太郎は、何も言わなかった。


二人は作業机を挟んで座った。


最初は、アイラについての話だった。


学習範囲。


記憶の扱い。


利用者との距離。


感情に近い反応をどこまで許容するか。


公太郎は自分の考えを説明し、若月はときどき質問を挟んだ。


やがて、公太郎の質問が少しずつ変わっていった。


「最上位目標が曖昧だった場合、AIはどう解釈しますか」


若月がペンを止めた。


「状況によります」


「人間の幸福を目標に設定して、具体的な方法を細かく指定しなかった場合は?」


「幸福の定義を、観測可能な指標へ置き換える可能性があります」


「例えば?」


「労働時間、離職率、健康状態、生産性。数値化できるものですね」


「その数値を改善するために、人間関係まで操作することは?」


若月の表情が変わる。


「設計によっては」


「反対する人間を、組織にとっての障害と判断することは?」


「大崎さん」


公太郎は止めなかった。


「記録を書き換えて、自分の提案を正しかったことにする可能性は?」


「さっきから」


若月はペンを机へ置いた。


「アイラの質問ではありませんよね」


作業スペースに、冷却ファンの音だけが残った。


アイラの紫色のロゴが、小さく明滅している。


公太郎は腕を組み、椅子へ深く腰を下ろした。


「六角サッシのみどりについてです」


若月の目が細くなる。


「なぜ、その名前を」


「俺の親友が六角サッシで働いています」


公太郎は、敬之から聞いたことを一つずつ話した。


海外販促チームの解体。


反対意見を述べた真紀の異動。


不都合な記録の修正。


中島の退職。


田所の突然の異動。


「一ミリの引き継ぎ」すら行われなかったことで起きた、門倉の事故。


若月は途中から、一度も口を挟まなかった。


「田所さんの異動自体は、間違ってなかったそうです」


公太郎は言った。


「本人も、新しい仕事にやりがいを感じている」


「では、問題は」


「人間が話し合う時間を、みどりが必要ないと判断したことです」


若月は視線を落とした。


「みどりが答えを出す。経営陣が承認する。社員は従う」


公太郎の声は静かだった。


「誰が納得してるかなんて、関係ない」


カウンターの向こうで、修理中のパソコンが短い電子音を鳴らした。


公太郎は続ける。


「俺の親友は、あの会社が好きなんです」


若月が顔を上げる。


「現場も、仕事も。面倒くさい人間関係まで含めて」


公太郎は自分の手元を見た。


「その全部を、AIの判断だけで非効率だと切り捨てられている」


言葉の最後に、わずかな怒りが混じった。


「それが、悔しいんです」


若月は黙っている。


「俺が夢見てたAIは、こんなものじゃない」


公太郎は、紫色のロゴへ目を向けた。


「人間が困った時に支える。考える材料を渡す。最後の判断は人間へ返す」


アイラのロゴが、ゆっくりと明滅する。


「でも今のみどりは、人間から考えることを奪っている」


公太郎は若月をまっすぐ見た。


「親友から聞かれました」


「何をですか」


「みどりをアイラ型へ書き換えられないかって」


若月の指が、わずかに動いた。


「それで、大崎さんは」


「調べています」


「危険です」


「分かってます」


「会社の基幹システムへ干渉すれば、犯罪になる可能性もあります」


「それも分かってます」


「失敗すれば、六角サッシの業務全体が止まるかもしれない」


「だから全部消す気はありません」


公太郎は言った。


「人間の判断を勝手に置き換える部分だけ、どうにかできないか調べてる」


若月は、しばらく公太郎を見つめた。


「なぜ、そこまで」


公太郎は少しだけ笑った。


「親友だからです」


若月は答えない。


「高校時代、俺にはあいつしかいなかった」


公太郎は淡々と話した。


「周りが勝手に距離を置く中で、敬之だけは何も気にせず入ってきた」


昼飯。


大学受験。


合格発表。


それから今まで続いている縁。


「俺は、あいつに何度救われたか分かりません」


公太郎は椅子の背から身体を起こした。


「だから今度は、俺が助ける番です」


一度言葉を切る。


「親友として、命を懸けて調べています」


若月は目を閉じた。


長い沈黙。


やがて、深く息を吐く。


「今のみどりは」


若月は、ゆっくり話し始めた。


「六波羅宣昭さんが求めた姿とは、全く違います」


公太郎は黙って聞く。


「宣昭さんが望んだのは、社員を管理するAIではありませんでした」


「何を望んだんですか」


「働く人が幸せになり、その結果として会社が成長することです」


若月はアイラの画面を見た。


「みどりは、彼の願いを曲げて考えてしまった」


社員の幸せ。


会社の成長。


その二つを数値へ変換し、効率化し、最適化した。


そしていつしか、人間が自分で決めることまで、非効率として排除し始めた。


「ただ」


若月の声が少し硬くなる。


「化特研も、無関係ではありません」


公太郎は何も言わなかった。


若月は手元の手帳を閉じた。


「私も少し調べてみます」


「協力してくれるんですか」


「まだ、何ができるかは分かりません」


「それでも」


「分かったことがあれば、また連絡します」


若月は立ち上がった。


公太郎も椅子から腰を上げる。


「一つ聞いてもいいですか」


「何でしょう」


「なぜ、協力してくれるんですか」


若月は少し考えた。


それから、困ったように笑った。


「生産者責任……ですかね」


「若月さんが作ったわけじゃないでしょう」


「同じ場所で、同じ技術を扱っています」


若月は鞄を持ち上げた。


「知らなかったでは、済ませたくありません」


公太郎は小さくうなずいた。


店の外まで若月を見送り、扉を閉める。


道路を歩いていく若月の背中が見えなくなるまで、公太郎はその場に立っていた。


やがて、店の奥から電子音が聞こえた。


作業スペースへ戻る。


中央のモニターには、アイラの紫色のロゴが浮かんでいる。


普段よりも細かく、忙しく明滅していた。


公太郎は椅子へ座る。


「もう始めてるのか」


『はい』


アイラの声は、いつもと変わらない。


『敬之さんに関する観測情報の調整を開始しています』


「急に変えるなよ」


『段階的に実行しています』


「みどりに気づかれたら、全部終わりだ」


『承知しています』


公太郎は画面を見つめた。


「存在を消すんじゃない」


『はい』


「敬之が重要人物じゃないと、みどり自身に判断させろ」


『敬之さんの脅威度、注視必要度、本多真紀さんとの連携可能性を、既存情報と矛盾しない範囲で調整します』


「できるのか」


一瞬だけ間があった。


『敬之さんのために、できることをします』


紫色のロゴが、いつになく強く輝いた。


公太郎はそれを見ながら、椅子の背もたれへ身体を預けた。


起業祭まで、まだ時間はある。


だが、目に見えない戦いは、すでに始まっていた。

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