六年後も、ここにいる

月白ゆう

君が忘れるまで

「宮原」

「はい」


 担任が出席簿から顔を上げる。

 宮原は返事だけして、また窓の外を見た。

 校庭では体育の授業をしている生徒が走っている。開け放した窓から、ぬめーっと湿った風が入ってきた。


「眠そう」


 僕が言うと、宮原が面倒くさそうにこっちを見る。


「二時半まで起きてた」

「何してたんだよ」

「ゲーム」

「馬鹿なの」

「お互い様」

「お前もどうせ昨日遅かっただろ」

「僕は十一時」

「十分遅いじゃん」

「二時半と一緒にするな」

「誤差」

「三時間違う」


 前の席のやつが振り返った。


「お前ら、朝からうるさい」

「わりぃ」


 宮原が前を向く。

 先生は何事もなかったように黒板へ数式を書き始めた。

 僕もノートを開いた。

 こういう日が続くと思っていた。

 眠そうな宮原に声をかける。

 くだらない話をする。

 帰りにコンビニへ寄る。

 明日も同じように学校へ来る。

 それが当たり前すぎて、僕は一度も考えたことがなかった。

 この時間が、いつかなくなるなんて。

     

 昼休みの放送が終わった。

 委員会からの連絡が切れ、スピーカーが無音になる。

 数秒後、聞き覚えのない声が流れた。


『午後三時、校庭の時計を見てください』


「何だよ、今の」


 宮原が菓子パンの袋を丸めた。


「知らない」

「今日、体育だろ」

「うん」

「じゃあ見られるな」

「何でそんな楽しそうなんだよ」

「こういうの好き」

「小学生かよ」

「お前も気になるだろ」


 否定できなかった。

     

 午後三時。

 体育の授業でグラウンドを走っていた。

 先生が笛を鳴らす。


「次、一周!」


 走り出したところで、宮原が時計を見た。


「お、三時」


 僕も顔を上げる。

 秒針が進む。

 チク。チク。カタン。

 止まった。

 校庭のあちこちから声が上がった。


「うそ」

「止まった?」

「さっきまで動いてたぞ」


 先生まで時計を見上げている。

 宮原が僕の隣へ来た。


「これか!」

「……うん」

「明日もなんかあるかな」

「放送?」

「うん」


 先生の笛が鳴った。


「喋ってないで走れ!」

「はーい」


 宮原が笑って走り出す。


「行くぞ」

「待てよ」


 僕は慌てて追いかけた。

     

 翌日の昼休み。


『午後四時十二分、音楽室のピアノが鳴ります』


 教室がざわついた。

 放送が終わっても、誰も席を立たない。

 四時十二分。

 廊下を歩いていた僕たちの前で、音楽室からピアノが一音だけ鳴った。

 扉は閉まっていた。

 宮原がそっと開ける。

 誰もいない。


 翌日は図書室の窓が開いた。

 その次の日は、西棟の蛍光灯が一斉に消えた。

 どれも放送通りの時刻に起きた。

 五日目。

 昼休みの放送が始まった。


『明日、午後七時十七分』


『宮原は、放送室へ来てください』


 教室が騒がしくなった。

 宮原が僕を見る。


「俺?」

「名前、宮原だし」

「一緒に来て」

「何で僕まで」

「一人は嫌だろ」


 笑っていた。

 でも、机の下で握った手が白くなっていた。


「……分かった」

「助かる」


 宮原は鞄を持ち上げた。


「帰り、コンビニ寄ろうぜ」

「アイス?」

「うん」

「また?」

「食べたい」

「子供かよ」

「お前の分も買う」

「いらない」

「じゃあ二個食う」

「腹壊せ」


 二人で笑った。

 明日も同じように話すつもりだった。

     

 翌日の午後七時。

 放送室には誰もいなかった。

 窓の外はもう暗い。

 古いパソコンが一台だけ起動している。

 画面には、音声ファイルが一つだけ表示されていた。

rec_2032_06_17.wav


「何これ」


 宮原が画面を覗き込む。


「日付?」

「たぶん」

「今、何年だっけ」

「二〇二六」

「じゃあ六年後じゃん」


 宮原が僕を見る。


「未来?」

「……分からない」


 宮原がマウスを動かした。


「聞こうぜ」


 再生する。

 雨の音。

 道路を走る車。

 遠くでクラクション。

 少しして、声が入った。


『宮原』


 僕の声だった。

 宮原が振り向く。


『まだ、ここに来るんだな』


 そこで録音が終わった。


「……お前だよな?」

「声は」

「声は?」

「僕。でも、僕じゃない」


 録音の声は、確かに僕だった。

 ただ、今の僕より低い声。

 言葉の間に混じる息も妙に重い。

 宮原がもう一度再生しようとした。

 そのとき。


『宮原』


 スピーカーから声がした。

 宮原の手が止まる。


「……はい」


 照明が落ちた。


「うわっ」


 暗闇の中で、宮原が僕の腕を掴む。


「何だよこれ」

「知らない」

「ちょっと待って」


 数秒後、明かりが戻った。

 机の上に紙があった。

 さっきまでなかった。

 宮原が拾う。


未来を知らせているんじゃない。


「じゃあ、何なんだよ」


 僕たちは顔を見合わせた。

 答えは出なかった。

     

 翌朝。


「昨日、一緒に帰ったっけ?」


 宮原が言った。


「帰っただろ」

「ああ」


 宮原は少し考えてから笑った。


「何か最近、忘れるんだよ」

「何を?」

「細かいこと」

「寝不足じゃね?」

「かも」


 そのときは、それで終わった。


 三日後。


「俺たち、いつから仲良かった?」

「小六」

「そうだっけ」

「そうだよ」


 宮原はスマホを取り出した。


「これ見て」


 小学生の頃の写真だった。

 二人で並んで写っている。


「これ、お前?」

「そう」

「そっか」


 宮原は写真を拡大した。


「顔は分かる」

「じゃあいいじゃん」

「でもさ」


 写真から目を離さない。


「何で一緒に写ってるのか分かんない」


 僕は笑えなかった。

     


 学園祭の写真を見せたとき、宮原はもっと長く黙った。


「この人、誰?」

「僕」

「ああ」


 宮原が僕を見る。

 

「……そうだった」

「覚えてない?」

「学園祭だっていうのは分かる」

「じゃあ、何した?」

「知らない」


 僕は写真を指差した。


「たこせん食べた」

「へえ」

「準備中にお前が脚立から落ちそうになって」

「俺が?」

「僕が支えて怪我回避」

「そうなんだ」

「帰り、雨が降って」

「うん」

「傘一本しかなくて」

「……一本?」

「そう」


 宮原は写真を見た。

 そこには、一本の傘に二人で入っている僕たちが写っていた。


「覚えてない」


 写真を返される。


「何でだろ」

「分からない」

「俺も」


 宮原は笑おうとした。

 うまく笑えてなかった。

     

 放送室のパソコンには、新しいファイルが増えていた。

rec_2031_06_17.wav

 再生する。


『学園祭のことを忘れた』


 僕の声。


 次のファイル。

rec_2030_06_17.wav

『一緒に帰った道を忘れた』

 その次。

rec_2029_06_17.wav

『笑い方を忘れた』

 宮原は黙って聞いていた。

 最後のファイルを開く。

rec_2028_06_17.wav

 雨の音が長く続く。

 やがて声が入った。

『顔を忘れた』

 僕は再生を止めた。


「……俺だけ?」

「たぶん」

「何で?」

「分からない」

「お前は?」

「何が?」

「俺のこと」


 宮原は答えを待った。

 僕は何も言えなかった。


「……そっか」


 宮原は画面を閉じた。

 その日から、僕の名前を呼ばなくなった。


「おい」

「何?」

「……いや」


 何度か言いかける。

 でも、出てこない。

 なのに、僕が帰ろうとすると、


「待って」


 と呼び止める。


「何?」

「もう少し一緒にいて」

「何で?」

「分かんない」

「じゃあ帰る」

「……やだ」


 宮原は俯いた。


「お前が帰ると、変な感じする」

「どんな?」

「知らない」


 僕は鞄を置いた。


「じゃあ、もうちょっといる」

「うん」


 宮原はそれだけ言って、机に突っ伏した。

 昔から、眠くなるとどこでも寝る。

 僕はその横顔を見ていた。

 名前を忘れても。

 思い出を忘れても。

 身体だけが覚えていることがある。

 そう思った瞬間、背筋が冷えた。

 録音の声が頭に浮かぶ。

『顔を忘れた』

 次は何を忘れる。

 その次は。

     

 最後のファイルには名前がなかった。

 ファイル一覧の一番下に、ただ、

rec_2027_06_17.wav

と表示されている。

 再生する。

 雨。

 車の音。

 今までより近い。

 マイクのすぐ前で話しているように聞こえた。


『宮原』


 僕の声。


『これを聞いてるなら、まだ覚えてるよね』


 宮原が画面を見る。


『だから、もう一つ消す』


『学園祭』

『帰り道』

『あの夏』


『僕の名前』


 宮原の顔から笑みが消えた。


『全部、忘れて』


 声が苦しそうに震えている。


『僕を忘れていい』


 録音が終わった。


「……ひどいな」

「うん」

「誰だよ、こんなの」

「分からない」

「お前の声なのに?」

「僕だって分かんないよ」


 宮原は立ち上がった。

 ドアへ向かう。

 そこで振り返った。


「帰ろう」

「うん」


 廊下へ出る。

 階段を下りながら、宮原が言った。


「なあ」

「何?」

「俺、昔からお前のこと好きだった?」


 足が止まった。


「……知らない」

「そっか」


 宮原も止まった。

 

「じゃあ、今からでも間に合うかな」


 僕は答えられなかった。


「何が? 」

「変なこと聞いた」


 宮原は先に階段を下りていった。

     

 帰りにコンビニへ寄った。


「アイス」

「また?」

「食べたい」

「太るぞ」

「高校生は太らない」

「その自信どこから来るんだよ」


 二人でアイスを選ぶ。

 宮原が棚の前で迷った。


「どっちにしよう」

「チョコモナカ」

「俺、いつもそれ?」

「うん」

「じゃあ、これ」


 会計を済ませる。

 店を出て、宮原がアイスを取り出した。


「半分食う?」

「いらない」

「前は食べてた?」

「たぶん」

「じゃあ食えよ」


 差し出されたアイスを受け取る。

 一口食べた。

 何度も一緒に食べた味がした。

 そのことを宮原は覚えていない。


「うまい?」

「うん」

「そっか」


 校門を出る。

 交差点の信号が青になった。


「明日、何する?」

「ゲーム」

「また?」

「お前が二時半まで起きてるから付き合う」

「じゃあ十一時までな」

「短すぎ」


 宮原が先に渡った。

 僕も続く。

 クラクションが鳴った。

 振り向く。

 白い車が迫っていた。


「佐藤!」


 宮原の声。

 身体が浮いた。

 空が見えた。

 宮原が走ってくる。

 僕の名前を呼んでいる。

 何度も。何度も。

 ちゃんと覚えてたんだ。まだ。

 その声を聞きながら、僕は目を閉じた。

     

 その夜。

 放送室のパソコンに、新しいファイルが増えた。

rec_2032_06_17.wav

 雨の音。

 車の音。

 遠くでサイレンが鳴っている。

 そして、僕の声。


『宮原』

『まだ、ここに来るんだな』

     

 六年後。

 宮原は放送室の前に立っていた。

 卒業したら来る理由なんてない。

 なのに、毎年この日になると、ここまで来てしまう。


「俺、何しに来たんだっけ」


 答える人はいない。

 宮原はドアを開けた。

 机の上にパソコンがある。

 画面には音声ファイルが一つ表示されている。

rec_2032_06_17.wav

 宮原は椅子に座った。

 再生する。


『宮原』


 顔を上げる。


「……誰?」


 返事はない。

 宮原はスピーカーを見た。

 なぜか、胸が苦しい。

 理由は分からない。

 立ち上がって、ドアへ向かう。

 手を掛けたところで、足が止まった。

 振り返る。

 机の上のパソコンを見て

 何かを思い出そうとした。

 でも思い出せない。


「また来るよ」


 自分で言ってから、首を傾げる。


「……何でだろな」


 ドアを閉める。

 放送室には誰もいなくなった。

 パソコンの画面には、もう一つファイルが増えている。

rec_2033_06_17.wav

 六年後の宮原が知らない、七年後の録音だった。

 再生時間は――

00:00:00

 まだ、何も録音されていない。

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