哀愁という名のフィルター

松田劉也

冬の残響


「哀愁」。そんな言葉は、とうの昔から、僕の感性から消えてしまったらしい。当時は、ワイヤレスの、イヤホンから漏れるガバを聴きながら散歩をしては、なんだか趣深い気持ちになったものだが、今ではこれっぽっちも、そんなものは感じない。なんだか全身が躍動する様な、脳が呼吸をしている様な、そんな感覚。僕の生き甲斐、と言っても過言では無い。でも、今にして思えば、それは精神的な異常だったのかもしれない。その時を思い出しても、良い思い出ではなかった。心には常に、なにか言葉にできない、強く黒ずんだ塊を、吐き出せずにいた。あの冬は、もう二度とやってはこない。今の僕にできる事は、過去を美化する事だけ。それが如何に無意味で、非生産的な行動か、僕は知っている。あの日にぴったりな氷点下の海辺、僕は自販機で買ったドクペを飲みながら、徐々に迫ってくる、「未成年」の肩書きが外れるのを待ちながら、一本のタバコに火をつけて、片手に持った液体を流し込んだ。全てに意味があるかの様に思えた、あの日々が、時間が経つたびに恋しくなる。僕がこの世に生まれてきたかの如く、それは一度しか起こらない。だが、僕は過去に縋れるほど、都合良くは出来ていなかった。今それが無ければ、何の意味もない。現実はいつだって、僕を肯定してくれない。そんな現実は、僕にもう一度、あの哀愁を感じる事を、許してはくれないだろう。あのドーパミンで興奮した視界も、敏感に感じた塩の匂いも、自分の肌の様に感じられなかった腕も、全ては過去の遠い昔話。そもそも、僕が僕ではかの様に感じる事がいささかある。今みたいにに、楽観的で平坦で、注意力も散漫ではなかった。僕は僕を信じられない。自信なんて言葉、とうの昔から忘れてしまっていたのだ。こんな人間に、いったいいつからなってしまったのだれう。僕は生きやすさより、辛くても鬱々としてても、あの感性に触れていたい。僕は僕らしく、生きていたいのだ。そうでなければ、生きる意味なんて、微塵もない。僕は今にも、冷徹な戦艦に突っ込んでみたくなった。不幸にも、このおかげで、何かと便利になったところもある。他人と会話しては、ニコニコしながら言葉を重ねる事ができるようになったし、自分で残した、この醜い左手の塊を、許容できるようになった。これは、この短い人生を生きる上で、僕にとって、極めて重要な事だった。所謂、「社会性」を身につけられたからだ。三年前に勤めたバイト先では、無愛想なガキ程度しか思われてなく、会話もままならなく、半年もしないで辞めてしまった。そんな僕でも、約五ヶ月前に、そのバイト先へ、「復職」をした。理由はこれと言ってなかった。ただ、親から向けられる冷ややかな目線が、僕には耐えられなかった。高校の時は、バイトして偉い、なんて思われるかもしれないが、人間誰しも歳をとり、高校生なんて襷は、一瞬にして受け渡さなければいけない。十八になっても無職と言うのは、僕にはどうも、社会から拒絶されている様な気がしてならず、何か耐え難い罪悪感のような物が、押し寄せてならなかった。大人になるとは、こう言う事なのかと、僕はしみじみ思った。幼い感性が、哀愁というみせかけの言葉と共に、歩んでいただけだったのかと。こんな事なら、大人になんてならず、一生無職の、大人の皮を被った、低劣な子供でありたかった。そんな願いは、短冊に書いても、叶う物ではなかった。タバコを吸っても、前みたいに思いを馳せる事はできない。この世の秩序を、僕は激しく呪う事になる。誰しも大人になって、多くの物を失う。そんな秩序、誰も願ってはいない。神が居なければ、こんな世の中になってはいない。とはよく言った物だ。そんな物がいたら、僕は今まで生きていた環境を、何度ナイフで刺しても足りなかっただろう。昔を思い出しては、いつだって、哀愁を感じていた頃の僕しか、思い出せない。あの僕は、いったい、どこへ行ってしまったんだろう。僕は僕が好きだった。もう一度、こんな僕を、本気で好きになってみたい。掃き溜めの様な、何のために生きているのかも、分からない毎日だけど、たった一つ、哀愁を感じられれば、僕はそれだけで、僕を好きになれる。あの冬に手を伸ばして、一度手にした幸福を、もう一度手にしようと、そんな物を、生きる理由にした。夢物語かもしれない、やはり、もう感じる事はできないかもしれない。それでも、もう一度だけ、賭けてみようと思えた、この煩い波の音と、身を任せて流れる。過去に縋れない僕は、未来を見続けるしかない。この脆すぎるカッターは、次第にすり減り、刃が立たなくなるだろう。そんな物しか、僕にはないのだから、責めて堂々と、この見せかけの刀を、構えるしかないのだ。あの日々は儚く、危うさを保っては、息をころす様な思いだったけれど、僕はそんな毎日を、たまらなく愛していた。だからもう一度、あと一度だけ、立ち上がってみようと、そう思えた、バイトへ向かう炎天下。今日も歩み続ける。

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