第十二話 意味のない行動
第十二話 意味のない行動
翌朝。
敬之がリビングへ入ると、真紀はダイニングテーブルにノートを広げていた。
テーブルの向かいには公太郎が座り、ノートパソコンを操作している。
綾香はキッチンでコーヒーを淹れていた。
「おはようございます」
敬之が声をかけても、真紀はノートから顔を上げなかった。
「おはようございます」
「何してるんですか?」
「今日の行動を決めています」
「誰の?」
真紀が顔を上げる。
「敬之さんのです」
敬之は立ったまま、真紀と公太郎を交互に見た。
「昨日は普通にしろって言ってませんでした?」
「方針を変えます」
「一晩で?」
「状況が変わりました」
真紀はノートを敬之の方へ向けた。
そこには、時間と行動が箇条書きで記されている。
午前七時五十八分。
駅へ向かう途中で立ち止まる。
午前八時二分。
一度だけ後ろを振り返る。
午後六時三十分以降。
帰宅途中で突然走る。
「何ですか、これ」
「今日の予定です」
「完全に怪しい人じゃないですか」
公太郎が画面を見たまま言う。
「怪しく見せるんだよ」
「誰に?」
「みどりに」
真紀はペンを置いた。
「みどりは、敬之さんの行動パターンに変化があると判断しています」
「昨日も普通に仕事して帰ってきましたよ」
「それでも、すでに監視は始まっています」
「だからって、わざと変な行動をするんですか?」
「監視する側に、どの行動が重要なのか分からなくさせます」
敬之はノートを持ち上げた。
「駅へ向かう途中で立ち止まることに、何の意味があるんです?」
「ありません」
「後ろを振り返るのは?」
「意味はありません」
「急に走るのは?」
「それもありません」
敬之はノートをテーブルへ戻した。
「全部意味ないじゃないですか」
「だからいいんです」
真紀は静かに言った。
「みどりは、意味のない行動にも理由を探すはずです」
公太郎が画面を回転させ、敬之へ見せる。
そこには、前日のみどりの分析記録が表示されていた。
《椎名敬之氏の行動変化を分析》
《変化要因の特定には至らず》
《継続観測を推奨》
「みどりは分からないことを、そのままにしない」
公太郎が言う。
「分からなければデータを集める。集めたデータを関連づけて、理由を作ろうとする」
「それで?」
「意味のない行動を増やせば、みどりは無駄な分析を続ける」
敬之は椅子へ座った。
「そんなので本当に混乱するんですか?」
「混乱させるのが目的ではありません」
真紀が答える。
「どこまで分析するのか、試すんです」
「実験台、俺ですか?」
「はい」
即答だった。
キッチンにいた綾香が笑う。
「敬之、選ばれてよかったじゃない」
「よくないよ」
「子どもの頃から、意味のないことばっかりしてたでしょ」
「姉ちゃんまで乗らないでくれる?」
アイラの声が、敬之の私物スマートフォンから流れる。
《行動パターンの意図的な変更には一定の危険があります》
「ほら、アイラも危険だって」
《ただし、真紀さんの提案には合理性があります》
「どっちなんだよ」
《慎重に実行してください》
敬之は小さくため息をついた。
「走るくらいならやりますけど」
真紀はノートを閉じた。
「走る時は、後ろを確認しないでください」
「何で?」
「追跡を警戒しているように見えるからです」
「すでに意味を持たせてるじゃないですか」
「こちらに意味がなくても、相手には意味があるように見えます」
敬之は立ち上がり、鞄を肩へかけた。
「分かりましたよ。立ち止まって、振り返って、走ればいいんですね」
「それから、今日は私の名前を口にしないでください」
「誰にですか?」
「誰にもです」
「仕事中に本多さんの名前なんか出ませんよ」
真紀はじっと敬之を見る。
「念のためです」
敬之はその視線を受け止めたあと、玄関へ向かった。
「行ってきます」
「敬之さん」
「またですか?」
「楽しそうにやらないでくださいね」
「何だと思ってるんですか、俺を」
綾香が笑いながら答える。
「絶対ちょっと楽しむ人」
◇
午前七時五十八分。
敬之は駅へ向かう歩道の途中で立ち止まった。
人の流れが左右から追い越していく。
敬之は空を見上げた。
挿絵(By みてみん)
雲は少なく、朝から強い日差しが照りつけている。
何もない。
当然だった。
敬之は手元の腕時計を見た。
真紀のノートどおり、十秒ほど立ち止まる。
それから何事もなかったように歩き出した。
数分後。
腕時計が午前八時二分を示したところで、敬之は一度だけ後ろを振り返った。
通勤途中の会社員。
自転車に乗った学生。
犬を散歩させる老人。
見覚えのある人物はいない。
敬之は前を向き、そのまま駅へ向かった。
会社支給端末が、ポケットの中で短く振動した。
社内ポータルから通知が届いている。
敬之が開くと、ブラウザ上のみどりが表示された。
《予定経路上での滞留を確認しました》
《体調に問題はありませんか?》
敬之はしばらく画面を見つめた。
「早いな」
返信欄へ入力する。
《問題ありません》
送信すると、すぐに新しい表示が現れた。
《滞留理由を選択してください》
《体調》
《交通状況》
《業務連絡》
《その他》
敬之は《その他》を選んだ。
さらに入力欄が現れる。
《理由を入力してください》
敬之は少し考えたあと、文字を打った。
《特に理由はありません》
数秒間、画面上で処理中の表示が続いた。
《回答を記録しました》
敬之は端末をポケットへ戻した。
自分でも少しだけ楽しくなっていることは、真紀には黙っておくことにした。
◇
午前八時十五分。
現場事務所へ入ると、佐々木智子はすでに自席へ座っていた。
「おはようございます」
「おはようございます」
佐々木はいつもと変わらない表情で会釈した。
敬之は自席へ鞄を置く。
パソコンを立ち上げると、みどりからの通知が表示された。
《本日の体調確認》
《通勤経路上で通常と異なる行動を確認しました》
《体調不良の可能性:十二パーセント》
《外部との接触確認行動の可能性:二十七パーセント》
《その他の理由:六十一パーセント》
敬之は画面を見ながら、口元が緩みそうになるのを堪えた。
「椎名さん」
「はい」
「朝、何かありましたか?」
「何がです?」
「駅へ向かう途中で、立ち止まったと記録されています」
敬之は佐々木を見る。
「よく分かりますね」
「会社支給端末の位置情報です」
佐々木は何でもないことのように答えた。
「体調が悪いなら、早めに言ってください」
「元気ですよ」
「では、なぜ立ち止まったんですか?」
敬之は少し考えた。
「空が青かったからです」
佐々木の表情が一瞬だけ止まった。
「空?」
「はい」
「それだけですか?」
「それだけです」
「そうですか」
敬之は少しだけ笑った。
「佐々木ちゃん、そんな細かいところまで見ててさ。俺に興味あるの?」
「ありません」
即答だった。
「早いな」
「業務上の確認です」
佐々木は端末へ何かを入力した。
敬之の画面に、新しい表示が現れる。
《滞留理由を更新しました》
《外部環境への関心》
《心理状態との関連を継続分析します》
敬之は画面を閉じた。
まだ午前八時二十分だった。
◇
午前中。
敬之は東側開口部の施工確認を行っていた。
職人が枠の位置を調整しながら、敬之へ尋ねた。
「椎名さん、ここ、あと三ミリ出す?」
敬之は図面と現物を見比べた。
「二ミリでいいです。シール目地を考えたら、その方が納まりがいい」
敬之は会社支給端末の施工確認欄へ数値を入力した。
端末が振動する。
《標準施工値は三ミリです》
敬之は通知を閉じた。
「二ミリでお願いします」
「了解」
職人が作業へ戻る。
敬之は施工箇所へ視線を戻した。
そのとき、佐々木の会社支給端末が振動した。
《椎名敬之氏はAI提案と異なる判断を実行》
《理由:現場納まりを優先》
敬之は表示された文章を横目で見た。
「それ、俺が見てもいいんですか?」
「業務記録ですから」
「俺の会話も全部入ってるんです?」
「必要な範囲で」
「必要な範囲って、誰が決めるんですか?」
一瞬だけ黙る。
「システムです」
「みどりが?」
「はい」
「自分で必要かどうか決めないんですか?」
その問いには答えが返らなかった。
敬之は施工箇所へ視線を戻した。
それ以上は何も言わなかった。
◇
昼休み。
敬之は現場事務所の外へ出た。
簡易ベンチへ座り、コンビニのおにぎりを取り出す。
私物スマートフォンには、真紀からの連絡はない。
公太郎からも何も届いていなかった。
通常どおり。
そう言われている。
敬之はおにぎりを食べ終えると、連絡先を開いた。
少し迷ったあと、「実家」を押す。
数回の呼び出し音のあと、母親が出た。
『もしもし』
「俺」
『どうしたの、昼休み?』
「うん。そっち暑い?」
『暑いわよ。朝からエアコンつけてる』
電話の向こうから、犬の鳴き声が聞こえた。
「マキちゃん元気?」
少し離れた場所で、佐々木が顔を上げた。
敬之は気づかないふりをした。
『元気よ。今、足元にいる』
挿絵(By みてみん)
「散歩は?」
『朝早くお父さんが連れていった』
「無理させるなよ」
『分かってるわよ』
「マキちゃん、最近ちゃんと食べてる?」
『食べてる。昨日なんて、お父さんの卵焼きまで取ろうとしてたわよ』
「人間のもの食べさせるなよ」
『あげてないわよ』
敬之は会話を続けた。
「変わったことない?」
『ないわよ。敬之の方こそ、何かあったの?』
「別に」
『綾香はまだそっちにいるの?』
「いる」
『真紀さんも?』
敬之は一瞬だけ黙った。
「マキちゃんは元気だよ」
『犬の話? 本多さんの話?』
「どっちも」
『何それ』
「じゃあ、仕事戻るから」
通話を切る。
佐々木の指が端末の画面を何度か叩いた。
敬之は小さく息を吐いた。
そのときだった。
会社支給端末が振動した。
《外部登録情報との照合が完了しました》
《登録名:マキ》
《犬種:柴犬》
《飼育場所:大分県別府市》
《本多真紀氏との関連性:低》
《ただし、発言意図の分析を継続します》
敬之は画面を見て、力なく笑った。
「犬の登録まで調べるのか、みどり」
その言葉に、佐々木は答えなかった。
ただ、どこかで新しい分析が静かに始まっていた。
◇
午後。
富山本社の管理システムでは、更新されたデータが再び流れ始めていた。
《椎名敬之氏の行動変化を分析》
《変化要因の特定には至らず》
《継続観測を推奨》
数値が揺れる。
そして、また一つの仮説が追加される。
《犬を用いた情報攪乱の可能性》
《分析継続》
画面は静かに更新を続けていた。
◇
夕方。
退勤時刻。
午後六時三十分を過ぎたころ。
敬之はヘルメットを外し、現場事務所を出た。
空はまだ明るい。
駅へ向かう人の流れに混ざる。
そのとき私物スマートフォンが振動した。
《本日の行動プラン最終工程を実行してください》
《走行指示:駅までの区間》
敬之は一瞬だけ空を見た。
「まだやるのかよ」
誰にも聞こえない声で呟く。
そして、歩道の端で立ち止まった。
周囲の人間が追い越していく。
三秒。
五秒。
十秒。
敬之は突然、走り出した。
理由はない。
息が上がるほどでもない速度で、ただ駅へ向かって走る。
すれ違う人が一瞬だけ視線を向ける。
しかし誰も気にしない。
走る理由がないからだ。
敬之はそのまま駅の入口まで走り切り、何事もなかったように歩きに戻った。
◇
その夜。
富山本社のシステム。
みどりは静かにログを更新していた。
《椎名敬之氏:走行行動を確認》
《行動前後に明確な外的要因なし》
《生理的負荷:低》
《心理的動機:不明》
《追加仮説》
《意味のない行動による監視系統の撹乱》
《または》
《意味のない行動そのものが目的である可能性》
数秒の沈黙。
そして、さらに一行が追加される。
《分析継続》
《観測対象を拡大します》
画面は消えなかった。
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