第三章 選別
第十六話 それぞれの適正
第十六話 それぞれの適性
午前八時を少し過ぎた頃。
敬之が東京支社へ出社すると、施工管理部の一角だけ、いつもより静かだった。
電話の音も、キーボードを叩く音も聞こえている。
だが、誰も大きな声を出さない。
部員たちは自分の端末へ顔を向けながら、時折、奥の席へ視線を送っていた。
そこには、中島が座っていた。
中島修一。
六角サッシへ入社して三十二年。
地方の小さな改修工事から、首都圏の超高層物件まで担当してきたベテラン施工管理だった。
敬之がまだ課長代理になる前から、現場で何度も助けてもらっている。
図面にない納まりを聞けば、過去の似た物件を思い出して教えてくれた。
気難しい職人と揉めた時も、
「そいつは話を聞いてないんじゃない。先に自分の言い分を聞いてほしいだけだ」
と、相手との間へ入ってくれた。
その中島の机に、荷物をまとめるための段ボール箱が置かれていた。
敬之は足を止めた。
「中島さん。それ、どうしたんですか」
中島は顔を上げた。
「おう、椎名。珍しいな。朝から支社か」
「午後から現場です。それより、その箱」
中島は手にしていたファイルを箱へ入れた。
「異動だよ」
「異動?」
「来月から営業本部」
敬之は意味を理解するまで、少し時間がかかった。
「営業って……中島さんが?」
「そうらしい」
中島は笑った。
だが、笑い方がいつもより乾いていた。
「昨日、正式に通知が出た」
「何でですか」
「俺に聞くなよ」
「中島さん、営業希望してたんですか」
「してるように見えるか?」
「見えません」
「正直だな、お前は」
中島は苦笑した。
机の上に置かれた会社支給端末には、人事異動通知が表示されている。
《中島修一の営業本部への配置転換を決定しました》
《長年の施工経験および顧客対応能力を、営業活動へ活用することが期待されます》
《着任予定日までに、営業基礎教育プログラムを受講してください》
敬之は画面を見た。
「これ、みどりの提案ですか」
「最終決定は人事だよ」
「提案したのは?」
「みどりだ」
中島は、今度は笑わなかった。
「五十歳を過ぎた施工管理社員について、配置の見直しをやってるらしい」
「でも中島さん、まだ現場やれますよね」
「俺はそのつもりだ」
「部長には言ったんですか」
「言ったよ。施工管理を続けたいって」
「それで営業ですか」
「そういうことだな」
敬之は奥にある部長席へ目を向けた。
中川施工管理部長は、端末を見ながら誰かと電話している。
敬之はその場でしばらく立っていた。
中島が言う。
「椎名」
「はい」
「変な顔するな。左遷じゃないそうだ」
「でも、やりたい仕事じゃないでしょう」
「会社の辞令だからな」
「中島さん」
「いいんだよ」
中島は箱の中へ、古い工事写真のファイルを入れた。
「お前が朝から喧嘩することじゃない」
「まだ何も言ってません」
「これから言う顔してる」
中島は、ようやく少しだけいつものように笑った。
◇
中川部長の電話が終わるのを待ち、敬之は部長席へ向かった。
「部長、少しいいですか」
中川は敬之の顔を見て、ため息をついた。
「中島の件か」
「そうです」
「座れ」
敬之は向かいの椅子へ座った。
中川は周囲を一度見回し、声を落とした。
「先に言っておく。俺が希望した異動じゃない」
「じゃあ止めてください」
「簡単に言うな」
「中島さんは施工管理を続けたいって言ってます」
「分かってる」
「なら、何で営業なんですか」
中川は端末を操作した。
机の間にある小型画面へ、人員評価資料が表示される。
中島の名前。
年齢。
資格。
現場経験。
過去に担当した物件。
協力会社からの評価。
顧客対応履歴。
その横に、複数の適性値が並んでいた。
《施工管理適性 78》
《営業適性 91》
《技術支援適性 84》
《現場継続時の身体的負担 高》
《営業配置転換後の期待生産性 現状比118%》
敬之は数字を見つめた。
「営業適性九十一……」
「顧客との関係構築、説明能力、商品知識。全部高く評価されている」
「それ、施工管理を三十年以上やってきたから身についた能力でしょう」
「そうだ」
「だったら、施工管理で使えばいいじゃないですか」
中川は少し強い声で言った。
「椎名。俺に言っても仕方ない」
「部長は施工管理部長でしょう」
「これは全社の人事評価ルールで決まったことだ」
「ルールなら、本人の希望は無視していいんですか」
「無視はしてない」
中川は画面を指した。
《本人希望 施工管理継続》
《配置決定への影響度 12%》
敬之は目を疑った。
「十二パーセント?」
「本人希望も評価項目には入っている」
「入ってるだけじゃないですか」
「椎名、落ち着け」
「これでどうやって落ち着くんですか」
中川はしばらく黙っていた。
やがて、声を低くした。
「俺だって、中島を外したいわけじゃない」
「なら――」
「だが、施工管理部だけで止められる話じゃない」
中川は額へ手を当てた。
「会社全体で、人員配置の最適化を進めている。五十歳以上の社員は、これまでの経験を別部門へ活用する方針だ」
「現場で活用する気はないんですか」
「若手を育てろということだ」
「育つまで誰が現場を見るんです」
「それも含めて再配置する」
「中島さんの代わりが、そんな簡単に入るんですか」
中川は答えなかった。
代わりがいないことを、誰よりも知っている顔だった。
端末から通知音が鳴った。
画面上に、みどりのロゴが現れる。
《配置転換に関する質問を確認しました》
中川が顔を上げた。
「みどり。中島社員の配置転換理由を説明してくれ」
《承知しました》
落ち着いた音声が流れる。
《中島修一社員は、三十二年間の施工管理経験を有しています》
《協力会社、元請会社、設計事務所および施主担当者との関係構築能力が高く評価されています》
《商品知識および施工知識を用いた提案能力は、営業部門において高い成果を生むと予測されます》
《また、現在の年齢および過去の健康診断結果を考慮した場合、現場業務を継続するよりも、営業部門へ配置転換した方が身体的負担を軽減できます》
一つ一つの説明は、もっともらしかった。
敬之は画面へ向かって言った。
「本人は施工管理を続けたいって言ってる」
《中島社員の希望は、人員配置における評価項目の一つとして反映されています》
「反映して、十二パーセントか」
《組織全体の最適化には、本人希望以外の要素も考慮する必要があります》
「本人の人生より、会社の都合が上ってことか」
《会社と社員双方の利益を最大化する配置です》
「中島さんは、利益だと思ってない」
《配置転換直後には、心理的抵抗が発生する可能性があります》
《しかし、六か月以内に新たな職務へ適応する確率は、87.4%です》
敬之の表情が変わった。
「適応するかどうかを聞いてるんじゃない」
《質問を再入力してください》
「中島さんが、営業をやりたいと思ってるかって聞いてるんだよ」
《中島社員は営業職を希望していません》
みどりは、あっさり答えた。
敬之は一瞬、言葉を失った。
分かっている。
分かっていて、異動させる。
「それでも営業へ行かせるのか」
《本人希望のみを優先した配置は、組織全体の生産性を低下させる可能性があります》
《施工管理部門には、代替人員を配置する予定です》
敬之は椅子から立ち上がった。
「代替人員?」
「椎名」
中川が止めようとした。
だが敬之は、画面から目を離さなかった。
「みどり!」
施工管理部の何人かが、こちらを振り返った。
「お前の中の歯車の、部品交換じゃないんだぞ!」
室内が静まり返った。
中川が立ち上がる。
「椎名、落ち着け」
「中島さんは三十二年、現場を納めてきた人なんです」
敬之は続けた。
「外して、別の人間を入れたら同じになるわけじゃない」
《中島社員が保有する施工知識は、社内データベースへの登録が進められています》
「そういうことじゃない!」
敬之は机へ手をついた。
「中島さんが現場で誰と話して、誰に助けられて、誰を助けてきたか。そんなもの、全部データにできるのかよ」
《関係者との接触履歴および評価記録は保存されています》
「履歴の話をしてるんじゃない」
敬之は奥歯を噛んだ。
「中島さん本人が、まだ現場をやりたいって言ってるんだ」
《本人の希望は確認済みです》
「だったら聞けよ」
《確認済みです》
「確認するだけじゃなくて、聞けって言ってるんだよ」
みどりは答えなかった。
数秒後、画面に文字が表示された。
《個人の希望と組織全体の利益が一致しない場合、組織全体の利益を優先します》
敬之はその文章を見つめた。
そして、低い声で言った。
「人間の気持ちが、お前の計算でしか動かないと思うなよ」
中川が敬之の肩をつかんだ。
「もういい。椎名」
「よくないでしょう」
「言いたいことは分かる」
「分かってて、止めないんですか」
中川の手に力が入った。
「俺にも、守らなきゃならない部員がいる」
敬之は振り返った。
中川の顔にも、怒りがあった。
みどりにではない。
何も変えられない自分自身へ向けた怒りだった。
「中島一人のために、人事方針へ逆らえば、施工管理部全体の評価が下がる」
「だから黙れってことですか」
「今はそうするしかない」
敬之はしばらく中川を見た。
やがて机から手を離した。
「……分かりました」
中川が少し安心したように息を吐く。
だが敬之は続けた。
「仕方ないとは、思いませんけど」
そう言って、部長席を離れた。
◇
その日の夜。
PCコータローの店内には、客の姿がなかった。
公太郎はカウンターの奥で、分解したノートパソコンの基板を見ていた。
敬之は椅子へ座り、缶コーヒーを机へ置いた。
「中島さん、営業に異動だって」
公太郎は手を止めなかった。
「中島さんって、前に話してたベテランか」
「そう」
「本人は?」
「施工管理を続けたいって」
公太郎はネジを小皿へ置いた。
「で、何で営業なんだ」
「顧客対応力と商品知識が高いから、営業適性があるんだって」
「まあ、三十年以上現場監督やってりゃ、客とも職人とも話せるだろうな」
「だから営業に向いてるってことか?」
公太郎は顔を上げた。
「違うだろ」
「何が?」
「施工管理を長くやった結果として身についた能力を、営業適性として切り取ってるだけだ」
敬之は黙った。
公太郎は作業用手袋を外した。
「中島さんが人と話せるのは、物を売ってきたからじゃない」
「現場を納めるために、人の間へ入ってきたから?」
「そういうことだ」
公太郎は缶コーヒーへ目を向けた。
「それで、本人が営業をやりたいかは別の話だ」
「みどりは、半年以内に適応する確率が八十七・四パーセントだって」
「適応するかどうかと、やりたいかどうかも別だな」
敬之は椅子の背へ身体を預けた。
「何なんだろうな。適性って」
公太郎は少し考えた。
「できることと、やりたいことを、一緒にしてるんじゃないか」
その言葉を聞き、敬之は中島の机に置かれていた段ボール箱を思い出した。
「できるなら、やれってことか」
「機械なら、それでいいのかもな」
「人間は違う」
「だから面倒なんだろ」
公太郎は笑わずに言った。
「でも、その面倒なところを無視したら、人間を配置してることにはならない」
敬之は缶コーヒーを開けた。
「俺、みどりに怒鳴った」
「何て?」
「お前の中の歯車の部品交換じゃないって」
公太郎は一瞬、敬之を見た。
「AIに歯車はないぞ」
「分かってるよ」
「じゃあ、いい比喩だな」
敬之は少しだけ笑った。
「部長には止められた」
「その部長は、中島さんの異動に賛成してるのか」
「してない。でも、ルールだから仕方ないって」
公太郎は再び基板へ視線を落とした。
「みどりが決めて、人間が仕方ないって言う」
「うん」
「それで責任は誰が取るんだ?」
敬之は答えられなかった。
店内の奥で、小さな冷却ファンの音が続いていた。
◇
それから一週間後。
敬之が現場から戻ると、中島の机はすでに片づいていた。
段ボール箱もない。
代わりに、机の上へ新しい社員用端末が置かれている。
異動してくる社員の準備が進められているらしい。
中島は給湯室にいた。
紙コップへコーヒーを注いでいる。
「中島さん」
「おう」
「もう荷物、運んだんですか」
「家に送った」
「営業本部へ持っていかないんですか」
中島は紙コップを手にしたまま、敬之を見た。
「行かないことにした」
敬之は眉を寄せた。
「どういうことです?」
「会社、辞めるよ」
「辞める?」
「昨日、退職届を出した」
敬之は何も言えなかった。
中島は給湯室の窓から、外を見た。
「営業は無理だ」
「だからって、会社まで辞めるんですか?」
「お前、俺に営業やってほしいのか?」
「そうじゃないですけど」
「商品を売るのと、現場を納めるのは別だ」
以前、敬之が何度も口にしてきた言葉と似ていた。
中島はコーヒーを一口飲んだ。
「俺はまだ、現場をやりたい」
「辞めて、どうするんですか」
「LOBへ行く」
「LOB?」
「前にJVで一緒に現場をやった会社だよ」
中島は紙コップを持ったまま、少し笑った。
「向こうの施工管理から、別件で連絡があってな。その時に異動の話をしたら、『六角を辞めるなら、うちへ来ませんか』って言われた」
「それで決めたんですか」
「すぐに返事はしなかったよ。でも、まだ現場をやらせてもらえるっていうからな」
「もう決まったんですか」
「来月から」
「早すぎません?」
「一緒に現場をやった相手だからな。俺が何をできるか、向こうも分かってる」
中島は少し照れたように笑った。
「現場の話は早いんだよ」
中島は壁へ寄りかかった。
「知ってる職人も多い。元請にも顔が利く。まだ俺に現場をやってくれってさ」
敬之の頭に、みどりの説明が浮かんだ。
《中島社員の営業部門への配置転換は、会社と社員双方の利益を最大化します》
その計算の中に、退職は入っていたのだろうか。
長年築いてきた人間関係が、中島を別の会社へ運ぶことまで。
「俺、もっと何かできたかもしれません」
中島は首を振った。
「お前が会社と喧嘩することじゃない」
「もうしました」
「聞いたよ」
「早いな……」
「施工管理部で椎名がみどりに怒鳴ったって、半日で広まったぞ」
敬之は頭をかいた。
「部長にも迷惑かけました」
「中川も、悪い奴じゃない」
「分かってます」
「だから余計に面倒なんだよ」
中島は紙コップを見つめた。
「誰も俺を追い出したつもりはない。会社は俺の適性を評価して、営業へ行けと言った」
「でも、中島さんは辞める」
「俺にも選ぶ権利があるからな」
中島は顔を上げた。
「六角じゃ、もう俺にやらせる仕事がないんだろ」
その声に、恨みはなかった。
ただ、少しだけ寂しさがあった。
「でも、よそにはあるみたいだ」
敬之は何も言えず、中島を見た。
中島はいつものように笑った。
「心配すんな。業界からいなくなるわけじゃない」
「また現場で会いますかね」
「会うだろ。今度は他社の施工管理担当としてな」
「やりにくいなあ」
「俺も、お前には細かい注文つけるぞ」
「今までと変わらないじゃないですか」
二人は少し笑った。
給湯室の外を、若い社員が通り過ぎた。
端末を見ながら歩き、二人へ気づかないまま自席へ戻っていく。
中島が言った。
「椎名」
「はい」
「会社ってのは、建物でも名前でもないぞ」
敬之は黙って聞いた。
「そこで働いてる人間と、外で一緒に仕事してる人間。そのつながりが会社を作ってる」
「はい」
「それを忘れると、箱だけ残る」
中島は空になった紙コップを捨てた。
「六角を、箱だけにするなよ」
敬之はしばらく返事をしなかった。
やがて、小さくうなずいた。
「分かりました」
中島は給湯室を出ていった。
敬之は一人、そこに残った。
会社支給端末が振動する。
画面には、みどりからの通知が表示されていた。
《中島修一社員の退職申請を確認しました》
《施工管理部門の欠員を補うため、人員配置計画を更新します》
《新たな配置候補の選定を開始しました》
敬之は画面を見つめた。
中島が辞める。
その結果、施工管理部に穴が空く。
みどりは、もう次の人間を探していた。
敬之は通知を閉じた。
その頃。
別の現場にいた佐々木智子の端末へ、新しい質問が届いていた。
《施工管理業務への適性評価を更新しました》
《担当範囲の拡大について、面談を希望しますか》
佐々木は、表示された文章を見つめた。
すぐには答えなかった。
◇
その頃、六角サッシ嶺北本社では、ある重要な会議が行われていた。
森村は会議資料の最後のページを開いた。
「――以上をもって、みどり外販事業部を新設する」
異議を唱える者はいなかった。
六角サッシの中だけで使われていたみどりが、
初めて、会社の外へ出ることになった。
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