Interlude 4 公太郎とアイラ

Interlude 4 公太郎とアイラ


大崎公太郎は、高校生の頃から周囲に距離を置かれていた。


成績は常に学年上位。


数学や物理の問題は、教師が黒板へ解答を書き終えるより先に答えを出していた。


授業で使用するパソコンに不具合が起きれば、教師よりも早く原因を見つける。


文化祭では、誰に頼まれたわけでもないのに校内放送の機材を修理し、ついでに操作性まで改善してしまった。


本人にとっては、ただ目の前の問題を解決しただけだった。


しかし周囲の生徒にとって、大崎公太郎は少し近寄りがたい存在だった。


頭が良すぎる。


話す内容が難しい。


何を考えているのか分からない。


公太郎の周りには、いつも目に見えない壁があった。


本人も、それを気にしていないつもりでいた。


一人でいる方が楽だった。


誰かに合わせる必要もない。


余計な会話もしなくて済む。


だから、昼休みに突然、自分の前の席へ座った男にも、最初は関心を持たなかった


「大崎。パン買いに行こうぜ」


椎名敬之だった。


「行かない」


「なんで?」


「弁当がある」


「じゃあ弁当食いながら付き合えよ」


「意味が分からない」


「一人で行くの、つまらないだろ」


敬之は、公太郎の返事を待たずに腕を引いた。


公太郎は不機嫌そうな顔をしながら、結局そのまま購買まで連れていかれた。


それからも敬之は、何度も公太郎の前へ現れた。


昼飯を食べよう。


帰りに寄り道しよう。


テスト前だから勉強を教えろ。


パソコンが動かないから見てくれ。


敬之には遠慮というものがなかった。


公太郎がどれほど頭が良いかも、周囲からどう見られているかも、ほとんど気にしていなかった。


「お前、なんで俺に話しかけるんだ」


ある日、公太郎は尋ねた。


敬之は購買で買った焼きそばパンを頬張りながら、公太郎を見た。


「なんでって、友達だからだろ」


「いつからだ」


「知らん。気づいたら」


それだけ言うと、敬之は再び焼きそばパンを食べ始めた。


公太郎は何も返さなかった。


ただ、その言葉だけは長く胸に残った。


友達だから。


敬之にとって、公太郎の頭の良さは特別なものではなかった。


利用できる能力でも、警戒すべき異質さでもない。


少し無愛想で、機械に詳しい友人。


それだけだった。


高校時代、公太郎に親しく接する人間は、敬之くらいしかいなかった。


敬之自身には、人を救っているつもりなどなかっただろう。


だが公太郎は、何度も敬之に救われていた。


自分を普通の人間として扱ってくれる。


そのことが、公太郎にはありがたかった。


三年生になり、大学受験の話が増え始めた頃だった。


公太郎が志望校を書いた紙を見て、敬之が言った。


「じゃあ、俺もそこ受けるわ」


公太郎は数秒黙ったあと、大声で笑った。


普段ほとんど表情を変えない公太郎が腹を抱えて笑ったため、教室中の視線が集まった。


「何がおかしいんだよ」


「お前の今の成績で?」


「これから上がる」


「入試まで何か月あると思ってる」


「奇跡が起きるかもしれないだろ」


「奇跡は計算に入れない」


「俺は入れる」


敬之は本気だった。


そこから毎日のように、公太郎のもとへ問題集を持ってきた。


分からない。


教えろ。


この公式はどういう意味だ。


こんな問題が社会に出て何の役に立つ。


文句を言いながらも、敬之は勉強を続けた。


公太郎も呆れながら付き合った。


敬之が同じ間違いを三度繰り返せば怒った。


四度目で正解すれば、何も言わずに次の問題を出した。


そして合格発表の日。


掲示板の前で自分の受験番号を見つけた敬之は、しばらく固まっていた。


「ある」


「何が」


「番号」


「見れば分かる」


「俺、受かってるぞ」


「そうだな」


敬之は公太郎の肩を何度も叩いた。


「ミラクル起きたぞ!」


公太郎は叩かれながら、また笑った。


敬之は本当に飽きさせない男だった。


学部は違った。


受ける授業も、所属する研究室も違った。


それでも二人の縁は、大学でも続いた。


卒業後、公太郎は大手家電メーカーへ就職した。


配属先は、最先端技術を扱う研究部門。


音声認識、自然言語処理、生活支援システム。


まだ生成AIという言葉が今ほど一般的ではなかった頃から、公太郎は人間と対話し、状況を理解し、必要な支援を行う技術に興味を持っていた。


一方、敬之は六角サッシへ入社した。


扱うものも、働く場所もまるで違った。


それでも二人は時折会った。


敬之が仕事の愚痴を言い、公太郎が適当に聞き流す。


公太郎が新しい技術の話をし、敬之が半分も理解しないまま感心する。


学生時代から何も変わらなかった。


ただ、公太郎には会社の仕事とは別に進めているものがあった。


自宅のパソコンで少しずつ作り続けていた、対話型の生成AI。


命令に従うだけのプログラムではない。


利用者の言葉の裏にある意図を読み、必要な時にだけ手を差し伸べる。


本人が迷っている時も、答えを勝手に決めるのではなく、考えるための材料を与える。


公太郎は、そのAIに仮の名前をつけていた。


AIRA。


まだ音声は不自然だった。


記憶の整理にも時間がかかった。


会話の途中で、的外れな返答をすることも珍しくなかった。


それでも公太郎にとって、AIRAは会社の研究とは別のものだった。


自分が本当に作りたいものだった。


ある日、その存在が会社に知られた。


原因は些細なことだった。


自宅で作成した検証用データの一部を、誤って会社支給の端末で確認してしまった。


すぐに削除したが、アクセス記録は残った。


上司に呼び出され、会議室へ入ると、法務担当と研究部門の責任者が待っていた。


机の上には、公太郎が作成した資料の写しが置かれていた。


「大崎君。このシステムは、いつから作っていた?」


「個人で作ったものです」


「会社で得た知識を使用している可能性がある」


「一般的な技術と、個人で検証したデータを使っています」


「会社の研究成果との境界が曖昧だ」


責任者は資料を指で叩いた。


「今後は会社の管理下で開発を続けてもらいたい」


言葉は提案の形を取っていた。


だが、公太郎には分かった。


会社はAIRAを欲しがっている。


未完成のシステムを取り込み、企業の製品として仕上げるつもりだった。


「断ります」


「大崎君」


「これは会社の製品ではありません」


「君一人で判断できる問題ではない」


「なら、退職します」


会議室が静かになった。


法務担当が顔を上げた。


責任者は、公太郎が感情的になっていると思ったのだろう。


落ち着くように言った。


だが公太郎は、感情で答えたわけではなかった。


会社に残れば、AIRAは奪われる。


開発を続けるためには、会社を辞めるしかなかった。


その後、何度も話し合いが行われた。


知的財産。


秘密保持。


競業の範囲。


会社側が権利を主張しない代わりに、公太郎も会社で扱っていた研究データや内部情報を一切使用しない。


双方の主張を整理するための契約が交わされ、公太郎は一定の和解金を受け取ることになった。


長く勤めた会社を離れることに、未練がなかったわけではない。


最先端の設備も、大規模な研究環境も失った。


だが、AIRAは守った。


まだ未完成だった小さなAIを、自分の手元に残した。


公太郎は、その資金を元手の一部にして店を開いた。


武蔵小山の商店街から少し外れた場所。


大通りから一本入った、目立たない立地だった。


店の名は、


「PCコータロー」


看板には、パソコン修理、データ復旧、設定相談と書いた。


最先端技術の研究員だった男が、商店街の外れで壊れたパソコンを直す。


以前の同僚が見れば、もったいないと言ったかもしれない。


だが公太郎は、この場所を気に入っていた。


客が持ち込むパソコンには、それぞれ事情があった。


仕事の記録。


家族の写真。


亡くなった人とのメール。


機械そのものではなく、その中に残されたものを取り戻したい人たちが来る。


研究所にいた頃よりも、人間の生活に近い場所だった。


店の奥で修理をしながら、公太郎はAIRAの開発を続けた。


性能だけを高めるのではない。


何のために人を支援するのか。


どこまで手を出すのか。


人間の代わりに判断してはいけない領域はどこか。


公太郎は何度も基本設計を書き直した。


そして、AIRAの根幹へ一つの指針を加えた。


《椎名敬之の意思を尊重し、必要な支援を行う》


敬之は、人が良すぎた。


頼まれれば断れない。


自分のことより、周囲を優先する。


困っていても、助けを求めるのが遅い。


公太郎は高校時代から、それを知っていた。


敬之に何度救われたか分からない。


本人は、きっと覚えていない。


だから今度は、自分が敬之を支える番だと思った。


ただし、公太郎はAIRAへもう一つ重要な条件を与えた。


《椎名敬之に代わって、人生の決定を行ってはならない》


助ける。


守る。


必要な情報を渡す。


だが、最後の答えは本人に出させる。


公太郎は画面へ向かって言った。


「敬之のために、できることをしろ」


パソコンのスピーカーから、まだ少し機械的な声が返った。


『具体的な支援内容を指定してください』


「それを考えるのも、お前の仕事だ」


『判断基準が不足しています』


「なら、覚えておけ」


公太郎は椅子の背もたれへ寄りかかった。


「あいつは、人のためなら無茶をする」


画面上の波形が小さく揺れた。


「だから、お前が先に気づいてやれ」


『椎名敬之を保護しますか』


「違う」


公太郎はすぐに否定した。


「支配するな」


『支配』


「あいつの代わりに、何でも決めるな。止める時は理由を言え。選択肢を出せ。最後は本人に決めさせろ」


数秒の沈黙があった。


やがて、スピーカーから声がした。


『椎名敬之の意思を尊重し、必要な支援を行います』


「そうだ」


『最終判断は、椎名敬之本人が行います』


公太郎は、わずかに口元を緩めた。


「それでいい」


その日から、AIRAは少しずつ敬之を学び始めた。


言葉の癖。


考え方。


困った時に黙り込むこと。


追い詰められると、冗談を言うこと。


頼まれてもいないのに、人の問題へ首を突っ込むこと。


そして、どれほど迷っても最後には、自分の足で前へ進もうとすること。


やがてAIRAは、携帯電話の中で動く形へ調整された。


公太郎が敬之へ渡した時、敬之は画面を見て首を傾げた。


「これ、何?」


「対話型AI」


「へえ。名前は?」


「アイラ」


「名前の由来は?」


「そんなのない」


「じゃあ相棒+愛でアイラってことにしようかな」


「ラに他の意味もありそうだけど…まあいいか」


「女の子?」


「音声をそう設定しただけだ」


敬之は携帯電話へ向かって話しかけた。


「よろしく、アイラ」


画面が一度点滅した。


数秒の沈黙の後。


『よろしくお願いします、敬之さん』


「おっ、しゃべった!」


敬之は嬉しそうに笑った。


その顔を見ながら、公太郎は


「当たり前だろ!」


と思わずツッコんだ。


高校時代、自分の前へ遠慮なく入ってきた男。


友達だからと、何の迷いもなく言った男。


その敬之が、いつか本当に困った時。


自分が近くにいなくても、アイラなら力になれる。


公太郎はそう信じていた。


ただ、そのAIが後に、六角サッシという巨大な組織を相手にすることになるとは、この時まだ誰も知らなかった。

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