第十五話 細かな違い
第十五話 細かな違い
翌朝。
敬之が担当する現場では、六角サッシの取り付け階が一つ上がっていた。
これまで作業していた階よりも外周部の開口が大きく、床端部に近い場所での作業も増える。
朝礼後、元請の安全担当者から、改めてフルハーネス型墜落制止用器具の着用が指示された。
「本日から高所端部でのアルミカーテンウォール、ACWの取り付け作業開始します。六角サッシさんは全員フルハーネス着用でお願いします。作業時端部の手摺りをバラす時は、先に親綱を張ってください。安全帯のフックを確実にかけてから作業開始してください」
職人たちは短く返事をすると、それぞれの道具を持って作業階へ向かい始めた。
佐々木智子は、詰所の隅に置かれた箱の前で立ち尽くしていた。
昨日、派遣元を通して支給された新品のフルハーネス。
箱から取り出した時には、肩ベルトも腿ベルトも重なり、どこから腕を通せばいいのかさえ分からなかった。
佐々木は会社支給端末を開いた。
みどりが表示した装着手順を、もう一度最初から確認する。
《フルハーネス型墜落制止用器具を広げてください》
《肩ベルトへ両腕を通してください》
《胸部バックルを接続してください》
《腿ベルトを接続してください》
《各部の緩みを確認してください》
書かれている内容は、難しくない。
一つずつ従えば装着できるはずだった。
だが、目の前の新品は、説明図のように整った形では置かれていない。
ベルトは何重にも重なり、肩側と腰側の区別もつきにくい。
ランヤードは別の袋へ入ったままだった。
佐々木はハーネスを持ち上げ、何度か向きを変えた。
それでも分からない。
周囲を見る。
職人たちは、すでに慣れた手つきで装着を終えている。
背負い、胸と腿のバックルを締め、ランヤードをまとめる。
誰も説明書を見ていない。
「佐々木さん、先に行ってますよ」
取り付け班の一人が声をかけた。
「あ、はい。すぐ行きます」
そう答えたものの、手元は何も進んでいなかった。
職人たちは資材を載せた台車を押し、仮設エレベーターの方へ向かっていく。
最後の一人が角を曲がる。
詰所に残ったのは佐々木だけだった。
端末には、次の案内が表示されている。
《肩ベルトへ腕を通してください》
佐々木はもう一度ハーネスを持ち上げた。
どちらが肩ベルトなのか。
この金具は前に来るのか、後ろに来るのか。
分からないまま時間だけが過ぎていく。
作業階へ遅れれば、また敬之の担当業務へ影響を与えたと記録されるかもしれない。
そもそも、自分は敬之を観察するために現場へ来ている。
その自分が、準備すらできずに取り残されている。
胸の奥が、少しずつ苦しくなった。
「佐々木ちゃん、どうしたの?」
不意に声をかけられ、佐々木は振り返った。
敬之が、タブレット端末を肩に掛けたまま立っていた。
すでにフルハーネスを装着し、腰にはスケールなどの道具を下げた腰ベルトが取り付けられていた。
「ハーネス、初めて?」
佐々木は一瞬だけ迷い、それから小さくうなずいた。
「……はい。説明を見ているんですけど、よく分からなくて」
敬之は箱と、佐々木の手に絡まったベルトを見た。
「ああ、新品か」
責めるような声ではなかった。
敬之は佐々木の手からハーネスを受け取り、近くの作業台へ広げた。
「これは初めてじゃ無理ですよ。まだセットアップもしてないし」
その言葉を聞いた瞬間、佐々木の肩から少し力が抜けた。
自分だけが理解できないのではない。
分からなくて当然だったのだと、初めて言ってもらえた。
「すみません。皆さん、もう行ってしまって」
「大丈夫。まだ間に合いますよ」
敬之は絡まったベルトを一つずつ伸ばしていく。
「安全帯のフック、どこにあります?」
「フック……」
佐々木は箱の中を探し、別袋へ入っていたランヤードを取り出した。
「これですか?」
「そう、それ」
敬之はランヤードを受け取った。
「これ、装着する前に背中のD環へつけといた方がいいです」
「D環?」
「これね」
敬之は佐々木へ背中を向けた。
肩甲骨の間にある金属製の環へ、ランヤードが接続されている。
「背中の真ん中。ここです」
佐々木は少し近づき、敬之の背中を確認した。
ハーネスのベルトが交差する中央に、金属のD環が見える。
「でも、説明には、先に肩ベルトを着けるように書いてあります」
佐々木が端末を見せると、敬之は画面へ視線を落とした。
「間違いではないですよ」
「間違いではない?」
「着てから誰かにつけてもらえば、それでもできます」
敬之は佐々木のハーネスのD環へランヤードを取り付けた。
「でも、一人でやるなら先につけた方が楽です。背中は見えないし、手も届きにくいから」
佐々木は、自分の端末と敬之の手元を交互に見た。
みどりの説明は、正しい。
だが、目の前の職人たちや敬之が行っている方法とは、細かな部分が違っている。
「じゃあ、これを背負ってください」
敬之はハーネスの向きを整え、佐々木へ渡した。
佐々木は言われた通り、肩ベルトへ腕を通した。
長さの調整がされていないため、ベルトが大きく余り、胸のバックルの位置も合わない。
「やっぱり新品は長いな」
敬之は佐々木の正面へ回り、肩ベルトを調整した。
「ちょっとごめんね。調整させて」
「あ、はい」
胸元のベルトを引かれ、佐々木は反射的に背筋を伸ばした。
男性にこれほど近い距離で作業されることに慣れていない。
自分でも分かるほど、返事の声が少し上ずった。
敬之は気づいた様子もなく、左右の長さを確かめている。
「こっちが少し長いですね」
敬之は片側のベルトを引き、胸部バックルの高さを合わせた。
「苦しくないですか?」
「大丈夫です」
「じゃあ、腿も締めます」
佐々木は少し戸惑った。
敬之はそれを察したのか、一歩下がった。
「ここは自分でやってください。左右のバックルをつないで、指が入るくらいに」
「はい」
佐々木は敬之に言われた通り、腿ベルトを接続した。
「一回しゃがんでみましょうか」
「しゃがむんですか?」
「動いた時にきつすぎると、作業にならないんで」
佐々木はゆっくり膝を曲げた。
腿の内側にベルトが食い込む。
「少しきついです」
「じゃあ、ほんの少しだけ緩めます。ただ、緩すぎると落ちた時に身体が抜けるから」
敬之は左右のベルトを確認し、調整した。
最後に佐々木の背後へ回る。
「後ろ、確認しますね」
肩ベルトのねじれを直し、D環とランヤードの接続を確かめる。
肩口に指が触れ、佐々木は再び身体を固くした。
「ここ、ねじれてました。これだと長く着けてると痛くなるんですよ」
「そうなんですね」
「はい。これで大丈夫」
敬之は佐々木から離れ、全体を確認した。
「今度から箱から出したら、最初にベルトを全部広げた方がいいです。上と下が分からなくなったら、D環が背中の上に来る向き」
「覚えておきます」
「最初はみんな分からないから。誰かに聞けばいいですよ」
佐々木は端末を見た。
画面には、まだ同じ説明が表示されている。
《各部の緩みを確認してください》
そこには、どの程度締めればいいのかも、ねじれたまま着ければどこが痛くなるのかも書かれていなかった。
「椎名さん」
「はい?」
「説明書と、少し違いますね」
敬之は佐々木の端末を見た。
「そうですね」
「みどりの説明が、間違っているんでしょうか」
「間違ってはないと思いますよ」
敬之は自分のランヤードを持ち上げながら答えた。
「書いてある通りでも着けられる。でも、現場じゃやりにくい。それだけです」
佐々木は、その言葉を黙って聞いた。
データが正しいことと、現場で正しく使えることは別。
以前、敬之が会議で口にしたと記録されていた言葉を、佐々木は思い出した。
その時は、みどりの判断へ抵抗するための理屈だと思っていた。
だが今は、少し違って聞こえた。
「行きましょうか」
敬之が言った。
「はい」
二人は並んで作業階へ向かった。
◇
午前の作業は、外周部のサッシ取り付けから始まった。
佐々木は端部へ近づくたび、親綱へランヤードのフックを掛け替えた。
最初は動くたびにベルトが気になったが、敬之が調整したおかげで、痛みも大きな違和感もない。
みどりの説明を見ただけで着けていたら、どうなっていただろう。
おそらく、胸のバックルは低いまま。
肩ベルトもねじれ、腿も必要以上に締めていた。
正しく着けられていたかどうかは分からない。
丸一日作業を続けるには苦しかったはずだ。
佐々木は、少し離れた場所にいる敬之へ目を向けた。
敬之は職人たちと図面を囲んでいた。
「この縦枠、あと三ミリだけ外へ出せます?」
取り付け職人が納まりを見ながら尋ねる。
敬之は開口部と図面を交互に確認した。
「出せますけど、外装のアルミパネルの下地に近くなりますね」
「パネル屋に聞いてみるか」
「俺、行ってきます」
敬之は近くで作業していた別職種の職人へ声をかけた。
相手は年配で、朝からほとんど笑顔を見せていない。
「すみません。この下地、三ミリだけ逃がせます?」
「何でこっちが逃がすんだよ」
低い声が返ってくる。
佐々木は少し身構えた。
敬之は気にした様子もなく、開口部を指した。
「ここの縦枠を少し外へ出したいんです。今のままだと内側のボードとチリが合わなくて」
「図面通りだろ」
「図面通りです。でも現物だと、こっちが少し寄ってます」
年配の職人は無言で近づき、敬之が指した場所を確認した。
二人でしばらく寸法を測る。
「……三ミリなら、こっちのピース替えればいけるな」
「本当ですか。助かります」
「その代わり、そっちのアンカー先に打っとけよ」
「了解です。今日中にやります」
数分後には、二人は並んで図面を見ながら話していた。
「これ、次の階も同じ納まりだぞ」
「じゃあ次から先に確認します」
「頼むぞ。毎回呼ばれたら面倒だからな」
「呼ばれたいのかと思ってました」
敬之が冗談めかして言うと、職人は鼻で笑った。
「お前に呼ばれて喜ぶ奴がいるか」
「残念だなあ」
そばにいた別の職人が笑う。
その笑いにつられ、周囲にも小さな笑いの輪が広がった。
佐々木は、その様子を少し離れた場所から見ていた。
敬之が話し始めると、職人たちは自然に顔を向ける。
指示されるからではない。
何を確認し、どう納めるのかを敬之がきちんと説明することを、皆が知っているからだった。
休憩前。
別の職人が、資材の搬入時間について不満を口にした。
「午後一じゃ遅いよ。昼から取り付ける段取りだったんだから」
「すみません。搬入口と揚重センターが空いてなかったんです」
敬之は事情だけ伝えると、すぐに次の段取りを確認した。
「先に残ってる分で、北側から進められます?」
「北側なら二か所いける」
「じゃあ、そこからお願いします。搬入の時間になったら、俺が下で受けます」
「課長代理が受けんの?」
「誰もいなかったら、ドライバーさん戸惑っちゃうでしょう。揚重センターにも指示しないと……」
「また自分でフォークリフト乗る気だろ」
「趣味なんですよ。せっかくフォークリフトの免許を持ってるのに、乗りたいじゃないですか」
敬之が笑うと、職人は呆れたように返した。
「揚重センターの邪魔すんなよ」
真紀が搬入されてきた日のことを、佐々木は知らない。
それでも、敬之がいる場所から笑いが広がっていくことは分かった。
一方で、会社から渡された資料には、敬之についてこう記載されていた。
協調性に課題あり。
標準手順への抵抗傾向。
会社方針への心理的反発。
対外的信用を損なう危険性。
佐々木は、再び敬之を見た。
気難しそうな他職種の職人と、今は笑いながら次の階の納まりを確認している。
六角サッシの職人たちも、敬之へ次々と確認を持ち込む。
誰かが困れば、その場で話を聞く。
分からなければ実物を見る。
問題があれば、相手のせいにする前に納め方を考える。
これが、六角サッシの看板を汚している人なのだろうか。
むしろ――。
佐々木は、そこで考えるのを止めた。
端末へ視線を落とす。
自分は敬之を評価するために来たのではない。
指示されたことを記録し、報告するために来ている。
それでも、一度生まれた疑問は消えなかった。
◇
昼休み。
佐々木が詰所で日報を入力していると、端末に新しい通知が表示された。
《就業状況の確認を行います》
佐々木は画面を開いた。
《現在の職場環境に問題はありますか》
選択肢は、《はい》《いいえ》。
佐々木は《いいえ》を押した。
今朝は一人で取り残された。
だが、それを職場環境の問題と呼ぶべきかは分からない。
《担当業務は理解できていますか》
少し迷い、《一部理解できている》を選ぶ。
《作業手順を習得できていますか》
佐々木は、朝のフルハーネスを思い出した。
みどりの説明を見ても、正しく装着できなかった。
敬之に教えてもらい、初めて理解できた。
《習得途中》を選択する。
《現場業務を今後も継続できそうですか》
佐々木は画面を見つめた。
現場は怖い。
高い場所も、重い資材も、慣れない用語も多い。
分からないことばかりだ。
それでも、今朝よりは少しだけ続けられる気がしていた。
《分からない》へ指を伸ばしかけ、止める。
敬之が自分の背中を見せ、
「これね」
とD環を教えた姿が浮かんだ。
職人たちと笑いながら話す姿も。
佐々木は《続けられると思う》を選んだ。
すぐに次の質問が表示される。
《施工管理業務に関心がありますか》
佐々木は眉を寄せた。
自分は施工管理補助として派遣されている。
書類整理や写真管理、日報作成が主な仕事だと聞いていた。
施工管理そのものを担当するつもりはなかった。
《まだ分かりません》
そう答える。
画面が一度消え、処理中の表示へ変わった。
数秒後。
最後の質問が現れた。
《六角サッシ株式会社の正社員登用制度に興味がありますか》
佐々木の指が止まった。
正社員。
今まで、自分には関係のない言葉だと思っていた。
派遣先が変われば、また新しい職場へ行く。
与えられた仕事を覚え、契約期間が終われば次へ移る。
それを繰り返してきた。
六角サッシへ来たのも、特別な理由があったわけではない。
派遣元から紹介され、条件が合ったから引き受けただけだ。
少なくとも、表向きには。
だが今、みどりは自分へ正社員登用について尋ねている。
なぜ。
現場へ来てから、まだ日も浅い。
業務を十分に覚えたわけでもない。
施工管理の経験もない。
それなのに、なぜ自分が。
佐々木は《はい》と《いいえ》を交互に見た。
正社員になりたいのか。
施工管理をやりたいのか。
まだ、どちらも分からない。
ただ、この現場でもう少し働いてみたいとは思った。
その理由を考える。
最初に浮かんだのは、今朝の敬之だった。
焦っている自分を責めず、
「大丈夫。まだ間に合いますよ」
と言ってくれた。
会社の資料に記載されていた敬之と、目の前にいる敬之。
その間には、細かな違いがいくつもある。
一つ一つは小さい。
説明書に書かれていない手順。
職人へかける言葉。
冗談を言った時に広がる笑い。
他職種と意見がぶつかった後の、穏やかな会話。
だが、その小さな違いが積み重なるほど、佐々木の中にあった人物像は崩れていった。
佐々木は、どちらの回答も選ばなかった。
画面の下にある《後で回答する》を押す。
《回答を保留しました》
続いて、一行が表示される。
《現場適性および正社員登用への関心を継続して評価します》
佐々木は、その文章をしばらく見つめた。
自分の将来まで、みどりに評価されている。
そのことに、以前なら安心を感じたかもしれない。
自分に合う場所を、正しく選んでくれる。
そう考えたはずだった。
だが今は、少しだけ違う。
みどりの説明は、間違っていなかった。
それでも、あのままでは自分一人でハーネスを装着できなかった。
みどりの中にある敬之の評価も、すべてが嘘とは限らない。
それでも、自分が見た敬之とは違っていた。
佐々木は端末を閉じた。
詰所の外から、敬之の声が聞こえる。
「佐々木ちゃん、午後から写真お願いします。北側から回ります」
「はい」
佐々木は立ち上がった。
返事をした自分の声が、朝より少しだけ自然になっていることに気づいた。
そして、その変化をみどりへ報告するべきかどうか、一瞬だけ迷った。
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