第十四話 見えない入口

第十四話 見えない入口


翌日。


PCコータローの店内には、開店前の静けさが残っていた。


表のシャッターは半分だけ下ろされ、細い隙間から朝の光が差し込んでいる。


カウンターの奥では、公太郎が二台のモニターを交互に見ながら、何度もキーボードを叩いていた。


敬之と真紀は、作業台を挟んで並んで座っている。


綾香は東京での用事があると言って、朝早くから出かけていた。


真紀がPCコータローを訪れるのは初めてだった。


「何か見つかったのか?」


敬之が尋ねても、公太郎はすぐには答えなかった。


画面には、時刻と英数字が細かく並んでいる。


敬之には、その意味がほとんど分からない。


真紀も黙って画面を見つめていた。


やがて公太郎が、マウスを握ったまま手を止めた。


「昨日の夜、店の回線に妙な通信が来てる」


敬之が身を乗り出す。


「みどり?」


「まだ断定はできない」


公太郎は画面の一部を拡大した。


同じような文字列が、時間を置いて何度も記録されている。


「敬之の会社端末が、ここの無線につながった直後から始まってる。接続されている機器の種類と、通信経路を順番に確かめてるみたいだ」


「それって、入られたってことですか?」


真紀が尋ねた。


「いや」


公太郎は首を横に振る。


「入ろうとはしてない。少なくとも、今のところはな」


「では、何を?」


「外から建物を眺めて、窓の数と鍵の種類を調べてるようなもんだ」


敬之は画面を見た。


「それ、十分怪しいだろ」


「怪しいよ」


公太郎は淡々と答える。


「でも、不正な命令を送り込んだ形跡はない。向こうはただ、ここに何があるのかを知ろうとしてる」


真紀はテーブルの上で指を組んだ。


「私を追うより、誰が協力しているのかを調べた方がいいと判断したんでしょうか」


「その可能性はある」


「昨日、私の行動を一つの目的として整理できなかったから」


「かもしれないな」


公太郎は椅子の背にもたれた。


「本多さん本人を見ても分からない。なら、その周りを見る。やり方としては自然だ」


敬之が眉をひそめる。


「自然って言うけど、会社のAIが外部の店まで調べるのはおかしいだろ」


「だから集まったんだよ」


公太郎は別の画面を開いた。


そこには、店内のネットワークへ接続された機器が図のように表示されている。


「ここにあるのは、連絡と検索に使う表側のシステムだけだ」


敬之が画面を指した。


「前にノートパソコンを調べてたのも、これじゃないのか?」


「あれはデータを確認するための端末だ。本格的な解析は別の場所でやってる」


「別の場所?」


公太郎は一瞬だけ黙り、それから答えた。


「ブランクブレーン」


敬之は真紀を見る。


真紀も初めて聞いたらしく、わずかに首を傾げていた。


「何だ、それ」


「外部回線から切り離した解析環境だ」


公太郎はモニターを閉じるように、いくつかの画面を最小化した。


「ネットにはつながってない。必要なデータだけ、俺が直接持ち込む」


「そんな面倒なことしてるのか?」


「面倒だから意味がある」


公太郎は敬之を見る。


「みどりがどれだけ速くても、通じる道がなければ入れない」


真紀が静かにうなずいた。


「物理的に隔離されているんですね」


「そういうこと」


敬之は少しだけ肩の力を抜いた。


「じゃあ、解析してる内容は見られてないんだな」


「今はな」


公太郎はすぐに付け加えた。


「向こうが、表に見えている機械だけで満足している間は」


「その言い方、全然安心できないんだけど」


「安心する段階じゃないからな」


店内に短い沈黙が流れた。


公太郎は二人分のコーヒーを入れ、真紀の前には紅茶を置いた。


真紀はカップを両手で包みながら、モニターへ視線を向ける。


昨日まで、みどりの関心は自分へ向いていた。


東京へ逃げたこと。


外見を似せた女性たちを歩かせたこと。


書店へ入り、カフェで紅茶を飲み、美容院で髪を切ったこと。


その一つ一つを、みどりは理由へ変えようとしていた。


だが今は、視線が別の場所へ動き始めている。


自分を助けている者。


自分たちが使っている場所。


そして、おそらくは公太郎の技術。


「私への監視は、少し弱くなるかもしれません」


真紀が言った。


敬之が彼女を見る。


「それはいいことじゃないんですか?」


「私個人だけを考えれば」


真紀は紅茶へ視線を落とす。


「今の私は、休養期間という名目で出社を止められています。会議にも出られない。社内の記録へ直接触れることもできません」


「だから、みどりから見れば危険じゃない?」


「少なくとも、以前ほどの優先度はないと思います」


公太郎がうなずいた。


「本多さんを見張り続けるより、協力者を調べる方が効率がいい。あいつがそう考えても不思議じゃない」


敬之は腕を組んだ。


「じゃあ今度は、俺たちが狙われるのか」


「狙われる、という言い方が正しいかは分からない」


真紀は顔を上げた。


「みどりに感情的な執着はありません。ただ、必要な情報を集める対象が変わるだけです」


「それを狙われるって言うんじゃないの?」


敬之が言うと、真紀は少しだけ考えた。


「人間から見れば、そうかもしれません」


公太郎は再びモニターへ向き直った。


「今日は、それぞれが考えてることを出そう」


「考えてること?」


「次にどう動くかだよ。みどりがこっちへ目を向けたなら、昨日までと同じやり方はできない」


敬之は椅子へ深く腰を下ろした。


「俺から?」


「現場じゃ、いつも先に話すだろ」


「会議じゃ、そんなに話さないよ」


「今日は役員もいない」


公太郎に言われ、敬之は少し考えた。


「俺は……」


真紀と公太郎が顔を向ける。


「会社が見ていいのは、仕事の中までだと思う」


公太郎は何も言わず、続きを待った。


「昨日、本多さんがどこへ行ったとか、何を買ったとか、髪を切ったとか。そんなの、会社には関係ないだろ」


「はい」


「仕事中の失敗を調べるのは分かる。工程が遅れてるとか、製品に不具合があるとか。それは直さなきゃいけない」


敬之は自分のスマートフォンを指先で軽く叩いた。


「でも、休みの日に何をするかまで会社に理由を説明する必要はない。人間には、会社に見せなくていい部分がある」


真紀は黙って聞いていた。


「みどりは見すぎなんだよ」


敬之は言った。


「何でも知れば正しく判断できると思ってる。でも、知らなくていいことだってあるだろ」


公太郎が小さくうなずく。


「敬之らしいな」


「どういう意味だよ」


「現場で触っていい場所と、触らない方がいい場所を分けて考えてる」


「当たり前だろ。全部いじったら、余計壊れる」


真紀の口元がわずかに緩んだ。


「本多さんは?」


公太郎に促され、真紀は少し考えた。


「私は、みどりが何を考えているのかは分かりません」


敬之が彼女を見る。


「でも、反応には一定の傾向があります」


「傾向?」


「理解できない行動に出会うと、情報を増やそうとします。仮説をいくつも作り、その中から最も合理的なものを選ぶ」


昨日の記録がモニターへ表示されている。


《本人が普通の一日を過ごすことを目的とした可能性》


《合理性を確認できません》


「それでも説明できなければ、観測対象を広げる」


真紀は画面を見つめた。


「私の行動を見ても分からなかった。だから今度は、私の周囲を調べ始めた」


「分からないものを、そのままにできないのか」


敬之が尋ねる。


「みどりにとって、情報が足りない状態は解決すべき問題なのかもしれません」


公太郎が腕を組んだ。


「処理の癖だな」


真紀が公太郎を見る。


「癖?」


「人間みたいに気になるから調べるんじゃない。分類できないから、分類できるまで材料を集める」


公太郎は画面に並ぶ数字を指した。


「感情も、趣味も、関係性も、最後は何かの項目へ入れようとする」


敬之が顔をしかめる。


「人間を仕分けしてるみたいだな」


「実際、近いことはしてるだろうな」


公太郎は答えた。


「俺は、みどりが人間を理解しようとしてるとは思わない。理解したように扱える形へ変えようとしてる」


「数字に?」


「数字か、記号か、評価値か。形は何でもいい」


真紀はゆっくりとうなずいた。


「では、三人とも見ている部分が違うだけかもしれません」


「どういうことです?」


敬之が尋ねる。


「敬之さんは、見てはいけない部分まで見ていると言った」


「はい」


「私は、分からないものを理解するために見ていると考えた」


公太郎が続ける。


「俺は、理解するんじゃなく分類するためだと思ってる」


「全部、同時に起きているのかもしれません」


三人はしばらく黙った。


公太郎の手元では、表側の回線へ届いた通信記録が増え続けている。


どれも小さな確認にすぎない。


それでも、みどりが少しずつ近づいていることだけは分かった。


敬之が椅子へ背を預ける。


「それで、どうやって止めるんだよ」


公太郎は答えない。


「本多さんを会社から遠ざけても、今度はこっちを調べる。放っておいたら、どんどん広がるんだろ?」


「可能性は高いです」


真紀が答えた。


「だったら、みどり自体を止めないと駄目なんじゃないのか」


「簡単に言うな」


公太郎が苦笑する。


「六角サッシの全社システムだぞ。どこに本体があるのかも、どう動いてるのかも分かってない」


「パソコン壊すとか」


「だから、どのパソコンを壊すんだよ」


「本体の」


「本体が一台とは限らない」


敬之は少し考えた。


「じゃあ、電源を抜く」


真紀が目を瞬く。


「電源、ですか?」


「電気がなければ動かないんでしょう?」


「そりゃ動かないけど」


公太郎が呆れたように言う。


「どこの電源を抜くつもりだ」


「サーバー室とか」


「予備電源がある。別系統もあるだろうし、他の施設へ分散してる可能性もある」


「じゃあ全部抜く」


「誰が」


「俺たちが」


公太郎が額を押さえる。


敬之は真剣な表情のまま続けた。


「兵糧攻めみたいに、電気を断てばいいんだろ」


真紀が吹き出した。


敬之が彼女を見る。


「何ですか」


「すみません」


真紀は口元を押さえた。


「兵糧攻めという表現が、少し」


「電気を食って動いてるんだから、同じようなものでしょう」


その時、テーブルに置かれた敬之のスマートフォンが短く震えた。


画面にアイラからの通知が表示される。


《訂正します》


敬之が嫌な予感を覚えながら、画面をのぞき込む。


《我々AIは、電気を食べたりはしませんよ》


真紀は再び顔を伏せた。


肩が小さく揺れている。


「分かってるよ」


敬之はスマートフォンへ言った。


《正確な表現を推奨します》


「じゃあ、何て言えばいいんだ」


《電力供給の遮断が適切です》


「言ってることは同じだろ」


《兵糧攻めとは異なります》


「いちいち細かいな」


敬之がむっとした表情でスマートフォンを裏返す。


真紀はようやく笑いを収めた。


「アイラは、いつもこうなんですか?」


「頼んでない時まで口を挟むんですよ」


裏返されたスマートフォンが、もう一度震える。


《誤解を招く表現を訂正しただけです》


「まだ言うか」


真紀は敬之と端末を交互に見た。


その表情には、わずかな笑みが残っている。


「いつでも相談できるんですね」


「相談というか、向こうから話しかけてくることも多いですけど」


「そうですか」


真紀はテーブルの上のスマートフォンを見つめた。


「少し、羨ましいです」


敬之は意外そうに顔を上げた。


「本多さん、こういう機械が好きなんですか?」


「機械が欲しいというより……」


真紀は言葉を選ぶ。


「一人で考えなくていい相手がいるのは、いいなと思っただけです」


公太郎が深いため息をついた。


「簡単に言ってくれるな」


真紀が彼を見る。


「何がですか?」


「今、腕時計型のウェアラブル端末にアイラを入れようとしてるんだよ」


「そんなものを作っているんですか?」


敬之も初めて聞いたように、公太郎へ顔を向けた。


「何で俺にも言ってないんだ」


「まだ動かないからだ」


公太郎は机の端に置かれていた小さな端末を手に取った。


外見は市販のスマートウォッチに似ているが、裏側から細いケーブルが伸びている。


「会話機能を動かすと処理が追いつかない。電池は減る。熱は持つ。通信が少し切れただけで再起動する」


「全然駄目じゃないですか」


敬之が言う。


「だから愚痴ってるんだよ」


「アイラをそのまま入れるのは難しいんですか?」


真紀が尋ねた。


「入れるだけならできる。まともに使える状態にするのが難しい」


公太郎は端末を机へ戻した。


「昨日なんか、三分話しただけで止まった」


「三分」


「しかも最後に残した言葉が、《端末温度の上昇を確認しました》だ」


敬之が笑う。


「正確じゃないか」


「お前のアイラだからな」


真紀は端末をしばらく見つめたあと、澄ました表情で紅茶へ口をつけた。


「私は、欲しいとは言っていません」


公太郎が彼女を見る。


「顔に書いてあった」


「書いていません」


「そういうことにしとくよ」


真紀は答えず、カップの向こうへ視線を隠した。


敬之は再び話を戻すように、裏返したスマートフォンを指で押した。


「結局、電源を抜くのが無理なら、どうするんだよ」


「分からないから考えてる」


「じゃあもう、みどりを消して、アイラと入れ替えればいいだろ」


敬之は苛立ち任せに言い放った。


店内が一瞬、静かになる。


真紀がゆっくりと顔を上げる。


「アイラに、六角サッシ全体を管理させるんですか?」


「いや、そういう意味じゃなくて」


敬之は自分の言葉を言い直そうとした。


その時、公太郎が動きを止めた。


モニターを見たまま、何かを考えている。


「公太郎?」


返事はない。


数秒後、公太郎は椅子へ深く座り直した。


「……そういうやり方もあるか」


敬之と真紀が、同時に彼を見る。


「何が?」


公太郎は答えなかった。


机の上に置かれたメモ用紙へ手を伸ばし、短い単語をいくつか書き始める。


敬之には、逆さまになった文字を読むことができなかった。


真紀も問いかけようとしたが、公太郎はすでに別の画面を開いていた。


「まだ何でもない」


それだけ言うと、公太郎はキーボードへ向き直った。


    ◇


同じ頃。


六角サッシ本社では、森村豊一専務を中心とする臨時会議が開かれていた。


会議室の正面には、みどりが作成した資料が表示されている。


《社員行動分析機能 拡張案》


《感情的要因を含む行動予測精度の向上》


《離職・配置不適合・生産性低下の早期検出》


森村は腕を組み、満足そうに画面を見つめていた。


「これが実現すれば、退職を申し出る前に不満を把握できるということか」


情報システム部の担当者が答える。


「理論上は可能です。ただし、現時点では感情を直接測定することはできません。行動記録、勤務状況、端末の利用傾向などから推定する形になります」


「十分だ」


森村は即座に言った。


「社員が悩みを抱えたまま辞めるより、会社が先に気づいた方がいいに決まっている」


会議に出席していた人事部長が、慎重に口を開く。


「専務。ただ、私生活の行動まで分析対象に含めるとなると、社員から反発が出る可能性があります」


森村の表情から笑みが消えた。


「私生活を監視しろと言っているわけではない」


「しかし、行動予測の精度を上げるには、業務時間外の情報も必要になると資料には」


「社員を守るためだ」


森村の声が強くなる。


「不満を抱えたまま辞められる方が、よほど社員にとって不幸だろう」


人事部長は口を閉じた。


森村は全員を見回す。


「これまでの人事は、問題が起きてから対応してきた。体調を崩してから休ませる。退職を申し出てから引き止める。現場で衝突が起きてから配置を変える」


机を指で叩く。


「それでは遅い」


画面には、新たな資料が表示された。


《社員幸福度予測》


《職場定着率改善》


《適性配置による生産性向上》


「みどりなら、問題が起きる前に見つけられる」


森村は誇らしげに言った。


「これは管理ではない。社員への支援だ」


会議室の中で、反対意見を口にする者はいなかった。


画面が切り替わる。


次に表示されたのは、六角サッシとは別の会社名を記入するための仮資料だった。


《新会社設立構想》


《AI経営支援システム外販事業》


《事業開始時期:検討中》


森村は資料の端を指した。


「社員幸福度の予測機能も、外販仕様へ組み込む」


経営企画部の担当者が驚いたように顔を上げる。


「まだ社内試験にも入っていませんが」


「だからこそ、先に商品構成へ入れておくんだ」


「しかし、本業の設備更新計画も遅れています。工場側からは、今年度中に加工機を――」


森村が机を強く叩いた。


乾いた音が会議室に響く。


「今は新会社の話をしている!」


担当者は言葉を止めた。


森村は椅子へ座り直し、呼吸を整える。


「サッシ事業だけで、これから先も成長できると思っているのか」


誰も答えない。


「みどりは、六角サッシが次の時代へ進むための柱だ」


森村の視線が、緑色の葉が芽吹いてるロゴマークへ向けられる。


「私たちは、これを社内だけで眠らせるために作ったのではない」


会議室の隅にいた古参社員が、わずかに顔を上げた。


かつて宣昭は、同じみどりを前にして言った。


これは売るために作ったものではない。


その言葉を知る者は、森村を含め、今ではほとんどいなくなっていた。


森村は会議資料を閉じた。


「新会社設立案は、次回の取締役会へ上げる」


「社長への説明は?」


「私からする」


「会社名は、どうされますか」


森村は少し考え、口元に笑みを浮かべた。


「それも、みどりに提案させればいい」


正面の画面が静かに明滅する。


《新会社設立に伴う最適案の作成を開始します》


森村は、その表示を満足そうに見つめていた。


その下で、別の処理が同時に進んでいることには気づかない。


《本多真紀氏への観測優先度を再評価》


《社内情報への接触可能性:低》


《意思決定への影響力:低下》


《外部協力者の関与を推定》


《関連通信経路を検索》


《椎名敬之氏の接続履歴を照合》


《外部ネットワークを検出》


《接続機器の構成を確認》


《未観測領域の存在を推定》


処理中を示す円が、静かに回り続ける。


やがて、新しい一文が追加された。


《侵入経路は確認できません》


数秒後。


その下に、もう一行が表示された。


《別経路を検索します》


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