第十一話 マインドゲーム

第十一話 マインドゲーム


翌朝。


敬之が玄関で靴を履いていると、真紀がリビングから出てきた。


昨日と同じ服ではなく、綾香から借りた白いシャツと黒いパンツを身につけている。


「敬之さん」


「はい」


「昨日、綾香さんとアイラが言ったこと、覚えていますよね」


「通常どおり行動しろって話ですか?」


「そうです。寄り道しない。急に予定を変えない。私にも連絡しない」


「連絡する必要があったら?」


「公太郎さんを通してください」


敬之は立ち上がり、鞄を肩へかけた。


「そこまでします?」


「します」


真紀は即答した。


「みどりは、敬之さんが私と接触していると疑っています。昨日、支店へ呼び出したのも確認のためです」


「俺は連絡がないって答えましたよ」


「だからです」


「え?」


「嘘をついた可能性まで含めて、今後の行動を見てくるはずです」


真紀は玄関のドアへ目を向けた。


「今までと同じようにしてください。現場へ行って、仕事をして、いつもの時間に帰る。それだけです」


敬之は少し考えた。


「ずっと普通にしてたら、みどりは俺を疑わなくなるんですか?」


「可能性はあります」


「可能性?」


「敬之さんが何も知らない人間だと判断すれば、監視の優先度を下げるかもしれません」


敬之はドアノブに手をかけた。


「じゃあ、何も知らない人間らしく仕事してきます」


「お願いします」


ドアを開けようとしたところで、敬之の会社支給モバイル端末が短く振動した。


画面には、業務通知とは別のシステムメッセージが表示されていた。


《人事異動通知》


《東京支店 事務担当 佐々木智子》


《本日付にて、首都圏OM物件水道橋3丁目作業所へ配属》


《業務内容:施工写真管理・安全書類補助・現場記録補助》


敬之は一瞬だけ画面を見た。


新規入場者としての書類も完璧に揃っていた。


「……誰だこれ」


真紀が横から覗き込む。


「佐々木智子?」


「知らないです」


公太郎がノートパソコンを閉じながら言う。


「みどりの判断だろうな。現場データの精度を上げるって理由で人を入れてくるのはよくある」


真紀は少しだけ目を細めた。


「……監視の精度も上げるつもりですね」


敬之は端末をポケットに戻した。


「朝から面倒なこと増やさないでほしいんですけど」


「もう増えています」


真紀は即答した。


「みどりは、敬之さんの周囲の人間関係を再構築し始めています」


「ただの事務の人でしょ?」


「それが本当かどうかは、今日分かります」


真紀はそう言って、玄関のドアへ目を向けた。


「その佐々木さんが何者でも、態度を変えないでください。いつもどおり仕事をして、いつもの時間に帰ってきて」


敬之は少しだけ肩をすくめた。


「了解」


ドアを開ける。


その背中に、真紀の声が続いた。


「敬之さん」


「今度は何ですか?」


真紀は一拍置いて、静かに言った。


「勝手なことはしないでくださいね」


敬之は振り返った。


「信用ないなあ」


「昨日、一日で会社に嘘をついた人ですから」


「本多さんを守るためでしょう」


「そういうところが信用できないんです」


真紀はそう言ったが、その口元にはわずかに笑みが浮かんでいた。


    ◇


午前八時十五分。


現場事務所の扉が開く。


敬之が入ると、すでに一人の女性が立っていた。


黒髪を後ろで軽く束ね、スーツではなく動きやすい作業服。


手には会社支給の端末と、未開封の書類ファイル。


「おはようございます」


先に声をかけたのは彼女だった。


敬之は一瞬だけ間を置く。


「おはようございます」


女性は軽く会釈した。


「本日付で配属になりました、佐々木智子です」


「椎名です」


「よろしくお願いします」


声は落ち着いていて、無駄がない。


敬之は自席へ鞄を置きながら、横目で彼女を見る。


(この人か)


特に派手さはない。


だが、視線の動きが妙に正確だった。


事務所内を一度だけ見渡し、机の配置、端末の位置、ホワイトボードの内容を短時間で把握している。


佐々木は敬之の視線に気づくと、軽く笑った。


「何か変ですか?」


「いや、初日なのに落ち着いてるなと思って」


「慣れてますので」


短い返答。


それ以上は続かない。


敬之は自席のパソコンを立ち上げた。


画面には、みどりからの通知がすでに表示されている。


《本日の現場行動計画を作成しました》


《午前八時三十分 朝礼》


《午前九時 東側開口部施工確認》


《午前十時十五分 協力会社進捗確認》


《午前十一時三十分 施工写真登録》


その下に、新しい項目が追加されていた。


《現場観測項目を追加しました》


《担当者:佐々木智子》


敬之は無言で画面を閉じた。


    ◇


しばらくして、佐々木が声をかけてきた。


「椎名さん」


「はい」


「現場の施工図、どこにありますか?」


「そこの棚です」


「ありがとうございます」


佐々木は迷いなく棚へ向かい、図面を一冊ずつ確認し始めた。


動きに無駄がない。


敬之は少しだけ違和感を覚える。


(事務の人にしては、図面の扱いが早い)


だが、深く考える前に朝礼の時間になった。


    ◇


朝礼後。


職人たちが現場へ散っていく。


佐々木は端末を構え、写真撮影の準備をしていた。


「椎名さん、今日の撮影ポイントは?」


「いつも通りでいいですよ」


「了解しました」


即答。


敬之はその横顔を見た。


(本当に事務か?)


その時、佐々木の端末が小さく振動した。


画面の端に一瞬だけ緑色の表示が出る。


《記録開始》


敬之はそれを見逃さなかった。


「それ、何のアプリですか?」


佐々木は一瞬だけ動きを止めた。


そしてすぐに笑う。


「会社の記録システムです」


「へえ」


「施工写真と会話ログを紐づける仕様になってます」


「最近の会社すごいですね」


「そうですね」


会話はそこで終わった。


だが敬之は、胸の奥に小さな違和感を残したまま、現場へ向かった。


    ◇


その夜。


敬之が自宅へ戻ると、真紀はすでに端末を開いていた。


公太郎と綾香も同じ画面を覗き込んでいる。


「ただいま」


誰もすぐには返事をしない。


真紀が静かに言った。


「佐々木智子、どうでした?」


敬之は靴を脱ぎながら答える。


「普通の人でしたよ。……でも、ちょっと完璧すぎるかな」


公太郎が画面を指す。


「みどりのログだと、初日からかなり細かく記録してる」


綾香が眉を上げる。


「普通の事務じゃないね」


真紀は画面を見つめたまま言った。


「やっぱり、来ましたね」


敬之はソファに座る。


「何が?」


真紀はゆっくりと顔を上げた。


「監視の補助役です」


部屋の空気が静かに沈んだ。


公太郎も綾香も何も言わない。


真紀だけが画面を見つめていた。


やがて、ゆっくりと口を開く。


「……私と心理戦……マインドゲームしたいの?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録(無料)

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る