第25話 感染症(8)

「・・・と、いうことがありまして」


渋沢は、いままでの出来事を一通り説明した。


「治療法としては、これが良いかもしれない。駄目かもしれない。でも、少なくとも、一人の人間が生き延びたのは確かだ。小新聞にして、皆さんに知らせてもらえませんでしょうか?」


田中徳兵衛は、腕を組んで話を聞いていた。


やがて、豪快に頷く。


「分かりましたわ!」


二つ返事だった。


「こういう時こそ、新聞屋の出番ですわ!」


「助かります」


渋沢が頭を下げる。


ここは、花街の角にある日報新聞社。


普段ならば、朝から記者や印刷工が行き交い、怒鳴り声や笑い声が絶えない場所である。


しかし――。


今日は、どこか様子が違っていた。


机は空いている。


印刷機の音も、いつもより小さい。


そして何より、人が少ない。


「・・・今日は、随分と静かですね」


渋沢が周囲を見渡す。


田中の顔から、先ほどまでの豪快な笑みが少し消えた。


「実はですな・・・」


声を落とす。


「昨日あたりから、コロリ毒がうちにも入り込みましてん」


「・・・何ですって?」


渋沢の表情が変わる。


「社員が何人か、腹を下しましてな」


「まさか・・・」


「まだコロリと決まったわけやありません」


田中は首を横に振る。


「せやけど、念のために休ませてます」


「それで、こんなに人が少ないのですか」


「ええ」


田中は空いた机を見つめる。


「家族が心配して来るなと言う者もおれば、自分から休む者もおります」


「無理もありません」


渋沢は静かに答えた。


「この病は、誰にでも起こり得ますから」


「せやからこそ――」


田中は一枚の紙を取り上げる。


「新聞を止めるわけにはいかんのですわ」


渋沢が田中を見る。


「新聞を?」


「病が広がっとる時に、正しい話が広がらんかったら、噂ばっかり広がりますやろ」


田中は紙を机へ叩きつけた。


「狐や狸の祟りや、怪人の毒や、神さんの罰や・・・」


「そんな話ばっかりが広まったら、余計に人が混乱しますわ」


「・・・確かに」


「なら、ワシらが書くしかありません」


田中は立ち上がった。


「味噌汁でも粥でもええ。安全な水を使うこと。手を洗うこと。患者の吐いたもんや下したもんには触らんこと」


そして、渋沢を見る。


「先生が命懸けでやっとることを、こっちも命懸けで広めますわ」


「田中さん・・・」


「ただし!」


田中は人差し指を立てる。


「一つだけ条件があります」


「条件?」


「記事が売れたら、先生も一部買うてくださいや」


渋沢は思わず目を丸くした。


「こんな時まで商売ですか」


「新聞屋ですからな!」


田中は豪快に笑った。


その笑い声は、いつもの日報新聞社には少しだけ足りない。


それでも――。


静まり返った社内に、確かに響いた。


そして田中は、空いた机へ向かって声を張り上げた。


「さあ、刷りますで!」


「コロリ毒に負けんための小新聞や!」


残った者たちが、一斉に動き始める。


印刷機が、ゆっくりと音を立て始めた。


———


『コロリ毒、治療の方法分かる!』


去る数日来、花街を中心に猛威を振るう「ころり毒」につき、治療の一法が判明せり。


患者に対し、米を薄く煮た粥を少量ずつ与え、これに梅干しのしぼり汁をひとつまみ加えたるものを飲ませたところ、衰弱著しかった患者が快方へ向かいたる例あり。


これは未だ確実なる治療法と断ずるには早けれども、試みる価値あるものと見られる。


なお、一度に大量を飲ませるべからず。


少量ずつ、幾度にも分けて与えるべし。


また、患者の吐瀉物及び排泄物に触れたる場合、また看病の後には、必ず手を清めること。


殊に近頃、舶来の「サボン(石鹸)」なるものが届いており、これにて手をよく洗うことを勧める。


食事の前、厠より戻りたる後、また患者の世話をしたる後には、石鹸を用いて手を十分に洗うべし。


水のみで手を洗うだけでは、汚れを十分に落とせぬこともある。


石鹸を水に濡らし、よく泡立て、手のひらのみならず指の間まで念入りに洗うべし。


飲み水には必ず煮沸したるものを用い、井戸水及び生水をそのまま飲むことは避けるべし。


病は恐ろし。


されど、恐れるのみでは病には勝てぬ。


水を清め、手を清め、食を清めるべし。


一人一人の心掛けこそが、病の広がりを防ぐこととなる。


――日報新聞社 臨時号


———


「おい、こっちにもくれ!」


「あたしが先だよ! 下がってな!」


「なんだと!」


日報新聞社の前には、たちまち人だかりができていた。


刷り上がったばかりの小新聞を求め、我先にと人々が押し寄せる。


「粥で治るんだってよ!」


「梅干しの汁を入れるんだろ?」


「それだけじゃねえ。手を洗えって書いてあるぞ!」


「サボンってやつで洗うんだ!」


紙面を覗き込んだ者が、隣の者へ声を張り上げる。


これまで「ころり毒」といえば、狐や狸の祟りだ、怪人の仕業だ、瘴気が原因だと、様々な噂が飛び交っていた。


しかし今度の小新聞には、違う。


粥を与えること。


梅干しのしぼり汁を加えること。


水を煮沸すること。


そして――。


サボンを使って手を洗うこと。


人々が今すぐにでも実行できる、具体的な対策が書かれていた。


「これなら俺にもできる!」


「うちの婆さんにも教えてやらねえと!」


「おい、石鹸ってどこで売ってるんだ?」


「鉱山の方で配ってるって話だぞ!」


「じゃあ、新聞を持って行けば貰えるのか?」


次々と声が上がる。


新聞を手にした者たちは、その場で紙面を読み込み、家族や隣人へ伝えるため、さらにもう一部、二部と買い求めていく。


「もう一部くれ!」


「こっちにも!」


「売り切れる前に買っとけ!」


田中徳兵衛は、押し寄せる人々を見ながら、汗を拭った。


「こらまた、えらいことになりましたなぁ・・・」


隣では、山本と吉田が休む間もなく新聞を束ねている。


「田中さん、刷っても刷っても追いつきまへんで!」


「分かっとる!」


田中は振り返り、印刷機へ目を向けた。


「もっと刷れ!」


「紙がなくなります!」


「なくなるまで刷ったったらええ!」


「そんな無茶な!」


「病気が広がるよりマシや!」


田中の怒鳴り声とともに、印刷機が再び動き出す。


ガタン、ガタン、ガタン――。


紙が送り込まれ、文字が刻まれ、次々と小新聞が吐き出されていく。


ほんの少し前まで、花街では「ころり毒」という恐怖だけが独り歩きしていた。


だが今、人々の手には一枚の紙がある。


恐怖に対して、何をすればいいのか。


それを教えてくれる紙だ。


「粥を炊け!」


「梅干しを持ってこい!」


「水は沸かせ!」


「手ぇ洗え! サボンで洗え!」


花街のあちこちで、人々の声が響き始める。


そうして、小新聞は飛ぶような勢いで売れていった。


———


しかし、対策が分かったと言っても、それですぐに事態が収まるわけではなかった。


むしろ――。


花街では、日に日に患者の数が増えていた。


味噌汁や吸い物を配り、煮沸した水を用意し、サボンで手を洗うよう呼びかける。


警吏たちも昼夜を問わず見廻りを続けている。


それでも、病の広がる勢いは、それらの努力を嘲笑うかのようであった。


街外れの墓場では、連日のように新たな遺体が運び込まれていた。


一人。


また一人。


時には、同じ家から二人、三人と運ばれてくることさえある。


「こっちはもう無理だ! 反対側へ持って行ってくれ!」


「そこへ置いてくれ!」


「いや、そこはもう掘った!」


「じゃあ、もう少し向こうだ!」


墓掘りをする男たちの怒鳴り声が飛び交う。


だが、掘った穴はすぐに埋まってしまう。


土を掘る。


遺体を納める。


土をかぶせる。


その間にも、また新たな遺体が運び込まれてくる。


「こんなにも・・・」


一人の男が、息を切らしながら呟いた。


返事をする者はいなかった。


皆、黙々と手を動かしている。


やがて、担架に乗せられた遺体が一つ運ばれてきた。


白い布に包まれている。


布の隙間から覗く顔は、まるで生きている者とは思えないほど痩せこけていた。


頬は落ちくぼみ、目は深く沈んでいる。


「生石灰を」


警吏の一人が声をかける。


別の男が、木箱に入れられた白い粉を持ってくる。


これは、渋沢たちが消毒用として用意させた生石灰である。


男は鼻と口を布で覆い、遺体から少し離れたところから、白い粉を慎重に振りかけていく。


さらさらと、白い粉が布の上へ落ちていく。


やがて生石灰が布に含まれた水分と反応し、じわりと熱を持つ。


「もっとかけろ」


「はい」


遺体を包む布の上にも、周囲の土にも、白い粉が落ちていく。


決して丁寧な作業とは言えない。


だが、今は一刻も早く処置する必要があった。


病人の吐瀉物や排泄物が病を広げているのだとすれば、死者の身体や衣類にも、何らかの汚染が残っている可能性がある。


ならば、少なくともそのまま放置するわけにはいかなかった。


「終わったら、すぐに埋めるぞ」


「分かりました」


男たちは遺体を穴へ運ぶ。


そして、上から土をかぶせていく。


どさっ。


どさっ。


土が白い布を覆っていく。


しばらくすると、そこに人が眠っていたことすら分からなくなる。


しかし、墓場の端には、まだ次の遺体が待っていた。


「・・・また来たぞ」


誰かが呟いた。


振り返る。


遠くから、別の担架が運ばれてくる。


その後ろにも、もう一つ。


「おい・・・」


墓掘りの男が青ざめる。


「穴、もうないぞ」


誰も答えなかった。


ただ、スコップを握り直す。


そして、再び土へ突き立てた。


花街では、人々が病と戦っていた。


医者は患者を診る。


警吏は井戸を封じ、街を見廻る。


鉱山の者たちは水を煮沸し、味噌汁や吸い物にして配る。


そして墓場では――。


死者を埋める者たちが、終わりの見えない仕事を続けていた。


コロリ毒は、まだ止まっていなかった。


街の人間が団結して立ち向かわねば、打ち破れぬ強敵であった。


夕日が彼らを照らす。


伸びた影は、終わりの見えないこの状況のように、どこまでも長く街の中へ伸びていた。


朝になれば、また患者が出る。


昼になれば、救護に追われる。


そして夜になれば、どこかで誰かの命が消える。


昨日まで元気に働いていた者が、翌朝には起き上がれなくなる。


家族を失った者が、泣く暇もなく次の看病に追われる。


医師たちは疲労で足元をふらつかせながらも、次の患者のもとへ向かう。


警吏たちは人々を制止し、汚染された井戸を封鎖し、死者を運び出す。


鉱山の職員たちは蒸留器を休むことなく動かし、味噌汁や吸い物を作り続ける。


誰もが疲れていた。


それでも、誰一人として手を止めるわけにはいかなかった。


「また患者が出たぞ!」


「こちらにも運んでくれ!」


「水を持ってこい!」


「サボンはまだあるか!」


街のあちこちから声が飛び交う。


それは、もはや一つの町とは思えぬほどの騒然たる有様であった。


しかし、その混乱の中で、人々は少しずつ変わり始めていた。


昨日まで嫌がっていた煮沸した水を、自ら求める者が現れた。


「味噌汁を、もう一杯くれ」


「うちの婆さんにも飲ませたい」


「サボンをもう一つ頼む」


ほんの数日前まで、誰も信じようとしなかったものを、今では自ら求めている。


病が、人々の考え方そのものを変え始めていた。


だが――。


それでも、病の勢いは衰えない。


一人を救えば、また別の場所で二人が倒れる。


井戸を一つ封鎖すれば、別の場所から患者が出る。


ようやく消毒を終えた家から、また新たな患者が運び出される。


まるで、どこかに潜んでいる見えない敵が、人々の僅かな隙間を縫うようにして襲いかかってくる。


「いつまで続くんだ・・・」


誰かが呟いた。


その声に答える者はいなかった。


いつ終わるのか。


誰にも分からない。


ただ一つ分かっていることがある。


この病に、一人で立ち向かうことはできない。


医師だけでも駄目だ。


警吏だけでも駄目だ。


役人だけでも駄目だ。


そして、政府だけでも駄目なのだ。


水を清める者。


患者を看病する者。


死者を弔う者。


病について知らせる者。


そして、教えられたことを守る一人一人の民衆。


そのすべてが力を合わせて、ようやくこの病と戦える。


夕日が沈み始める。


街の屋根を赤く染め、長く伸びた影が、やがて夜の闇へと溶けていく。


しかし、その闇の中でも――。


蒸留器の火は消えなかった。


救護所の灯りも消えなかった。


そして、病と戦う人々の手も、止まらなかった。


コロリ毒は、まだ止まっていない。


ならば、人々もまた、止まるわけにはいかなかった。

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