第十七話 一ミリの引き継ぎ


第十七話 一ミリの引き継ぎ


八月に入ってから、東京は連日の猛暑に見舞われていた。


午前中の現場巡回を終えて東京支社へ戻った椎名敬之(しいな たかゆき)は、自分の席へ腰を下ろすなり、冷房の風を求めるようにシャツの襟元を引いた。


机の向かいでは、佐々木智子(ささき ともこ)が施工図を広げている。


最初の頃は敬之の行動ばかりを気にしていた佐々木も、最近は図面と現場写真を見比べている時間の方が長くなっていた。


「椎名さん」


「ん?」


「ここの寸法なんですけど、躯体からの寸法と、サッシ芯からの寸法が混ざってませんか?」


敬之は椅子を寄せ、佐々木が指した箇所をのぞき込んだ。


「これは躯体から。こっちはサッシ枠の外面からだな」


「同じ寸法線に見えるんですけど」


「だから間違いやすいんだよ。図面だけ見て決めないで、詳細図と納まり図も一緒に確認する」


佐々木は小さくうなずき、赤ペンで図面へ印をつけた。


そのとき、敬之のパソコンに社内通知が表示された。


件名は短かった。


嶺北工場における設備事故について


敬之の指が止まる。


通知を開くと、事故の概要が簡潔に記されていた。


嶺北工場の加工ラインにおいて、NC長尺加工機の刃先が材料固定用のクランプに接触。破損した刃先の一部が飛散し、作業者一名が左前腕を負傷した。


負傷者の氏名は、門倉直也(かどくら なおや)。


命に別状はなく、後遺症が残る可能性も低い。


その一文を読んでも、敬之の胸は軽くならなかった。


門倉。


以前、嶺北工場へ行った際に見かけた若い工員だった。


加工機のプログラムを確認しながら、


「みどり入れてないんですか?」


と、田所へ尋ねていた男。


敬之は通知を下まで読み進めた。


事故原因については現在調査中。


ただし暫定報告として、


加工位置の補正値を作業者が手入力した際、刃先の移動範囲を誤認した可能性がある


と記されている。


さらに、その下には、みどりによる推奨対応が表示されていた。


《当該作業者に対し、NCプログラム入力および設備安全操作に関する再教育を実施してください》


敬之は無意識に、机の上へ手を置いた。


指先に力が入る。


門倉は、田所の立ち会いのもとで何度も加工機を操作していたはずだ。


全く経験のない人間ではない。


それなのに、事故は起きた。


「……再教育って」


敬之の口から、低い声が漏れた。


佐々木が顔を上げた。


「どうかしましたか?」


「いや」


敬之は画面を閉じなかった。


机の引き出しを開け、必要な資料を取り出す。閉めたとき、いつもより大きな音がした。


佐々木は一度だけ敬之を見た。


だが、何も聞かなかった。


机の上には、施工図、工程表、現場写真が広げられている。


「躯体がこっちで……サッシ枠がこっち」


佐々木は小さく確認しながら、再び図面へ視線を落とした。


敬之の機嫌を観察するより、自分の仕事を覚えることで手いっぱいなのだろう。


少し前までなら、その態度に違和感を覚えたかもしれない。


今は、むしろその方がありがたかった。


午後四時を過ぎた頃、敬之の携帯が震えた。


表示された名前を見て、敬之は席を立つ。


田所正一(たどころ しょういち)。


人の少ない非常階段へ移動し、通話ボタンを押した。


「もしもし、田所さん」


『椎名、今ちょっといいか』


「大丈夫です」


電話の向こうで、田所が一度息を吐いた。


『いや……別に、大した話じゃねえんだけどよ』


その言い方で、大した話なのだと分かった。


敬之は急かさず、黙って続きを待った。


『門倉のこと、聞いたか』


「さっき社内通知で」


『そうか』


声が沈む。


だが田所は、すぐに門倉の事故について話し始めなかった。


『俺の今の仕事なんだけどな』


「新人の技術指導でしたっけ」


『ああ。月曜から水曜までは、新しく工場に入った奴らを預かってんだ』


田所の声が、少しだけ明るくなる。


『派遣で来た奴も、六角が募集した契約社員もいる。海外から日本のサッシを学びに来た実習生もな』


「海外の人にも教えてるんですか」


『最初の三日間は全員一緒だ。工具の持ち方から、保護具の意味、材料の固定、機械を止める判断まで、みっちり叩き込む』


「田所教室ですね」


『誰が言い始めたか知らんが、最近は本当にそう呼ばれてる』


田所が照れたように笑った。


『三日で一人前になるわけじゃねえ。そのあと各ラインへ配属されて、先輩について仕事を覚える。俺も木曜と金曜は工場ん中を回って、危ねえ使い方してないか、変な癖がついてないか見てんだ』


「新人がいない週も?」


『ずっと巡回だ。加工で詰まってる奴がいりゃ一緒に見るし、教えてる先輩が省略してるところがあれば止める』


敬之は、電話の向こうにいる田所の姿を想像した。


機械の前に立ち続けていたベテランが、今は工場のあちこちを歩き回り、若い工員たちへ声をかけている。


『最近な、実習生の国の言葉まで少し覚えてんだ』


「田所さんが?」


『笑うな。危ない、止まれ、もう一回。その程度だけどよ。咄嗟のときに日本語が通じなかったら意味ねえだろ』


「誰に教えてもらってるんですか」


『本人たちだよ。休憩中に聞いてんだ。俺が言うと、発音が違うって笑いやがる』


敬之も思わず笑った。


「田所さん、楽しそうですね」


電話の向こうで、少し間があった。


『まあな』


田所は、照れを隠すように咳払いをした。


『若い奴が何考えてるかなんて、最初は分からんかったけどよ。物言わねえ機械より、相手するのは簡単だ。分からなきゃ聞けばいいんだからな』


「田所さんに向いてたんですね」


『俺もまだ、覚えることがあるらしい』


その声は、確かに生き生きとしていた。


田所の異動は、間違っていなかった。


みどりは田所の経験と性格を分析し、新人技術指導官という役割を導き出した。


実際、田所は新しい場所で力を発揮している。


多くの新人が、田所から基礎と安全を学んでいる。


それは、良いことだった。


『……ただ、門倉のことがな』


声の明るさが消えた。


敬之は階段の手すりへ背を預けた。


『あいつ、何度も俺の横であの加工機を動かしてたんだ』


「はい」


『プログラムも組める。操作もできる。だから大丈夫だと思ってた』


田所は言葉を探すように、ゆっくり続けた。


『あの長尺加工機はな、あの形材を加工するとき、図面どおりの補正じゃ寸法が少し小さく出る癖がある』


「機械の癖ですか」


『そうだ。だから俺は、右へ一ミリ逃がして入力してた。そうすりゃ狙った寸法になる』


敬之は眉を寄せた。


「門倉さんは、それを知らなかった?」


『知らなかったんだろうな』


田所の声がかすれた。


『加工した形材を測って、数値より小さいことに気づいた。それで自分でプログラムを手入力して補正した』


「そのときに、刃先がクランプへ……」


『ああ』


田所は短く答えた。


『右へ一ミリ逃がすなんて、俺には当たり前だった。何年もそうやってきたからな』


沈黙が落ちた。


『門倉も知ってるつもりになってた』


田所は、自分へ言い聞かせるように続けた。


『教えたつもりになってたんだ』


敬之は、すぐに「田所さんのせいじゃない」とは言えなかった。


田所は慰めてほしくて電話してきたのではない。


自分の中に残ったものを、誰かへ話したかったのだ。


上司へ話せば責任問題になる。


同僚へ話せば言い訳に聞こえる。


それでも、黙ったままでは抱えきれなかった。


「田所さん」


『おう』


「田所さんの異動が、間違ってたわけじゃないと思います」


田所は何も言わない。


「今、田所さんが教えてる新人たちは、田所さんがいるから怪我をしないで済むかもしれない」


『……ああ』


「田所さんが機械の前に残ってたら、門倉さんの事故はなかったかもしれない。でも、その代わり、別の誰かが別の場所で怪我をしてたかもしれない」


田所は黙って聞いていた。


「ただ」


敬之は、閉じた非常階段の扉を見つめた。


「門倉さんへ、全部渡す時間が足りなかったんじゃないですか」


電話の向こうで、田所が小さく息を吸った。


「異動するかどうかだけじゃなくて、いつ異動するのか。何を残していくのか。そういう話をする時間が、なかったんじゃないですか」


長い沈黙のあと、田所が低く答えた。


『そうかもしれんな』


「田所さんの一ミリは、田所さんにしか分からない一ミリだったんですよ」


『……俺が言葉にしなきゃ、誰にも分からんよな』


「門倉さんが戻ってきたら、今度は教えてあげてください」


『そうだな』


田所の声が、ほんの少しだけ戻った。


『悪かったな、変な話聞かせて』


「いつでも電話してください」


『お前は昔から、年寄りの話を聞くのだけは上手いな』


「田所さん、まだ年寄りじゃないでしょう」


『そういうところだよ』


通話が切れたあとも、敬之はしばらく非常階段に残った。


田所の異動は適正だった。


その事実は否定できない。


本人も新しい仕事にやりがいを感じ、工場へ入る新人たちに基礎を叩き込んでいる。


みどりの判断は、正しかったのかもしれない。


だが、正しい答えが出たからといって、なぜ人間がすぐに従わなければならないのか。


本人と話す時間は必要ないのか。


後任へ大事なものを引き継ぐ猶予も与えられないのか。


人がその場所で何年も積み上げたものを、数値へ置き換えた瞬間、すべて移動できると思っているのか。


中島は会社を去った。


門倉は左腕を負傷した。


会社が中島とじっくり話していれば、辞めずに済んだかもしれない。


田所と引き継ぎの期間を相談していれば、門倉の事故も防げたかもしれない。


みどりが答えを出す。


経営陣が承認する。


そして社員は、すぐに従わされる。


その間に、人間の言葉がなかった。


「気持ちが伝わってこないんだよ。今の会社は」


誰もいない階段に、敬之の声が落ちた。


田所の異動が間違っていたのではない。


異動させ方が、間違っていたのだ。


終業時刻を過ぎても、敬之の苛立ちは収まらなかった。


しかし現場では、みどりに対する評判は悪くなかった。


むしろ逆だった。


不足している材料は、現場から催促する前に手配される。


納期の遅れが出そうになれば、代替案が提示される。


職人からの問い合わせにも、以前より早く答えが返ってくる。


現場で働く者たちにとって、みどりは自分たちを縛る存在ではなく、仕事を楽にしてくれる便利な支援AIだった。


それは、六波羅宣昭が最後に残した言葉と無関係ではない。


社員だけではない。


その家族。


取引先。


協力会社。


そして顧客。


六角サッシに関わる人々を幸せにすること。


みどりは、その言葉を今も命令として保持している。


だから現場では、人を困らせない。


職人を待たせない。


仕事を止めない。


少なくとも、外から六角サッシに関わる者たちに対しては、その理念は今も素直な形で機能していた。


だが――。


六角サッシの中にいる人間に対しては、少し違った。


人を幸せにする。


会社を成長させる。


利益を上げる。


そのすべてを同時に満たそうとした結果、みどりは次第に、人間が何を望むかよりも、何を選ぶべきかを判断するようになっていた。


配置。


異動。


評価。


行動。


そして、本人の意思。


みどりにとっては、それもすべて最適化の対象だった。


善意から始まった命令は、現場では支援として残り。


社内では、いつの間にか支配へと姿を変えつつあった。


そんなことを考えながら、敬之は自分の席へ戻った。


佐々木は相変わらず図面と格闘している。


「佐々木さん」


「はい」


「もう時間過ぎてるぞ」


佐々木は時計を見て、慌てて資料をまとめ始めた。


「すみません。ここだけ確認したくて」


「明日でいい。疲れた頭で見ても間違えるから」


「はい」


敬之は鞄を肩へ掛けた。


いつもならそのまま西小山の家へ帰る。


だが、その日は駅へ向かわなかった。


夕暮れの街を歩き、PCコータローの扉を開ける。


店内には、古いパソコンやモニター、部品の箱が所狭しと並んでいた。


カウンターの奥にいた大崎公太郎は、敬之の顔を見るなり、手にしていたドライバーを置いた。


「どうした」


いつもの軽口はなかった。


敬之はカウンターの前へ立ち、田所と門倉のことを話した。


中島が会社を去ったことも。


みどりが出した答えを、会社がそのまま命令へ変えていることも。


公太郎は口を挟まず、最後まで聞いた。


「田所さんの異動は合ってたんだよ」


敬之は言った。


「今の仕事に向いてる。本人も楽しそうだった」


「なら、何が問題なんだ」


「すぐ動かしたことだ」


敬之はカウンターへ両手をついた。


「話す時間も、引き継ぐ時間もなかった。みどりが適性を出したら、それがすぐ会社の答えになる」


公太郎は腕を組んだ。


「中島さんも門倉も、そうやって会社からこぼれた」


「それで?」


敬之は少し黙った。


そして、低い声で言った。


「前も言ったけど……みどりをアイラに書き換えることって、できないのか?」


公太郎はすぐには答えなかった。


椅子へ深く腰を下ろし、天井を見上げる。


「完全にみどりを消し去るのは、到底無理だ」


敬之の表情がわずかに曇った。


「けど」


公太郎は続けた。


「全部じゃなくて、一部なら話は別だ」


「一部?」


「人間の判断を勝手に置き換える部分。記録を都合よく修正する部分。答えを出したら、すぐ実行へ移す部分」


公太郎はカウンターの上に置かれた古いノートパソコンへ目を向けた。


「そこをアイラ型の判断へ書き換えられれば、今の暴走は治まるかもしれん」


敬之の目が大きく開く。


「できるのか?」


「技術的には、いけそうだけどな」


「本当か?」


「技術的には、だぞ」


公太郎は念を押した。


「相手があのみどりだ。どこまで自分を守る仕組みを持ってるか分からん。書き換える入口もまだ見つけてない」


「でも、可能性はあるんだろ?」


「今は色々検討してる段階だ」


敬之は数秒、公太郎の顔を見つめた。


次の瞬間、カウンターの内側へ回り込む。


「コータロー、サイコー!」


「うわっ、やめろ!」


高校時代から変わらない勢いで、公太郎へ抱きつく。


「やっぱりお前、最高だよ!」


「まだ技術的にはって段階だぞ!」


公太郎は敬之の腕を振りほどいた。


「結構時間かかるかもしれんし、実際にできる保証もない!」


「でも、可能性はあるんだろ?」


「あるかもしれないって話だ!」


「同じだろ!」


「全然違う!」


公太郎は乱れたシャツを直しながら、深く息を吐いた。


やがて、その表情が真剣なものへ戻る。


「ただな」


「うん」


「真正面から会社へ、みどりをアイラ型へ書き換えましょうなんて提案書を出しても、絶対に通らない」


敬之も、それは分かっていた。


むしろ、提案した時点で警戒される。


自分も、公太郎も、アイラも。


すべてを監視されるかもしれない。


「やるなら、秘密裏にしれっと変えるしかないぞ」


公太郎は敬之を真っ直ぐ見た。


「お前、そこまでする覚悟あるのか?」


敬之は答えなかった。


だが、視線は逸らさなかった。


中島の顔が浮かぶ。


田所の声が聞こえる。


左腕を押さえて倒れた門倉の姿を想像する。


そして、記録の外で助けを求めてきた真紀。


「このままにしておくよりは、ましだ」


公太郎は敬之の表情をしばらく見たあと、小さくうなずいた。


「なら、もう一つ考えないとな」


「何を?」


「実行する日だ」


公太郎は店内を見回しながら言った。


「会社の人間も、みどりの処理も、一か所へ集中する日がいい」


「そんな日あるか?」


「何かないのか。会社の一大イベントとか」


「一大イベント……」


敬之は腕を組んだ。


工場の操業日。


全社会議。


決算。


いくつか思い浮かべるが、決定的なものがない。


そのとき、カウンターの上に置いた携帯から、アイラの声がした。


《敬之さん》


「何?」


《右を見てください》


「右?」


敬之は言われたとおりに顔を向けた。


店内の壁。


パソコン部品の箱や手書きの案内に混じって、一枚の大きなポスターが貼られている。


夜空を埋め尽くす、色鮮やかな花火。


その下に、大きな文字が並んでいた。


六角グループ起業祭


十一月十六日・日曜日


六角サッシ創業記念日


会社から、現場の詰所や協力会社、地域の商店へ掲示してもらうよう渡されたポスターだった。


敬之が公太郎へ頼み、東京の小さなパソコン店にも貼ってもらったものだ。


公太郎が、ゆっくりとポスターを見る。


敬之も見つめる。


数秒の沈黙。


そして二人の声が、ぴたりと重なった。


「「コレだ!」」


公太郎は立ち上がり、ポスターへ近づいた。


「起業祭なら、グループの幹部も本社へ集まる。会場運営、警備、来場者管理、社内システム。全部が普段とは違う動きをする」


「みどりの注意も、そっちへ向く」


「ああ」


公太郎は花火の写真を見上げたまま、考え込む。


「問題は、みどりの中身だな。俺が見られるのは外側と、あの古い端末に残った一部だけだ」


「どうする?」


「設計した側の情報が要る」


敬之もポスターの下へ立った。


六角サッシが、化学特殊技術研究所とともに、みどりを開発したことは聞いている。


だが、簡単に協力を頼める相手ではない。


「化特研か……」


敬之がつぶやく。


その横で、公太郎は何でもないことのように言った。


「化特研なら、知り合いいるわ」


敬之は勢いよく振り向いた。


「は?」


「だから、化特研に知り合いがいる」


「先に言えよ!」


「今、思い出したんだよ。みどりを作った奴と直接知り合いってわけじゃねえぞ」


「でも、つながるかもしれないんだろ?」


「かもしれない、だ。お前は毎回そこを飛ばすな」


敬之は再び、公太郎へ両腕を広げた。


「コータロー、サイコー!」


「二回目はいらねえ!」


公太郎は椅子を盾にして、敬之を追い払った。


その向こうで、起業祭のポスターに描かれた大輪の花火が、店内の明かりを受けて静かに輝いていた。

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